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【図解一: 罪から来る報酬は死です】解説


   人類の祖先が罪を犯して神にそむき、罪の性質を世界にもたらしたので、人はみな罪に支配されるようになり、罪を犯さずにはいられなくなって、神との断絶である死に至りました。

   「罪から来る報酬は死です。 (ローマ6:23)」 「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。 (ローマ5:12)」 【図解一】. ローマ5章12節から図解一の解説をしましょう。

   「私」:: アダムが罪を犯す前の「私」。ある本では「本当の自分」と表しています。

   「罪の性質」:: アダムの不従順により、罪が彼の中に入り、 「ひとりの人によって罪が世界にはいりました」。 パウロはここで罪を人格化し、罪が権力をもって世界にはいったと書いています。この「罪」を「罪の性質」とよびましょう。

   聖書では「不従順」とも表していますが、つまり「自己中心」のことです。神学では原罪といいます。エバが先に禁断の木の実を食べ、アダムはその後に食べました。しかしアダムは人のかしらであり、罪は彼から子々孫々に遺伝したのです。

   「私」は罪に支配されました:: アダムの不従順により、罪が彼の中に入り、また彼を通して罪が世界にはいりました。「アダム」は罪の性質に支配され、私たち(彼の子孫)全ての人もみな罪の性質に支配されるようになりました。これが 「ひとりの人によって罪が世界にはいり、...こうして死が全人類に広がった」ということです。

   古い人とは何でしょうか? 罪の性質に支配されている「私」のことです。言い換えれば、「古い人」とは罪の性質の奴隷であり、罪の性質は「私」の主人です。。「私は・・・売られて罪の下にある者です。 (ローマ7:14)」とありますが、いつ売られたのでしょうか? アダムは神との契約を破りましたが、実際には罪と契約をしたのです。彼は自分と子孫を罪に売り、罪の奴隷となってしまったのです。 アダムが造られた時には古い人も新しい人もありませんでした。しかし、彼が罪を犯したために、罪の奴隷となってしまったので、神の救いの方法は、人を新しく造り変えることになりました。それで「古い人」と呼ぶのです。

   罪のからだ:ローマ6:6,12-13とヤコブ1:14-15から言えるのは、人が生まれつき罪の性質に支配されているということです。罪の性質が「私」を通してからだを支配し、「私」を肉の欲に従わせ、罪を犯してしまうのです。ですから、私たちは罪の性質に支配され罪を犯さずにはいられなくなり罪のからだとなったのです。

   罪の性質と罪の行ない: 罪の性質とは、内側に種がある様に存在して、「私」を支配している「不従順」のことを指します。罪の行ないとは、罪の性質に支配されて犯さずにはいられなくなった行ないです。ある人が「罪の性質はアダムから来ましたが、罪の行ないは私たち自身が犯すものだ」と言いましたが、おもしろい表現だと思います。

   死: 罪の結果は死、すなわち神との関係が断絶することです。これが「罪からくる報酬は死です」の意味です。もしも主を信じないならば、その人は永遠に神と断絶したままなのです。永遠の死とは滅びです。この死は、義なる神の裁きの前での、裁判官と罪人の関係であることを覚える必要があります。つまり神は世界を裁かれる方であり、この方の前で私たちは罪人なのです。

 

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【神の救いの計画図(死から出ていのちに入る——恵みによって)】解説


   【図解一】. から知ることができるのは、世界の全ての人は皆罪の性質に支配されているので、罪を犯さずにはいられず、死に至ったということです。つまり、私たちは皆生まれながらにして神と断絶しており、神の前には霊的に死んでいるのです。

   神: 圣父、圣子、圣灵三位一体独一的耶和华真神,祂是圣洁、慈爱、公义、永生的神……。在祂面前有满足的喜乐,在祂右手中有永远的福乐。祂是生命,又是生命的源头, “寻得祂的,就寻得生命。也必蒙耶和华的恩惠。” (箴8:35)

   神は人を愛し、救おうとされます: 【図解一】. で見たように、全ての人は生まれながらにして罪の性質に支配されているので、根本的に罪を犯さずにはいられず、死なないわけにはいきません。しかし、神は人を愛しておられ、ひとりでも滅びることを望まず、御自分の命を喜んで人に与えてくださいました。その愛と聖さのゆえに、人を救わずにはおられないのです。
   神の救いの方法は、人類を造り直すことで、罪の支配から脱け出た人類へと造り変えることです: 全ての人が罪の性質に支配されて罪を犯さずにいられないのなら、人はどの様にして罪の支配から抜け出ることができるのでしょうか?そのためには、神が造り変えてくださる他に方法はありません。罪の性質か古い人かのどちらかが死ななければならないのですが、もし罪の性質が死ねば、それはもはや私たちを支配することはなくなります。古い人が死ぬとしても、罪の性質の支配から抜け出ることができます。なぜなら、罪の性質と古い人とは関係がなくなるからです。しかし、その両方が一緒に生き続けるとしたら、罪は永遠に人を支配してしまいます。ですから、神が私たちを罪の支配から抜け出た人へと造り変える必要があるのです。

   神は人を造り変え、ひとり子を救い主とされました: 救い主の資格は、罪がなく、また処罰を受けても滅ばない人でなければなりません。(もし処罰を受けて普通の人のように死んでしまったなら、私たちを救うことはできません)。この世界には誰も完全な人はいないので、神がそのひとり子を、ひとりの人間として地上に遣わし、救い主としてくださらなければなかったのです。

   「神の救いのご計画」―「死からいのちに移る」救い: 神の救いの計画図 神の救いの計画図をご覧下さい。神が人類のためにお定めになった救いは、ご自分の愛するひとり子である、人となられたイエスキリストとその十字架によって完成されました。

   「死からいのちに移る」の意味: :「死から出る」とは「自分の罪過と罪の中で死んでいた」状態から出ること、「いのちに入る」とはキリストの復活のいのちの内に入ることです。

   十字架は真中にあります。その左側は、神の御子が受肉され、人となって地上に来てくださったことを表します。先ほどとても重要なことをお伝えしましたが、神がお定めになる人類の救い主は、必ず人間でなければなりませんでした。しかし、この世界には誰も完全な人はいないので、神は罪のないそのひとり子を、人間である人の子として地上に遣わされたのです。ですから、イエスキリストは完全な神であり、また完全な人であられます。彼はアダムにあって律法の下に生まれてくださいました。 罪深い肉と同じような形で遣わされ(ローマ8:3参照)ましたが、罪の性質がなく、罪に支配されず(ヘブ7:26参照)、罪は犯されませんでした(来4:15)。 そして、絶対的に神に服従し、完全に律法を守り、一生苦しみの人生を送られました。

   左側に真中の十字架に向かって矢印が描いてありますが、これは主イエスの最後のアダムとしての身分を示しています。神のご計画に従い、アダムにあるものすべてに終止符を打ち、十字架の上で全人類の罪のために死んでくださいました。

   【Ⅰコリ15:45-49】 には、「最初の人アダムと最後のアダム、第一の人と第二の人」について書かれていますが、最初の人アダムは罪の性質を世界に持ち込み、人(アダムの子孫)が罪を犯さずにはいられなくしてしまいました。しかし、最後のアダムは人の罪を取り除き、罪の束縛から解放します。また、血を流して人の罪を代わりに負い、彼の受けた死と埋葬によって私たちを罪の束縛から自由にしてくださいました。彼は全ての古い人を墓に葬り、アダムにあるすべてを断ち切られたのです。主イエスは死と埋葬により「死から出て」(神との断絶である死の状態、つまり「アダムの内から」出て)、復活された時には、第二の人であり新しい人のかしらとなってよみがえられたのです。「いのちに入る」とは、キリストの復活のいのちの内に入ることです。その後彼は昇天され、神の右の座に着かれました。父なる神は、彼の御名のゆえに聖霊をお遣わしになり(ヨハ14:26参照)、救いのみわざを行なわれます。

   「キリストにある」と「アダムにある」、「第一の人―古い人のかしら」と「第二の人―新しい人のかしら」、「古い人」と「新しい人」、「律法の下」と「恵みの下」、「サタンの権力の下」と「御子の御国」: 神の救いの計画図の十字架の左側が「アダムにある」状態で、右側は「キリストにある」状態を表します。私たち全ての人は「アダムにあって」生まれますが、主イエスキリストは死と復活を通して「キリストにある」新しい人類を起こしてくださいました。「アダムにある」とは、「第一の人」にあるということで、「キリストにある」とは、「第二の人」-新しい人のかしらにあるということです。左側のアダムにある人は「古い人」と呼ばれ、罪の性質に支配され、罪過と罪の中で死んだ罪人で、右側は罪の性質の束縛から解放され、キリストと結びあわされた「新しい人」です。左側の人は律法の下にあって自分の考えと努力によって行動し、右側は主イエスが起こされた新しい人で、恵みの下で聖霊に頼り、従順に生きます。「アダムにある」人はサタンの権力の下にあり、主イエスが新しい人類を起こされたのは、御子の御国(光の御国)へ人々を移すためでした。ですから、神の救いの計画図は、神が「恵みによる」救いをどの様に定め完成されたかを表しています。 すべては恵みであり、神がすべてを成してくださるのです。ハレルヤ!

  

 

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図解二 死からいのちに移る—— 信仰によって(神を信じた時)】解説N


   【神の救いの計画図】 ですでに見てきましたが、主イエスキリストは十字架の死によって「アダムの内」から出て「キリストにある」状態に移られ、「死からいのちに移る」救いのみわざを成し遂げてくださいました。神がイエスキリストを通して救いを完成されたのは、完全に神の恵みにより(少しも人の努力によるものではなく、ただで受けることができる)ますが、どのように私たちの上に成就したのでしょうか?それは私たちの「信仰によって」なのです。信じるとはどういうことでしょうか?「信じる」とは、ヨハネ1章12節に 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」 とあるように、「受け入れる」ことです。私たちがイエスキリストを自分の救い主として受け入れ「主よ、私は罪人です。心からイエスを私の救い主として受け入れます。」と主の御名を呼び求めた瞬間、私たちはキリストと結び合わされ、私たちの古い人は主とともに十字架にかけられました。主イエスの死は私たちの代わりであって、また私たちの死でもあり、主イエスの埋葬は私たちの代わりであって、私たちの埋葬でもあり、主イエスのよみがえりは私たちの代わりであって、私たちのよみがえりでもあります。言い換えれば、私たちが主の御名を呼び求めた瞬間、主とともに死に、ともに埋葬され、ともに復活したのです。私たちはイエスを救い主として受け入れたその時、内側に新しいいのちが与えられたと感じたのではないでしょうか?イエスを信じたいと願う人は、イエスを救い主として受け入れるなら救われて生まれ変わり、神の子どもとなる事実を知るだけで十分ですが、聖書には、いのちの成長に関しても、その過程について明らかに示しているのです。

   【図解二】. の上の行には、「は以前罪の性質に支配され、古い人となり自分の体を罪の奴隷とし、を犯さずにいられなくなり、に至った(神と断絶した)」と書かれています。これは【図解一】で表していた内容「私は罪の性質に支配され、古い人となり、自分の体を罪の奴隷とし、罪を犯さずにいられなくなり、死に至った(神と断絶した)。」と同じです。

   下の行には「は今、主の御名を呼び求め、義(主キリスト)と結び合わされ、「古い人」が主とともに十字架につけられ、キリストが私を解放して、キリストとつながり(罪の性質は死んではいないが、私の主とはなることができない)、新しい人になり(新しいいのち――永遠のいのちを得る)、新しいいのちの乳飲み子となる。」と書かれています。古い人は罪の奴隷であり、罪の性質に支配されていましたが、私たちが主の御名を呼び求めた時、イエスとともに十字架につけられ、罪の奴隷であった古い人の身分は死にました。古い人が死んだので、「私」は罪の奴隷の身分から解放されて、罪の支配から抜け出すことができました。解放された「私」は主人を持たずに独立した存在でいることはありえません(マタイ6:24参照)から、すぐにキリストとつながり、キリストがいのちの主となられ、私たちは新しい人とされます。

   神の救いの計画の中でとても重要なのは、罪の性質は死んではいないが、「罪はあなたがたを支配することがない (ローマ6:14)」 ということです。私たちが救われ生まれ変わったその日から、私たちはすでに自分をイエスに明け渡し、イエスのもとに帰ったのです。罪は私たちの主にはなれず、イエスだけが私たちのいのちの主となるべき方なのです。ハレルヤ!

   感謝なことに、私たちは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。恵みのゆえに、主イエスは十字架の上で救いの計画を全うしてくださいました。【神の救いの計画図】 から、主イエスは十字架の上で一切を成し遂げてくださったことがわかります。私たちは信仰によってイエスキリストとつながったので、アダムにある状態からキリストにある状態へ移され、これらのことがみな私たちの身に成就したのです。私たちは古い人で、罪に支配され、罪過と罪の中に死んでいた罪の奴隷でしたが、今は信仰によってキリストとつながり、死からいのちへ移され、生きかえって、義人、新しい人、主のものとされました。私たちはアダムにある者で、律法の下で自分の力に頼っていましたが、今は信仰によってキリストにある状態へ移され、恵みにより聖霊に従い行動するようになりました。私たちはアダムにあり、サタンの権力の下に生まれましたが、今は信仰により御子の御国に移されたのです。ハレルヤ、なんと素晴らしい救いの恵みとご計画なのでしょうか!

 

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     自分に頼る:「人間的な考え(自分や人)、知恵、才能などによって」全てを解決することだけを考える。

   神に頼る:人や物事に直面する際に、「自分の弱さと限界を認め、自分や人に頼るべきではなく神に ゆだねるべきことを覚え、キリストがいのちであり、私たちを助けて弱さから解放してくださり、私たちの内に全てを成してくださること」だけを考える。

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【図解三:「私」の選択と結果】解説


   【図解二】ですでに見てきましたが、全人類は罪の性質に支配され「罪過と罪の中で死んでいました」。しかし、神の憐れみと愛と恵みのゆえに、愛するひとり子が人としてこの世界に遣わされ、死からいのちに移す救いの計画を完成されました。すべて主の御名を呼び求める者はキリストにつぎ合わされて、主とともに死に、罪の支配から解放され、キリストとつぎ合わされて、主とともによみがえり、新しく造られた者となります。もはや私たちが生きているのではなく、キリストが私たちのうちに生きておられるのです。 ハレルヤ!キリストは私たちのいのちであり、私たちのうちにすべてを成してくださいます。救われた私たちはどれほど主に喜ばれたいと願うことでしょうか。

   大切な事実をもう一度確認させていただきます。神の救いの計画の中では、罪の性質は死なずに続けて私たちの内にあるのですが、私たちを支配することはできないのです。【図解三】.では、救われて生まれ変わった後、信仰によってキリストに私たちの主となっていただくか、あるいは理性による分析で罪の性質が主となってしまうか、のどちらを選択するかにより、新しいいのちが成長するか、あるいは父なる神との交わりが断絶してしまうか、の違った状況が生じることがお分かりでしょうか?もしも理性による分析の方に行き、罪の性質が主になってしまうと、古い人のすべての状況が出てきて、結果は必ず死(父なる神との交わりの断絶―肉的な、キリストにある幼子の状態)に至り、ねたみや敵対心、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ない(ヤコブ3:16参照)に向かってしまいます。しかし、主を信じ主に従い、絶えず主を崇めるならば、キリストとの関係が更に深くなり、結果的に新しいいのちが成長して、愛、喜び、平安、寛容などの御霊の実を結ぶことができるのです。

【図解二】【図解三】:の違い:

【図解二】は、主を信じていなかった人が信じるようになったその時のことを表しています。 主を信じる前には、罪に支配された古い人でしたが、信じて(イエスキリストを個人的な救い主として受け入れて)罪の支配から解放され、キリストとつぎ合わされた新しい人、すなわち新しいいのちの幼子となりました。罪の性質はまだ内側にありますが、もう私たちを支配することはなく、また支配することもできません。

【図解三】は、主を信じた後のいのちの成長について示しています。 私たちは主を信じ罪の束縛から解放され、キリストとつぎ合わされてキリストのもとに帰りました。キリストは、かつて罪の性質がしていたように私たちを支配することはありません。神が私たちを救ってくださるのは、自由意志をもって従う人(ローマ12:1、Ⅱコリ5:18参照)を求めておられるからなのです。自由意志の選択により、神に頼るか、または、自分に頼るか(信仰によるのか、見えるものに頼るのか)によって、「新しいいのちの成長」または「父なる神との交わりの断絶(肉に生きる幼子の状態)」という二つの全く逆の状況が生まれます。新しいいのちは「信仰に始まり信仰に進む」ことによって健やかに成長します。「信仰に始まり」とは、イエスが私のために十字架について死んでよみがえってくださったと信じ、救われ生まれかわることです。「信仰に進む」とは、キリストとともに十字架につけられ、日々自分の十字架を背負って主に従い、聖霊に従って行なう十字架の道を歩み、古い人を脱ぎ続け、新しい人を着て、新しいいのちが成長していくことです。

   神に頼る生き方とは、信仰の歩みであり十字架の道です。自分の意にかなわない人や物事に出会うとき、心に人のすべての考えにまさる平安が与えられる(完全にキリストに心を明け渡し、聖霊がよどみなく働かれるようになる)まで、神の主権と神が主であられることを認め、主の御名を呼び求めて崇め賛美します。そして、心に平安が与えられた通りに、周りとも調和がとれるように行なっていくのです。 (詳細については、「エペソ2:1-10の学び」の中の「キリストとともによみがえる」をご参照ください。)


   新しいいのちが成長することは、神が私たちに望んでおられ、神が喜ばれることなのです。

   【図解三】から考えましょう: なぜ救われて生まれ変わったクリスチャンは、神に喜ばれることを願い求め、熱心に奉仕したいと思うのに、たくさんの「心の葛藤と痛み」と「不調和」な状況を招いてしまうのでしょうか?すでに救われた者の自由意志の選択と、神に喜ばれる正しい歩みと間違った歩みにはどのような関係があるのでしょうか??

   上の行について:私たちが自分に頼ること(律法の下に生きるなら、実際には「自分に頼る」ことになります)を選ぶとき、再び罪に支配され(ローマ6:12-14参照)、古い人が現れ、自分の体を罪の奴隷とし、を犯さずにいられなくなり、に至ります(父なる神との関係が断絶します)。すなわち、私たちが日々自分の意にかなわない人や物事に出会うとき、もし聖書の基準と自分の力によって行動する(これも自分に頼ることと律法の下に生きることになります)ならば、罪の性質がまた活動し始め、再び私たちを支配してしまう、ということです(ローマ7:5,11,21-24参照)。特に、罪の性質がひそかに非合法的に私たちを支配しようとする、ということに注意しなければなりません。なぜなら、私たちの本当の主となるべき方はキリストだからです。私たちが罪に支配されてしまうと、すぐに古い人の状態となり、自分のからだを肉の欲に従わせ、罪を犯すようになり、その結果は死(父なる神との交わりの断絶)に至ります。これはローマ8章6節にある「肉の思いは死である」ということで、その「思い」とは、心を集中させるという意味です。救われて新生した人が、もし自分に頼って生きるなら、それは肉のからだと呼ばれます。「肉の思い」は人の方法で何とかして問題を解決しようとし、その結果は死に至る(神との交わりが一時的に途絶える)のです。 ここでの死と 【図解一】の死とは違います。【図解一】 の死は、神の正しいさばきの前での死であって、義なる裁判官である神が罪人に下す判決です。わかりやすい言葉でいえば、地獄に行く運命、つまり神と断絶することです。しかし、ここでの「死」は、救われて生まれ変わり、父なる神の家族となったにもかかわらず、自分に頼ってしまい、神との交わりが一時的に断絶してしまうことなのです。 神に喜ばれることを願い求め、熱心に主に仕えたいと思うけれども、「自分に頼り主のために」がんばって、結果として様々な「不調和」を招いた、という経験は誰にでもあるのではないでしょうか。そうなると、お祈りさえできなくなってしまいます。

   下の行について:私たちが神に頼って十字架の道を行く(主の御名を呼び求めて御名を崇め、自我から解放されるよう主に助けを求め、更に主と結び合わされ、自分の体を聖霊に従わせる)ほうを選ぶとき、死ぬべき体がよみがえって、義を行なうことができるようになり、新しいいのちが成長していきます。できごとにあった時、自分に頼らず、主に頼って「主よ、助けてください。主よ、あなたに感謝し、賛美します。すべては私の品性をきよめて益としてくださるためだと信じます…」と祈るなら、その結果はどうでしょうか? 前にもお話したのですが、もう一度あのご年配の兄弟のことを例話にしたいと思います。彼はある兄弟に連絡し、水曜日の祈り会に参加したいので迎えに来て欲しいと頼みましたが、その兄弟は約束を忘れてしまいました。土曜日になって、彼はまたその兄弟に電話をし、明日の主日礼拝のために迎えに来て欲しいと頼みました。その兄弟は、今度は決して忘れないと答えたのですが、次の日になると、また忘れてしまいました。二回とも忘れたのです。次の週彼に会った時、私が「XXさん、大変でしたね。」と声をかけると、そのご年配の兄弟は、「主に感謝し賛美します。主の成すことはすべて良いのです。彼は良い兄弟です。主が彼に忘れさせたのです。主に感謝します。」と言ったのです。この様な時、もしも「自分に頼る」なら、きっと次のように考えるのではないでしょうか。「ああ、怒っちゃいけない、怒っちゃいけないけど、どうして何度も忘れたのだろう。私のことを見下しているのだろうか…いや、そんなふうに思ってはいけない。そうは思わないで、主の栄光を現さなければ。」これは我慢であって、決して神により頼んでいるのではありません。我慢ならば、感情を押し殺しているだけです。もしそうなら、子供たちや配偶者に軽く話すだけで済むかもしれませんが、その時にはうまくいっても、また何回も同じことが起ったら、次にはきっと爆発してしまうのではないでしょうか?ですから、自分に頼った結果は必ず死に至るのです。最大の罪は 「自己中心」であって、他の人が私をどう見るか、どう思っているか、どの様に扱っているかが気になります。年老いて役に立たなくなったと思っているのではないか、等と考えるのです。ところが、この兄弟は「主よ、感謝します。どうぞ私が自我から解放されますように助けてください。主よ、あなたがなさる事はすべて正しく、すべては私のいのちを成長させてくださるためですから感謝します。」と、神により頼んだのです。 この様に、折りにかなって主に感謝するならば、主との関係が更に近くなります。主に感謝し、主を呼び求めるなら、神は求める人に聖霊をお与えになり(ルカ11:13)、聖霊に従わせてくださいます。 私たちはもともとつぶやいたり疑ったり、自分がたいした者であるかのようなふりをしてしまいがちです(ピリ2:14参照)。ですから、日々起るひとつひとつの小さな出来事において、主に呼び求め、主に感謝し賛美し、聖霊に従い、主とともに死んでともに生きるべきです。 それぞれの具体的なことを通して、死ぬべき体を少しずつよみがえらせていただき(ローマ8:11-13、Ⅱコリ4:14、ピリ3:9-11)、絶えず古い人を脱ぎ捨て新しい人を身に着るのです (エペ4:22-24)。 このように少しずつ復活しての行ないこそが正しい行ないです。律法の義は肉の努力によって全うすることはできず、信じて従順に従い、御霊によって導かれて歩むことを通して(ピリ2:12、ガラ5:16、25参照)全うされます。また、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱きつつ(ガラ5:5参照)、肉に従って歩まず、御霊に従って一歩ずつ歩むことを通してのみ、私たちの中に律法の要求が全うされる(ローマ8:4参照)のです。これこそが「聖徒たちの正しい行ない(黙19:8)」です。「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。(黙19:7-8)」 皆さん、感謝なことに、主は私たちのために新しく、また生ける道を開いてくださったのです。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです…。(ローマ10:8-10)」 ハレルヤ! なんと心軽やかで自由な道なのでしょうか。 「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。(ヨハネ14:31)」
   【ラザロの死とよみがえりの図】では、図一が「私たちは自分の罪過と罪との中に死んでいた」を、 図二が「神によって生かされる」を表します。 図三 は「私たちをキリストと共に復活させた」を表しますが、それは、十字架の道を歩み、自分の十字架を負って主に従い、「イエス様を賛美し感謝します。そうです。すべては主のみこころであって良いことです。栄光をいと高き神に帰し感謝します。」と、日々絶えず主を崇めるなら、常に主とともに死にともに生きることができる、ということを示しています。私たちの巻き布も少しずつ解けていき、絶えず古い人を脱いで新しい人を着ます。それは、罪の行ないを少しずつ脱ぎ、善の行ないを身に付けることなのです。図四 では、もし十字架を負って主についていく道を行かずに、「私は考えてはいけない、話をしてはいけない、…してはいけない。」と自分を制しようとするなら、それは、巻き布で更に縛り上げたり、その上にきれいな服で着飾ることと同じだということを表しています。この様な道は苦しくて、祈りさえしたくなくなってしまいます。

   ですから、神に喜ばれ、神の義に至る正しい道は、自由意志で「主に頼る」方を選び、十字架の道を歩むことです。もしそうではなく、「自分に頼り」神に喜ばれようとする方を選んでしまうなら、それは誤った道です。 【図解三】【ラザロの死とよみがえりの図】 は非常に一致しています。「自分に頼る」と、頑張りもがき、縛られ、本当に苦しいことです。しかし、「神に頼る」なら、日々十字架を負って主についていき、平安と自由、解放と喜びに満たされるのです。





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