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エペソ2:1-10の学び

私たちは神の作品であって、キリスト・イエスにあって造られたのです。

 20109月更新)

 

 

  「豊かないのちの学び26課」は聖書に基づいて、どうすれば新しいいのちをいただくことができ、またそのいのちを成長させることができるのかについて学びます。

「テーマ学習アウトライン」は94課、計120時間にわたり「豊かないのちの学び26課」を詳しく紹介します。
  「エペソ2:1-10の学び」は「豊かないのちの学び26課」の簡略版です。エペソ2110節とローマ18章をあわせて一緒に学びます。全部で18課あり、各回約40分、計12時間の学びです。どうすればいのちを得ることができ、またそのいのちをどのように成長させていくかを明確に説明します。この学びは「豊かないのちの学び26課」の全内容を含んではおりませんが、「テーマ学習アウトライン」は「豊かないのちの学び26課」のすべての内容を含みます。そのため、このテキストには、各課のアウトラインに「テーマ学習アウトライン」の何課にあたるかが記されており、共にあわせて学ぶことができます。願わくは聖霊により、私たちが新しいいのちをいただき、成長していくことができますように。また、聞き読むだけではなく、実際の信仰生活に役立ちますよう祈ります。

 

  共に祈りましょう。親愛なる天の父なる神様、私たちはあなたの御前に来て、あなたを仰ぎ、待ち望んでいます。願わくは、私たちに御手をのべ、満たしてください。あなたは私たちの状況をよくご存知ですので、一人一人の必要に応じて備えてくださることを、感謝します。この学びを御手に委ねます。導いてくださいますようお願いします。心を合わせて、私たちの主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

この学びは、序文と次の4つの部分に分かれています。
序文
1.罪過と罪の中に死んでいた
2.キリストが私たちを生きかえらせた
3.キリストと共によみがえらされた
4.まとめ

毎回、質問形式のアウトラインにもとづいて進みます。よく理解できるように、各課の内容を繰り返し復習してください。

 

 

1、新生した後、あなたは神に喜ばれたいと望んでいますか?どうすれば、神に喜んでいただくことができるのでしょうか?
  神が世人を愛し、ご自分の御子を私たちにくださり、十字架で救いを全うしてくださったことを、感謝します。私たちは信仰によっていのちを得ました。すべての兄弟姉妹が、救われた後にキリストの愛に励まされ、心から神に喜ばれたいと願ったことがあるでしょう。では、神に喜ばれるとはどういうことでしょうか?

 

私は長い間このように考えていました。主を信じたなら、また主がこんなにも私を愛しておられるなら、私は神に喜ばれたい、と。それで、私は聖書に書いてある通りに行おうと思ったのです。聖書には、主を熱心に愛し、たくさん伝道し、多くの実を結びなさいと書いてあります。それで、私は自分の時間と自分の命を神に捧げたいと願いました。ろうそくのように神のために燃やされ、命の限り燃え続けたいと考えました。このような神に捧げる志はとても良いものではありますが、しかし、一体どのようにしてそれを捧げればよいでしょうか。どのような人生、どのような道を歩めばよいのでしょうか?それに神が喜ばれることとは、一体何なのでしょうか?

イエスを信じると、キリストが内側に住んでくださるので、その人の人柄と行いが根本的に変わります。イエスを信じる前は自分に頼っていましたが、今は、イエスに頼らなければなりません。例えを用いるなら、以前私たちは二本の足で歩いていましたが、今は車を運転するようになりました。では、車を運転する時にスピードを構わず暴走してもいいでしょうか。答えは、いいえ、ですよね。しかし、過去の私の奉仕は、まさしくそのような有様でした。神への熱心さだけで、何も考えずに生きていたのです。もし、誰かが私の熱心さを止めようとするなら、私はそれを迫害と見なし、悪魔の働きだと思いました。この様な状況の中で、私の内側では調和もバランスも取れていませんでした。自分と自分の体でさえも調和が取れず、とても疲れやすく、よく怒りました。親子関係において、親としての責任、義務を果たしているはずです。夫との関係においても、妻としての責任と義務を果たしているはずです。同労者との関係においても責任と義務を果たしているはずです。これらのことをきちんと果たしているはずなら、なぜ多くの争い、愚痴、心配、つぶやきがあるのでしょうか。はたして自分の思い通りにすることが主に喜ばれることなのでしょうか。では、聖書には一体どのように書いてあるのでしょうか。

 

2、エペソ210節は私たちに何を教えているでしょうか?
「私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト·イエスにあって造られたのです。神は、私たちが、良い行いに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」この聖句は2つの事を指しています。

1)私という人間はまず神によって「正しい」人として造られなければなりません。なぜなら、人は皆「自己中心」であり、好き勝手に生きているからです。私たちが救われ生まれ変わったのは、神がキリスト.イエスにあって新しい人として造ってくださったということです。新しい人はまだ幼子なので、神は私たちをイエスキリストにおいて養い続け、成長させます。イエスキリストにあって造られ続けていく人こそが「正しい人」なのです。
 

(2)「正しい」人だけが「正しい」事を行うことができます。この聖句には私たちが良い行ないをすべきであると書いてあります。つまり、それは神が私たちにしてほしいと望んでおられることです。世の中にはいろんなことがたくさんあり、やらなければならないこともたくさんあります。教会にもたくさんのことがあり、あなたにできることもたくさんありますが、これらのことを全てするべきでしょうか?1日には24時間しかありません。こんなにたくさんのことをすることができますか?ある人は、自分はこれもできる、あれもできる、と考えます。しかし、「できること」が必ずしも「神があなたにしてほしいと望んでおられること」とは限りません。もし、神があなたがすることを望まれないのなら、あなたがしても、時間が足りず、体もついていかず、神に喜ばれることはできないのです。逆に、神は私たちを自制のない人だと思われます。ですから、全てのことをする必要はないのです。神が私にしてほしいと望んでおられることをすればよいのです。神によって「正しく」造られた人だけが、神の用意されたすべきことが何かを理解する事ができ、神の御旨にそって「正しく」それを行なうことができます。これこそが、聖書に書いてある「良い行ない」なのです。

 

3、エペソ420-24節は、神が私たちをどれほどまでに造りかえられるか、を語っています。
 
この聖句は神がどれほどまでに私たちを造りかえられるかを指し示しています。「滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきことと、心の霊において新しくされ真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された,新しい人を身に着るべきことでした。」 コロサイ310節も古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着、ますます「造り主のかたちに似せられていく」ことを語っています。ですから、皆さん、神が私たちをどのような人に造りかえられるのか、考える必要があります。これはとても大切なことです。教会の中に多くの奉仕があり、私たちは心から熱心に主に仕えたいと願っていますが、人々が私のうちに主を見ることができるでしょうか?主の光に照らされた自分の姿を見てください。自分の姿が主に似たものとされていますか?それは真理に基づく義と聖を表している姿でしょうか?

 

4.神は、真の知識によらず熱心さだけで仕える人をどのように見ておられるのでしょうか
 
生まれ変わったばかりの人は、信じられないほどの熱心さを持って、イエスのために生きることを目標とします。この信念は正しいものですが、しかし、このイエス·キリストのために生きる人とは一体どんな人でしょうか。もし、私がある場所に車で行きたいと思うなら、まず、車の運転の仕方を知る必要があります。目標があっても、運転をする人は、必ずドライバーの教習を受け、交通ルールを熟知しなければなりません。同じように、私たちが新しいいのちを得たならば、新しいいのちの法則に従って生活しなければなりません。ローマ101-4節でパウロはこのように言いました。「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」神は、真の知識によらずに、ただ熱心でだけ神に仕えようとする人を「不従順」だと見なされます。

 

では、真の知識とは何でしょうか。ここでの 「真の知識」とは神の義を知り、神の私たちへの要求が何であるかを理解することです。イスラエル人は神の義を知らなかったため、自分の義を立てようとし、神が何を要求しているかがわかりませんでした。

笑い話になるのですが、私が自転車に乗れるようになったばかりの時買い物に出かけました。買い物かごを自転車の前に載せて走り出したのですが、自転車の前方のバランスがうまく取れないため、真っ直ぐに走ることができません。横断歩道を渡る時、私は警官を見て、早く道を開けてくれるように頼みました。なぜなら、自転車をコントロールすることができなかったからです。私を見た人は、皆笑っていました。私は、彼らがなぜ笑っているのかわかりませんでした。家へ帰ったあとで考えると、自分でもおかしくなりました。交通ルールを知らない私が、自分のルールを作ろうとしたのです。警官は本来交通ルールを維持しますが、私は自分が通れるように警官に命令したのです。そのような自分を思うと、本当に滑稽だと思いました。

 

  神に仕えていく中で、うまく行かない時に、私たちはすぐに悪魔の攻撃だと考えがちです。私は神に仕えているのに、あなたがたは私を迫害するのだと。あなたが神のためにしていることは認めますが、しかし、あなたという人が正しいかどうか、訓練を受けたかどうかが問題です。物事をやりたい放題にはできません。もし、何でも自分の思いに従って行うなら、それは、聖書によると「肉的な人」と呼ばれます。ローマ878節には肉の思いは死であって、神に敵対し、神の律法に従わず、また従い得ないとあります。

愛する皆さん、私が自分の意思で警官に道を開けさせたのは、国の交通ルールに違反していますよね。同じように、自分の意思で神に喜ばれようとするなら、神の御国の法則に反しているのです。神に敵対することであり、神の律法に従っていないのです。ガラテヤ310節には「律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。」とあります。この聖句は、自分の意思、また自分の力で神の要求を達成しようとする者は、神ののろいの下にあると教えています。

 

ですから、このようにまとめることができます。真の知識によらず、自分の熱心さだけでやりたいことをするならば、神の律法に従わず、神の義によらないので、神の敵となり、のろわれた者となります。私がこのことを説明した時、ある姉妹がこう言いました。「これは、難しすぎます。こんなに一生懸命神のためにしているのに、どうしてそのように言われるのですか。」愛する皆さん、これは私が言ったことではないのです。ローマ878節とガラテヤ310節、この2箇所の聖句を良く読んでみてください。特に「神の敵となり、神にのろわれる者となる。」を心に留めてください。

 

5、真の知識 ――神に喜ばれる道はどこにあるでしょうか?

神に喜ばれる道とは何でしょうか?神に喜ばれる 「真の知識」はどこにあるでしょうか?ガラテヤ2章20節には「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と書いてあります。ここで、きちんと確認をする必要があります。私はイエスを信じ、主が私の古き人を主と共に十字架につけてくださったので、主イエスのいのちが私の内に入り、私の代わりに生きていてくださいます。したがって、「真の知識」の第一歩は、自分が生きるのではないということです。なぜなら、あなたはもはや自分のものではないからです。自分が生きるのではなく、キリストに私の内で生きていただくのです。私自身が好き勝手に行なうのではなく、キリストに行なっていただくのです。では、どのようにキリストに私の内で生きていただけばよいのでしょうか?イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」また、ルカ92325節でも言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」

ですから、神に喜ばれる「真の知識」とは何でしょうか?その道はどの様なものでしょうか?それは、いのちを失った後に再び得る「十字架の道」です。私たちは、恵みにより、信仰によって、イエスを自分の救い主として受けいれて救われ、生まれ変って父なる神のもとへ行くことができます。そして、生まれ変った後にも、同じように恵みにより、信仰によって絶えず主の御名を呼び求めるべきなのです。自分の思いで事を行なうものではありません。キリストのいのちが内側で働くことを望む時にのみ、私たちは自然に自分の思いを捨てることができるようになります。先ほどの交通ルールの例えで明らかなように、自転車のルールは、私たちの考えで決まるのではなく、国が定めた交通規則によらなければなりません。それと同じように、私たちの行ないは自分がしたいことをするのではなく、神が望んでおられるようにすることなのです。

 

ローマ108節は信仰の道について語っています。「みことばはあなたの近くにある。」真の知識の道はどこにあるでしょうか?あなたの近くにあります!あなたの口にあり,あなたの心にあるのです。困難に出会った時、自分で解決方法を考えるのではなく、イエスが主であると認め、主に求めましょう。

私は徐さんの証を語るのが大好きです。徐さんは年老いて車を運転することができません。しかし、彼は水曜日の祈り会に参加したいのです。徐さんはある兄弟に連絡し、祈り会に出られるよう迎えに来て欲しいと頼みました。その兄弟は喜んで約束をしました。しかし、その時になると、その兄弟は徐さんとの約束を忘れてしまいました。土曜日に徐さんはその兄弟に電話をしました。「明日は日曜日なので、迎えに来てくださいませんか?」と頼みました。兄弟は「わかりました。」と答えましたが、次の日になると、また忘れてしまいました。この時、どのように「私ではなく、イエスキリストが私の内に生きる」のでしょうか?どのように「いのちを失いまた得る」のでしょうか?愛する兄弟姉妹の皆さん、「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」のです。徐さんは、主がすべてのことを支配しておられることを信じ、口でイエスが主であると告白し認めていました。その兄弟夫婦が徐さんに誤った時に、彼はこう言いました。「主に感謝します。主イエスを賛美します。主の成すことはすべて良いのです。彼は大切な兄弟です。主が彼に忘れさせたのです。主を賛美します!」

徐さんが口でイエスを主と認めた時に、自我が死に、主が生きています。自分のいのちを失い、新しいいのちを得て、その新しいいのちがここで現されたのです。主に従って歩み、あなたの主を認めることが、真の知識の道です。イエスは言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を步むことがなく、いのちの光を持つのです。」ひたすらイエスに従い、このように主を認めるのです。「あなたは主です、あなたがなさったことはすべて良いのです。主を賛美します。」これこそ、真の知識の道なのです。

 

6、この世界で唯一価値あるものとは何でしょうか? "

「真の知識」の道は、いのちを失いまた得る道です。主イエスは言われました。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戾すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」人の一生は忙しさにかまけて自分の命を削り、年老いた時には、長生きするために忙しくし、一分でも命を延ばそうと頑張ります(若い時は命をお金に換え、年老いた時はお金を命に換える、とよく言われます)。はたして、人はいったい何を持っていのちに換えることができるでしょうか?いのちより価値あるものは何でしょうか?一時的ですぐになくなってしまう肉体の命がそんなに大切なら、なおさら永遠のいのち---新しいいのちはもっと大切です。聖書によれば、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。新しいいのちは永遠に残り、天国へもっていくことができるのです。

人生の唯一の価値とは新しいいのちの成長を求めることです。新しいいのちが成長する道を歩む人は、人間関係の中においても、自分自身の中においても、ますます調和が取れ、ますます平安があり、ますます愛にあふれていくのです。新しいいのちの成長を求めることは、けっして山里に身を隠した世捨て人になるのではなく、実際の生活の中で、絶えず自分に死に、またいのちを得ることです。これがこの学びのテーマです。ですから、この世でただひとつ大切なこととは、自分自身を捨て、日々自分の十字架を背負って主に従い、十字架の道を歩み、それによっていのちが成長していくことです。

 

7.いのちの道を正しく歩むために、どのような志が必要でしょうか?

聖書は「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4:23)」と語っています。志はその人の一生を決めます。人はこの世で生きている間、すべてが自己中心で、「わたし」さえ良ければいい、「わたし」と「わたしの家族」さえ良ければいい、「わたし」の周りの人たちが良ければいい、とすべて「わたし」が中心です。範囲の大きさの違いだけであって、「わたし」にはかわりありません。まさしく、人は自分のためだけに生きているのです。

今すでに主イエスを信じて、新しいいのちの道を歩もうとする時、エペソ422-24節は、「心の霊において新しくされ」なさいと語ります。これは、「主よ、私はあなたを私の主と認めます。イエスが『わたし』の内側で生きてください。『わたし』は自分のために生きたくないのです。『わたし』はいのちを手放します。」という意味です。

愛する皆さん、新しくされたいと願いませんか?神の御前で心からこのように祈りたいと思いませんか。「主よ、私はあなたによって心の霊を新しくされたいのです。『わたし』は生きたくないのです。イエスが私の中で生きてください。」と。そう願いますか?もし、あなたがそう願う時、神ご自身が徐々に私たちの内側で働かれます。主に続けてこのように求めて行きましょう。「主よ、私の内側にある生まれつきの『自己』の固い要塞を破ってください。」考えてみると、なぜ他人とけんかするのでしょうか?それは、「わたし」は理解できないし、「わたし」はこのように思うし、「わたし」はこのように言っているのに、あなたはどうしてそうなんですか・・・と、私たちはいつも「わたし」のことで空回りしているからです。

もし、私たちの心の思いが新しくされ、「主よ感謝します、主がなさることはすべて正しいのです。」と主を崇めることができるなら、「わたし」は消えてしまいます。聖霊が私たちの心の思いを新しくし、私たちが心からこのように願うことができますように。「主よ、あなたが私の内側で生きてください。私が生きませんように。自分の力ではできませんが、あなたが私を新しくすることができますから、感謝します。」

大切なことは、イエスに主として生きてもらいたいかどうか、あなたが「自分」を手放したいかどうか、です。「~したい」は私たちの心の願いですが、それをされるのは神です。あなたはそう願いますか?もし願うなら、契約書にサインするのと同じように、神はあなたをそのような人、つまり、自分ではなくイエスキリストが内側で生きる人に造りかえてくださいます。平和の君イエスが内に生きておられるなら、私たちは平安と愛、正義と聖さに満ちあふれるでしょう。アーメン

 

8、Ⅰコリント926節は何を指しているでしょうか?

Ⅰコリント926節には、「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」と書いてあります。愛する皆さん、イエスを信じたあなたは、毎日何を忙しくしているのでしょうか?定まった方向性があるでしょうか?目標とは何でしょうか?日々何を努力しているでしょうか?戦いの中で、あなたは何をしていますか?イエスが私たちにこのように呼びかけています。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と。願わくは、聖霊が私たち一人一人の中で、みわざをなされ、私たちに主の召しに答えさせてくださいますように。「主よ、私は自分を捨てます。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられます。あなたに従って十字架の道を歩みます。心からあなたに喜ばれたいのです。あなたが喜ぶ人に造りかえられたいと願います。」と。

 

救われて新生した後、私はいつも聖書に書いてあるとおりに行なおうとしました。できなければ、それは私が弱いからだと思いました。イスラエル人がエジプトからカナンの地へ旅立った事柄から見ていきましょう。彼らはエジプトを出てすぐにカナンの地にたどり着いたのではありません。神は、火の柱と雲の柱を備え、いつでもどこでも導いて来られました。彼らは雲の柱と火の柱の導きに従って前進しました。雲の柱がいつどこで止まっても、イスラエル人は歩くのをやめました。雲の柱がいつどこで昇っても、彼らは歩き始めました。アンドリュー・マーレーはこのように言いました。神はカナンの地をイスラエル人に指し示しただけではなく、その行く道までも教えられ、雲の柱と火の柱によって、一歩一歩カナンの地に向かって導かれました、と。

カナンの地は私たちが到達すべき聖書の基準のようです。また、私たちの命が成長していくのと同様に、一朝一夕では完成できないものです。主を呼び求めながら、一歩一歩進み、主に従い、「主よ、あなたが生きてください。主よ、このことを導いてください。」と常に実践しながら、主と共に死と復活を経験していきます。聖霊の導きによって私たちは、古い人を脱ぎ続け、新しい人を着て、新しいいのちが成長していきます。そして、聖書の示す要求を徐々に達成できるようになります。ですから、聖書に書かれたことを一生懸命にするのではないのです。それは、自分の努力で聖書の基準に到達しようとすることです。私たちは十字架の道を心に留めなければなりません。それは、神が備えられた聖書の要求と基準の道です。十字架の道および聖霊に従い行なっていくことがこの学びの中心です。

 

愛する兄弟姉妹、私たちは方向性なく走っているのではありません。聖書の真理こそが私たちの目標であり、必ず達成しなければならないものです。では、どのようにして達成することができるでしょうか?繰り返して言いますが、聖霊の導きにより、私という人が神によって造りかえられ続けて、初めてこの目標を達成することができるのです。

例えば、旧約の時代にイスラエルの民が神から離れ罪を犯したため、神は神の箱を敵に渡すことを許され、イスラエルから離れられました。後に、神の憐れみによりぺリシテ人が神の箱をキルヤテ・エアリムへ送りかえしました。ダビデ王がヘブロンでイスラエルの王として立てられた時、神の箱を迎えようとしましたが、それをどのように運んだのでしょうか?なんと牛車に載せたのです。牛が途中でよろめき、車はバランスを崩し、ひっくり返りそうになりました。ウザという人が手を伸ばして押えようとしたため、主の怒りが燃え上がり、彼はその場で打たれて死にました。多くの人が「神様は厳しすぎる。どうして、神様はウザを殺されたのでしょうか?」と質問します。ここで、私も質問しますが、もし、あなたが今、高電圧の下にいて、「高電圧、触れるな」と注意書きがしてあるのに、あなたは触りますか?もちろん触りませんよね。もし触ったら、高電圧のせいにすることができますか?もちろんできません。なぜなら、高電圧に触れてはいけないことが分っているからです。

では、まずはじめに、神の箱には二本の棒を通す4つの輪がついていることを知っていますか?それは担ぐためにあるのです。神の箱は、車に載せて運ぶのではなく、担ぎます(出エジプト25:10-15)。次に、神の箱は触ることができない(民数415)と、聖書にははっきりと書いてあります。この神の箱の事件を通して、人為的な考えとやり方が見えます。神の箱は重すぎるから車で運ぼうと考えたのでしょう。神の箱がひっくり返りそうになったから、支えようと思ったに違いありません。これが、私たちが先ほどから語っている、神に造られた人と造られていない人との違いです。

 

これと同じ様なことが私たちの間でよくありませんか?今日、教会の中でたくさんの事を祈らずに話し合いで決めてしまいます。結果が良くない時、私たちは誰かを遣わしてこれを言わせ、あれをさせ、と全く祈りません。聖霊の導きで物事を行なうのではなく、自分に頼って行なっているのです。これは、ローマ10章3節に書いてあるように、神の義を知らず、自分の義を立てようとしているということで、その結果は神の義に従わないということになります。それは、造りかえられていないため、神のルールに従うことができないのです。そのため、牛車で神の箱を運ぼうとしたのです。牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして神の箱を支えようとしたため、神に打たれて死にました。もし、神によって造りかえられた人なら、神の導きのままに一歩一歩と前進することでしょう。自分の考える通りには行ないません。聖書にすべて聖なるものに触れてはならないと書いてあるなら、私たちは触れません。これこそ、正しい態度です。

今日、多くの人は何か問題が起ると、すぐにいろいろな方法を考えて解決しようとします。どうして祈らないのでしょうか? ダビデは良い模範を残してくれました。まず、神に伺いましょう。神は私たちに恵みを施すために待っておられます。神は待ち望む人を待っておられるのです。神に向かうとき、まず神を聖なる方としてあがめるべきです。「神さま、どうすればよいか教えてください」とまず求めるのです。もし、この祈りができるなら、これこそ「あの方(神)は盛んになり、私は衰えなければなりません」と自分を捨てることなのです。パウロは方向性のない走り方はしないと言いました。言い換えれば、自分がしたいようにせず、何事も主に呼び求め、十字架の道を歩み、自分のいのちを失い、またいのちを得る(新しいいのちが成長する)のです。

私は長年にわたって、このような状況の中で葛藤しました。以前、私は主のためにたくさんのことをしていると思っていました。メッセージも沢山して、多くの人を主に導きました。しかし、私は神の義とは何かわからなかったのです。よく怒りを爆発させましたが、問題は解決しませんでした。私はとても傲慢でした。うぬぼれの問題も解決しませんでした。私は批判しさばくことが好きで、怒りっぽい性格もそのままで、いつも締めくくりには私が最後に一言話をしました。ああ、なんて恐ろしい姿なのでしょうか。メッセージを語り終えるとすぐにそこで怒り、人を批判し・・・・。私は非常に熱心なだけで、方向性のない歩み方をしていました。

 

愛する皆さん、私たちは方向性のない走り方をしないようにしましょう。目標を正しくするだけでなく、また、私自身も正しくし、神によって造られ、絶えず古い人を脱ぎさり、新しい人を着て、神が私たちに望んでおられることをする準備をしましょう。

 

祈りましょう:

愛する天の父なる神さま、心から感謝します。私たちが求めるべき目標を示してくださっただけではなく、その達成するための道まで教えてくださったことに感謝します。主よ、あなたは真理だけではなく、真理に達するいのちと道でもあられますから、感謝します。私たちがあなたに従えば、暗闇の中を歩むことはありません。主よ、私は自分を捨て、十字架を背負ってあなたに従います。自分の命を失いつづけることにより、やっといのちを得ることができるのです。願わくは、ご聖霊がいつも私たちの心を導き、志を新たにさせてくださいますように。わたしが生きるのではなく、イエスさまに生きていただくことができますように。主よ、感謝します。私は志をあなたにお捧げします。あなたがこの志をお守りくださり、私の上にあなたのみわざを成し遂げてくださることを信じて感謝します。栄光が主にありますように。イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン

 

 


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