echousa.org
トップページ
信仰告白
新しいいのちの成長の道序文
新しいいのちの成長における正しい道と誤った道(ラザロの死とよみがえりの図)
新しいいのちの成長図解
エペソ2:1-10の学び
新しいいのちの学び特別テーマ
質問と回答
お問い合せ
Copyright © 2007 echousa.org
All Rights Reserved.

内容のダウンロード使用に関して: 著作権は全てEchoUSAに属します。
非営利目的でのご使用を歓迎しますが、 必ずEchoUSAの名称をご明記ください。
新建网页 1

一、              あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた(エペソ2:1

 

1、神の御前で人は皆罪人です

 

祈り:親愛なる天のお父様、この広く大きな宇宙の中で、私たちを見つけ出してくださり、本当に感謝します。主よ、私たちは心からもっとあなたを知りたいと思います。あなたに喜ばれる道である十字架の道を歩みたいと思います。主よ、心の一新によって自分を変える志をあなたにお捧げします。私が生きるのではなく、イエス·キリストが私の中で生きてくださいますように。私たちの理性も考えも自分が生きるようにさせようとします。私の中では、自分のために生きたいという思いでいっぱいです。しかし、主よ、私はすでに志をあなたにお捧げしましたから、「神に反するすべての要塞を破り、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、私たちのすべての思いをとりこにしてキリストに服従させる」そのみわざを、あなたが私たちの上に少しずつ成して下さると信じて、感謝します。ハレルヤ、主に感謝します。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン!

 

もし、私たちがただお一人である真の神の御前へ来るには、まず第一に、神を知る必要があります。この神は、人々に対してどのように救いのみわざを成しとげられましたか?また、神の私たちに対する要求とは何でしょうか? これらのことを知らなければ、私たちはイエスを信じても、別の宗教のように信じてしまうか、あるいは、「良いクリスチャンになるために、どのように頑張ろうか」と、いつも心の中で葛藤するようになるでしょう。

 

.神の一般啓示を通して、どのように、この宇宙に神がおられることがわかるでしょうか?

 神を知ることについて語る前に、まず、キリスト教は啓示の宗教であることを知る必要があります。多くの宗教は「人が神を探す」という原理に立っていますが、しかし、私たちの信じるイエスキリストは、神が私たちを捜しに来られたのです。

 

(1)    啓示とは何でしょうか? 

啓示とは、神ご自身がその覆いを取り除き、ご自身を私たちに現すことです。神は霊であり、神が私たちにご自身を現さなければ、誰一人神を知ることができません。愛する皆さん、これはとても大切なことです。私たちは多くの聖書の箇所を疑問に思いますが、それはこの神を知らないからです。理性で分析をし、神の啓示を受け入れないからです。神は啓示を通してご自分を私たちに示されます。神の啓示によって、私たちははじめて神を知ることができます。神の啓示により、私たちははじめて人間には罪の性質があることを知ることができます。そうでなければ、誰もわかることができません。

 

(2)    一般啓示とは何でしょうか? 

一般啓示とは、イエスを信じなくても、一般的な知識によって、どんな人でも神がおられる事実を知ることができるものです。


3)一般啓示にはどんなことが含まれていますか?

ローマ118-20節の聖句の中で、神の一般啓示には、三つのことが含まれていることがわかります。まず、第一に因果応報、第二に大自然の創造、第三に人の心によって、神がおられることを知ることができるということです。中国人は特に因果応報の話が好きで「あまり悪いことをするなよ。罰がくだるから。」等とよく言います。これは、皆さん、よく理解できることだと思います。大自然の創造のことも、皆さんおわかりになることでしょう。この大自然の美しい創造-春夏秋冬の四季、空を飛ぶ鳥、地をはう獣、海の魚などを見て、注意深く観察すれば、はるかに人間を超えた超自然的な力があって、それを造り、管理していることがわかります。

 

4)ローマ119節によると、人の心の中で、どのように神がおられることを表すことができるのでしょうか?「神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が(中国語訳では‘人の心の中に’を含む)明らかにされたのです。」とは、どういう意味でしょうか?

まず、第一に良心です。この良心とは何でしょうか?ある人が「良心とは、人間の心の中の見えない裁判所です。」と言いました。では、誰がこのようにそれを設立し、管理しているのでしょうか?神ではないでしょうか?多くの人々は、神も幽霊も信じないと言います。しかし、「私は良心に従っています。神は私を地獄に行かせることはないでしょう。」とも言います。たった今、神も幽霊も信じないと言っていたのに、どうしてまた神という言葉が出てくるのでしょうか?ですから、人には良心があるということから、神がおられることを説明できるのです。

 

第二に、人には宗教的本能があります。いつもは神がいない、神は必要ないと言いますが、しかし、何か災難に遭った時、または不公平な扱いを受けた時に、自然とこのように叫びます。「神さま、あなたは見ていらっしゃるでしょう。神さま、あなたはすべて御存知でしょう。」と。

 

第三に、人の心が満足しないことです。伝道者の書311節には、このように書かれています。「神は

また人の心に永遠への思いを与えられた。」これは、神が人間を創造された時、永遠、つまり永遠のいのちを置く場所を心の中に備えられたということです。人は永遠のいのちを持つことによって、はじめて、本当の満足と喜びが得られるのです(ヨハネ414、詩1611を参照)。しかし、アダムとエバが永遠のいのちを選ばなかったため、人々の心は永遠に満足できなくなりました。人は、心に満足感がないため、多くの犯罪を犯してしまいます。またいろいろな外面的な刺激によって一時的な満足を得ようとし、快楽、薬物乱用、酩酊などで満たそうとまでします。人は唯一の神と結ばれ、永遠のいのちを得ることによってのみ、神のもとで最終的満足を得ることができるのです。

 

 

2神の特別啓示を通して、どのように、唯一である真の神を知ることができるでしょうか?
一般啓示は、何となく神を認識することはできますが、しかし、神が何人おられるか、どんな神であるか、人との関係はどうなのか等を知ることはできないのです。人々が真の神を知るために、神は特別啓示をお与えになりました。

1)神の特別啓示とは何でしょうか?
 神の特別啓示とは、神ご自身が人にお語りになり、奇跡を現わされることです。

2)特別啓示の具体的な内容は何でしょうか?

 

 

▲神自ら人にお語りになります。神が人間に全面的かつ系統的に語られた記録、それが聖書です。言葉を通して、人に御自分をお知らせになるのです。見えない世界におられる神はどなたなのか、人との関係はどうなのか、どのようなご性格なのか、一体、どのようなお方なのか、等をお語りになります。聖書は、神が40数人の著者に感動と啓示を与え、約1600年の時間を経て書かれた契約の書です。聖書を通して、人間に父と子と聖霊の三位一体の唯一である真の神をお知らせになります。一般啓示は神の存在を教えてくれますが、特別啓示によって、聖書を通して、神が唯一の真の神であられることがわかります。なんとなく神がいて、すべての道は天国へと通じ、ただ祈ればその神に届く、というようなことは決してありえません。それは、私たちの信仰ではありません。私たちは、唯一である真の神を信じるのです。

 

▲神は自ら奇跡をもって御自分を現します。神が人間に現した最大の奇跡は、神のひとり子イエスが人となり、地上に来られたことです。神が人となって救いを完成し、人々を神の御前に導かれます。これらのことは、後の内容で詳しく説明します。

 

 

3特別啓示から、神の属性を理解することができるでしょうか?
1)神は、人間に語られた全面的かつ系統的な記録である聖書を通して、唯一の真の神の本質をお伝えになります。神は正しい方なので、有罪の人を無罪にすることはできません。神は聖くあられるので、聖くなければ誰も神を見ることができません。しかし、神は慈しみ深く、人を愛し、人がご自身のみもとへ来るように願っておられます。神は永遠のいのちの源であり、人類に永遠のいのちを喜んで与えようとされます。人は永遠のいのちを得ると、喜びで満たされ、永遠の祝福を受けます。この生ける神の属性とは、この方に絶対的な主権があり、全知全能であり、どこにでもおられ、とこしえまで生きておられる等です。

 

2)神は、人間に現された全面的かつ系統的な記録である聖書を通して、罪人がこの聖い神のみもと

へ行く道をお示しになりました。絶対的主権をお持ちになる神は、人間を愛し、人類のために、ある計画を準備しました。それは、信じることにより義とされる計画です。ご自分のひとり子を罪を贖うためにささげられ、人類すべての罪を担い、私たちが神の御前に行く道を開いてくださったのです。この計画は、聖書によって人間に明らかにされました。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました。(ヘブル1:1)」神がむかし預言者たちを通して私たちに語られた言葉は、やがて聖書となりました。続いて、「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」つまり、御子を私たちにお与えくださいました。イエスが世に来られ、父なる神を私たちに紹介し、そして現されたのです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ118)」イエスは十字架で救いを完成し、神と人との間の道となり、信仰によって、私たちを神のみもとへ導かれました。罪の性質によりすべての人は見えなくされたので、その道を見つけることができません。神御自身がこの道を完成してくださらなければ、また、聖霊の働きを通さなければ、私たちはこの道を知り得ることができません。

 

 

4、一般啓示と特別啓示とは、どんな関係でしょうか?

一般啓示を通して、私たちは神がおられることがわかります。しかし、特別啓示を通さなければ、私たちは唯一の真の神を知ることができません。私たちはただ神がおられると信じるだけではなく、唯一である真の神、つまり主なる真の神、父なる神と子なる神と聖霊の三位一体の神を信じるのです。

 

5なぜこの世には多くの宗教があるのでしょうか?
1)なぜこの世にはたくさんの宗教があるのでしょうか?ローマ118-20節には、人々は一般啓示を通して神の存在を認めることができると書いてあります。信仰があるかないかに関わらず、人は教会堂や寺院に行くと、畏敬の念を感じ、神を怒らせてはいけないと思います。超自然的な力への畏敬から、神を探し求めます。しかし、罪により人は神から断絶されたため、一般啓示を通して現された神への知識が漠然とし、はっきり神を知ることができず、誤って理解することさえあります。そのため、さまざまな神と宗教が出てきたのです。
 

2)宗教の根本的な共通点は、超自然的な力を持つ神を認め、畏れなければならないと信じることです。そして、私たちは神の前で良い人ではないと思うため、自分の力による善行と修行とをもって、罪の償いをしようとします。神の守りと祝福を得ようとして、超自然的力と調和しようとするのです。実際には、罪が贖われるということは、神との関係を回復するということです。そして、その決定権は神にあります。人は自分の罪を贖う方法を決める力を持っていません。なぜなら、すべての人に罪があり、罪人は神を正しく理解できず、罪を贖う道を見つけることもできないからです。

 

 

6人が神の御前に行けない根本的要因は何でしょうか?

その根本的な要因は罪です。神は聖いお方です。聖くない人は、神を見ることができません。罪のゆえに、私たちは神を知ることができず、神のみもとヘも行くことができません。

 

 

7ローマ120-229節では、罪の2つの側面について、それぞれ何を語っていますか?
ローマ120-229節で、パウロは罪の2つの側面についてこう語っています。

1)第1章では特に、外面に見える道徳的罪を強調しています。それは故意に犯す罪、情欲に従うこと

や、明らかにしてはならないと知っていながら犯す罪等です。

偶像崇拝の罪:愛する皆さん、偶像崇拝は罪です。一部の人々は、偶像崇拝も神がいることを信じ

ているのだと言いますが、しかし、彼らが信じている神は真の唯一の神ではありません。立場において、間違っているのです。もし、私が自分の父を父だと認めず、ほかの人を父だとし、その人をお父さんと呼ぶなら、実のお父さんから見て、あなたは罪人です。人間が真の神を探し求めることは良い事です。もし、あなたの友達が仏教やほかの宗教を信じていて、彼らに伝道しようとする時に、はじめから、彼らの信じているものは間違っていると言ってはなりません。まず、彼らに唯一の神、永遠のいのちを与えてくださる「正しい」神について話すべきです。私たちは、外面的な平安を得たり病気が癒されたりで神を信じるのではありません。もしそうであっても、永遠のいのちがないのでいつかは必ず死ななければならないのです。ですから、私たちは永遠のいのちをくださる神を信じるべきです。

 

ローマ120節では、特に男と男が恥ずべきことを行うと語っています。一般的に聖書学者は同性愛を指していると言います。神の御前で同性愛は大きな罪であり、神は忌み嫌われます。聖書に記載されているように、ソドムとゴモラが滅ぼされたのは、同性愛の罪があまりにも大きく、神の御前に達したからです。神は日々ソドムとゴモラの淫行に悲しむロトを顧みて、その一家をお救いになりました。願わくは、聖霊により私たちがキリストの心を心とし、ロトと同じように、今日の多くの罪のために悲しむ者となることができますように。今日ある所では、すでに同性愛を合法化し、婚姻届も出せます。願わくは、聖霊によって私たちがこのような大きな罪を見て、心から悲しむことができますように。

 

2)第2章では、清く正しいと自負し、律法に従い、良心に沿って生活している人(律法のない所では、律法によってではなく、おのおの内側の良心の判断で生活をしたかどうかにより裁かれます)について語っています。もし、良いことを永続的に行なえるなら、あなたは永遠のいのちを得られるでしょう。しかし、一人でも、私は罪を犯したことがない、と言える人がいるでしょうか?そんな人は、この世にはいないと思います。また、私は常に良心に従っている、と言える人がいるでしょうか?このような人もいないと思います。人から見える道徳的な行ないや、または心の中のことに関わらず、誰一人として、私は律法に従って行ない、良心によって生活をし、罪を犯したことがない、と言える人はいません。

 

 

8パウロはどのように、人間が神の御前で犯した罪について、まとめているでしょうか?

ローマ310-1223節で、パウロは人間が犯した罪をこのようにまとめています。「それは、次のよ

うに書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。』・・・すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。』これらのみことばはすべての人が罪を犯したので、神の基準に達することができず、一人の義人もいない、と語っています。イザヤ536節では、このように書かれています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」

愛する皆さん、神の御前では、いくら人から見える道徳的行ないや、また心の中で、律法に従って生活していると自負していても、実際には義人はいないのです。一人もいません。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行くのです。

私たちは、神の絶対的聖さと正義を知る必要があります。それにより、私たちは自分が罪人であることがわかります。理論的には、私たちはすべての人が罪人であることを知っています。いのちが成長していく中で、私たちは自分がどれほどの罪人であるかが更にわかるようになります。実際に、自分が罪人であると知れば知るほど、いのちが成長できるのです。

 

 

祈りましょう:

主よ!感謝します。宇宙の中で唯一の真の神、聖く、慈しみ深く、正義の神、絶対的な主権を持つ神であるあなたを感謝します。こんなにも私たちを愛し、一般啓示を通して私たちに御自分を示されただけでなく、また、特別啓示をもって、ただお一人の真の神を明らかにしてくださり、感謝します。私たちに罪を示しただけではなく、その救いについて教え、神の御前に行ける道まで与えてくださり、感謝します。栄光が主にありますように。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。


1