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はじめに

 

王 恩 (ワン·エン)

 

私は、とても敬虔で熱心な主を愛する家庭に生まれました。子供の頃から、キリスト教教育の深い影響を受けてきました。しかし、長い間、私は表面的に敬虔な信仰生活をしているだけでした。主イエスキリストや神との霊的関わりはまだありませんでした。しかし、それでも自分では、良いクリスチャンだと思っていました。実際には、私は救われておらず、生まれ変わってもいませんでした。

神の恵みと憐れみにより、私は1952年に生まれ変わることができました。宝を見つけたように心は喜びで満たされました。それから神学の本を読むようになり、特に、基礎教理と教義神学の本を比較的多く読むようになりました。これらの本と牧者の教えにより、私の内側に確かなキリスト教信仰が築かれたことを主に感謝しています。

主を信じた後の私は、とても熱心なあまり、暴走する車のようでした。交通ルールを無視し、ガソリンと水がないのもいとわずに、あちこちにぶつかりながら、自分の思うまま必死に走ろうしていたのです。いろいろな奉仕をすれば、それが「多くの実を結ぶ」良いクリスチャンなのだと思っていました。しかし、実際の生活の中で、同労者、家庭、あるいは自分自身の中においても、いろいろな不調和が出てきました。これは真理に合わない、それは誤りだと思うと、真正面からまたは背後でいろいろ意見を言いました。しかし、これらの不調和はすべて他人のせいだと思っていました。私こそは主に献身し、主のために迫害を受けている、と思っていたのです。その一方で、聖霊が絶えず私の内側にある悪い性格を照らし出したので、私はローマ人への手紙第七章の葛藤に落ちいりました。ある信仰書を通して、私は神との関わりを追い求めようとしながらも、ただ個人的勝利の道を歩み、自分の平安だけを求めていたことを、聖霊の光に照らされることによって見せられました。また、新しいいのちと家庭、教会、社会との互いの関係について大切に考えていなかったことも示され、自分のあるべき責任と義務を果たしていないことに気付かされました。それゆえに、多くの不調和が出てきていたのです。これらの不調和により批判を受ける時、私は、神の御前でその原因がどこにあるかを探り出すのではなく、反対に自分は心に平安があるのだから、きっと人のせいなのだと思いました。あるいは、悪魔の攻撃と見なしました。自分こそは主のために苦しみを味わい、主のために迫害を受けているのだと。まったく自己中心で、哀れな者でした。

さまざまな多くの不和の中で、私は父なる神の恵みと憐れみを祈り求めました。それ以来ずっと、私の内側のいのちと外側の実際生活をどのように結びつければいいのか、つまり、ピリピ216節「いのちのことばをしっかり握って(注:中国語の訳では『いのちの道をあらわす』となります)」にある、いのちの道はどこにあるのか、と祈り求めました。私はそのようないのちが欲しいと思いました。「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。(ピリピ2:1415)」とあるようにです。神が私たちにいのちをお与えになったのは、ただ内側のいのちの成長を求めるだけでなく、外側へいのちが流れ出し、表されるためのはずだ、と確信しました。実際に、正しく新しいいのちを求める人は、自分と神との関係(内なる平安)のみに関心をもつことはできません。真理に背かないという前提において、家庭と教会、兄弟姉妹、または社会の人々との関係が平和であるよう求めるはずです。不和の中で、私は以下のことを自分に問いかけました(実際には聖霊が私の心の中で働かれました)。

 

まず、小羊の婚宴の時に聖徒たちが着ることを許される、光り輝くきよい麻布の衣とは、彼らの正しい行ないです。私が必死に奉仕をしても、不調和を起こしてしまうのなら、それは正しい行ないだといえるでしょうか?

次に、キリストのさばきの座では、人を自由にする律法によってさばかれる、とありますが、なるほど、もともと私たちの言葉と行いにはルールがあるのだ!と悟りました。いつも、生まれつきのままの性格と熱意とで生きている私は、人を自由にする律法に従って話し、また行動することができているのでしょうか?では、人を自由にする律法とは何でしょうか?

そして、キリストが教会を迎えに来られる日に、火によって一人一人の働きの真価が明らかになりますが、私が今日行っていることすべては、金、銀、宝石の働きでしょうか?それとも、木、草、わらでしかないのでしょうか?

私は「自由と解放の道」をずっと探し求めてきました。私の魂は乾き、天の父の独り子が与えてくださる自由、その真の自由の祝福を得たい、と声を上げて求めました。。では、その道はどこにあるでしょうか?「求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見つかります。叩きなさい、そうすれば開かれます。」主の御名を賛美します!イエスはすでに、「いのちの道」を私たちに告げておられたのです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と。ご聖霊もパウロを通して私たちにこの道についてこう語っています。「御霊によって歩みなさい・・・」、「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寬容、親切、善意、誠実、柔和、自制です・・・」(ガラテヤ516,25,22-23)。私は完全に降服し、こう言いました。「私は正しくご聖霊に従い、頼る道を歩んでいません。実を見ればその木がわかります。どうして私は人間関係の中で平和の実を結ぶことができないのでしょうか?」と。

主をほめたたえます。長年、生まれつきのままの性格と熱意でぶつかり続け、失敗と葛藤を経験し、ついに、神は私の心を目覚めさせ、一本のいのちの道を示してくださいました。「良い行い」や「金、銀、宝石の働き」を得るためには、「人を自由にする律法による言葉と行ない」が必要だったのです。それは聖書に次のように書いてあるとおりです。

「『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』ということであり、私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです・・・『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。(ローマ108-13

 

このような私の状況は以下の聖歌のようです。

 

さまざまな苦難を乗り越え

いろいろな苦しみを経て

今、主の御前に来た

主の恵みにたより 守り支えられ  

恵みによって永遠に入る。

 

これこそ、「主の御名を求める道」だったのです!「死からよみがえられた栄光の主、栄光の王を主と認める」道であり、「聖霊によって入り、聖霊に従い頼って歩む」道です。つまり、「十字架を背負って主に従う」道であり、「いのちを失い、また、いのちを得る」道なのです。この道を歩み始めると、「御父と御子の真の自由」を味わうことができるようになりました。「主のくびきは負いやすく、荷は軽い」ことをも知りました。そして、同労者との間、夫婦の間、子供との間等、さまざまな関係が変わり始め、新しくされたのです。これこそが、わたしが皆さんと新しいいのちの成長の学びについて、できるだけ早くお分かちしたい理由です。

 


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