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解説
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト•イエスにあって造られたのです。 神は、私たちが良い行ないに步むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)」私たちは救われて生まれ変わった後、すべてを捧げ、一生懸命主に仕えることこそが神の前に有意義で価値のある金、銀、宝石の働きであって、この様に奉仕する「私」はきっと神に喜ばれる人になれると思い込みがちです。
しかし、私たちは「恵みのゆえに、信仰によって」救われ、新しいいのちを与えられた「新しく造られた者」であって、まだ幼子にすぎないことを知らないのではないでしょうか。救われた時と同じように、「恵みのゆえに、信仰によって」神に造り変えられ続け、成長し成熟していかなければならないのです。その様にしてはじめて、神が備えてくださった良い行ないをすることができるのです。
この図では、ラザロを恵みを受けた人に喩え、ラザロの死とよみがえりの話(ヨハネ11:38-43)をエペソ2:1-10と共に合わせています。私たちの信じる三位一体の唯一の神が、私たちをどのように造られ、いのちを与え、成長させ、少しずつ古い人から解放し、新しい人と変えてくださるかについて共に考えていきましょう。この図の要点は、いのちの成長の道をどの様に歩めば良いかということです。
私たちはもともと罪過と罪との中に死んでいました (図一)。しかし、神が私たちを生かし、救い、生まれ変わらせてくださいました
(図二)。全身を長い布(古い性質、古い行ない)で包まれた私たちに、主イエスは「彼をほどいてやって、帰らせなさい。」と命じられました。 それは日々十字架を負って主に従い、絶えず古い人(巻き布)を脱ぎ捨て、新しい人(造り主のかたちに似せられた)を着るようにということです
(図三)。そうすれば、私たちは神が望まれる良い行ないをすることができるのです。もし、私たちが十字架の道を歩まず、自分の力で良い行ないをしようと頑張り、自制し、古い性質を隠そうとしても、自分自身が苦しむだけではなく、神ののろいのもとにおかれることになってしまいます(ガラテヤ3:10)。
ラザロが死んで、布に巻かれています。それは、私たちが神の御前で罪過と罪の中に死んでいる姿を表します(エペソ2:1)。なぜなら「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(ローマ3:23)」、神の御前では、「義人はいない。ひとりもいない。(ローマ3:10」「私たちはみな,羊のようにさまよい、おのおの自分かってな道に向かって行った。(イザヤ53:6)」ので、「彼らは、その知性において暗くなり、… 神のいのちから遠く離れています(エベソ4:18)」。ですから、死んでいる人と同じ様なのです。
主イエスが大声で、「ラザロよ、出てきなさい。」と叫ばれると、ラザロは手足を長い布でまかれたまま出て来ました。このことを、信仰によって私たちが生きかえったことを表すとします。(エベソ2:1)
神が救いを備えてくださったことに感謝しましょう。イエスキリストを十字架につけることにより、人々が救われたのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)」私たちが救われたのは、「恵みのゆえに、信仰によって」です。主につぎ合わされ、救われ、生まれ変わり、新しく造られた者となった(生きかえった)のです。
主を信じて間もない時、私たちは愛と喜びに満ち、イエスのために生きたいと願い、一生懸命神に喜ばれようとします。しかし、まだ新しく造られた者(新しいいのち)の幼子にすぎないのです。ローマ8章10節に「からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」と書かれているように、新しいいのちはありますが、内側は古い性質、古い行ないに満ち、ラザロがよみがえった時と同じ様に、全身を布で包まれ、まだ正常な生活をすることが出来ないのです。
主イエスが「彼をほどいてやって、帰らせなさい。」 と言われたことは、私たちが正常なクリスチャン生活を送り、本当に主のために生きるには、まず先に古い性質と古い行ないを離れなければならないことを示しています。私たちの古い性質、古い行ないは「(神が)わたしたちをキリストイエスにおいて、ともによみがえらせ(エペソ2:6)」てくださる時に、はじめて解け落ち続けることができるのです。これはどういうことでしょうか。なぜエペソ2章1節、5節では、私たちがすでに生かされているのに、更に今キリストと共によみがえなければならないのでしょうか。
救われ生まれ変わったひとりひとりのために、神はいのちの成長に益となるご計画を持っておられます。それは古い人を脱ぎ新しい人を着ることのできる計画であり、日々十字架を背負って完成するものです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて來なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。(ルカ9:23-24)」とイエスは言われました。私たちは日々の生活における十字架、つまり、自分の意に合わない人や物事などを主に委ね、イエスが主であり、すべて成し遂げてくださると認める必要があります。それによって、主とともに死に、ともによみがえることを経験し、キリストの復活の力を表すことが出来るのです。日々十字架を背負うことによって、私たちは「恵みのゆえに、信仰によって」絶えずキリストと共によみがえります。巻き布が少しずつ解けて、徐々に主の栄光の姿を身に付けることができるのです。
もし、私たちが「恵みのゆえに、信仰によって」主に頼る道を歩まず、自分の努力によって善を行なう道を歩もうとするなら、まず、行ないたい善を行なうことはできず、第二に、神に敵対する者、神にのろわれた者となり(ガラテヤ3:10、ローマ8:7)、第三に、古い性質を脱ぎ去ることもできません。できるだけ隠したり、自制したり、苦行のようなことをしても、古い性質を脱ぎ去ることなどできないのです(コロサイ2:20-23)。それは、図の中の人のように、布で更に縛り上げ、その上に服を着て隠すのと同じです。その結果は必ず葛藤し、苦しみ、「私は、ほんとうにみじめな人間です。(ローマ7:24)」と嘆くようになってしまいます。
けれども、神に感謝すべきことには、イエスキリストと十字架により、また、私たちの信仰により、聖霊がキリストにあって、私たちを生まれ変わらせてくださり、新たないのちが与えられたのです。願わくは、この信仰の道を歩み続け、日々自分の十字架を背負い、主に従っていくことができますように。聖霊の力に頼り、絶えず古い人(巻き布)を脱ぎ去り、造り主のかたちに似せられた新しい人を着ることができますように。そして、新しい人が少しずつ成長し、神が備えられた良い行いをすることができますように。いかなる人の考えや方法をもって悪い行いを征服しようとしても、すべては無駄なことです。なぜなら「この方以外には、だれによっても救いはありません。(使徒4:12)」ので、聖霊によって始め、聖霊によって全うするべきだからです(ガラテヤ3:3、5:25参照)。
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