新建网页 1
二、神によって生かされる(エペソ2:1、5)
8、聖書を読み、祈る
愛する天のお父さま、私たちは感謝でいっぱいです。愛する独り子を遣わしてくださり、受肉されたイエス・キリストが地上に来られ、私たちのために、この素晴らしい救いを完成してくださったことを感謝します。そして、私たちにいのちをお与えになり、また新しいいのちの成長の糧をくださり、あなたと結びつくことによってキリストの豊かさを受け取らせてくださり、感謝します。主よ、あなたが私たちのために備えてくださったものは、なんと完全なものなのでしょうか。感謝いたします。真理の御霊が私たちを続けてその真理に導いてくださり、私たちがわかりやすく語り、よく理解できるように助けてください。主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン!
以前、聖書における神の特別啓示のところで、この宇宙に唯一の真の神がおられることをお話しましたが、このお方こそが御父、御子、御霊である三位一体の神です。この方は聖く、正しく、善であられ、いのちの泉であり、このお方を受け入れると、満たされた喜びと永遠の祝福のいのちを受けます。神はこの世界の人たちを愛し、喜んでいのちを与えようとされますが、人々は罪があるために、神の御前に出ることができません。このため、神はその独り子を遣わされ、人となられたイエス・キリストがこの救いを完成されました。イエス・キリストご自身が神と人との間の道となり、私たちはイエスを信じる信仰によって神の御前に出ることができるようになりました。ハレルヤ!神は聖書によって明らかにいのちの道をお示しくださり、私たちに行くべき方向を示されます。この聖書とは一体どのような本なのか、ともに学びましょう。
1.聖書を簡単に説明してください。(聖書の絶対的権威、絶対的無謬性、聖書の中心的テーマ、聖書の不思議な力など)(Ⅱテモ3:15-16、ルカ21:33、24:25-27、ヨブ12:7-9、詩19:1,7、119:71,89、箴30:5、Ⅰコリ2:2、エペ4:29)
(1)聖書の絶対的権威:
聖書は絶対的権威があり、キリスト教の唯一の経典であり、クリスチャンの信仰におけるただ一つの根拠です。それは、聖書が神の言葉であり、神は最大の権威をお持ちであるからです。私たちが信じる御父、御子、御霊の三位一体の神は完全であられ、間違いがなく、昨日も今日も永遠に変わらず、移りゆく影もないお方です。
(2)聖書(原文)の絶対的無謬性:
聖書は神のことばであり、神の完全に誤りのない啓示です。聖書は永遠に過去のものとはならず、永遠に変わりません。聖書の作者たちはみな心から神を愛し、敬い、従った人たちです。人は不完全であり、間違いを犯しますが、しかし、間違うことのない神が、間違いを犯す人に啓示を与え、管理をされ、神の誤りのない記録を書かせました。ですから、聖書は完全に誤りがありません。この点において、私たちは特に強調します。それは多くの人たちが、「聖書は信頼できる」と言いますが、「間違いがない」と「信頼できる」は全く違うことだという点に注意してください。「信頼できる」には誤りの可能性がありますが、聖書は完全に間違いがありません。原文において聖書の一点一画すべてが正しいのです。
(3)聖書の中心的テーマ:
神が人類に備えられた救い、つまりイエス・キリストと、その十字架です。聖書は偉大な神が卑しい人間と契約を結んだ書であり、イエス・キリストの誕生を境とし、それ以前が旧約であり、それ以後から新約が始まります。
(4)聖書と新しいいのちとの関係――聖書の不思議な力と働き:
▲未信者にとっては、聖書はいのちの種だと言えます。聖霊は聖書を通して、主をまだ信じていない人に自分が罪人であることを自覚させます。聖書を通していのちの道を示します。聖書を通して信仰が生まれ、聖書が啓示する救いを受け入れ、イエスを自分の救い主だと受け入れることにより、神と和解し、救われ、いのちが与えられます。「・・・聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。(Ⅱテモ3:15)」「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハ3:16)」
神はいろいろな方法をもって皆さんを救いに導かれたことでしょう。それは、例えば家族が病気になり癒しが必要であったり、就職の問題であったり、家庭で何か問題が起こったり、あるいはその他のことかもしれません。しかし、どんな問題であったとしても、「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」等の聖書のみことばによって、イエス・キリストを救い主として受け入れたのではないでしょうか。皆さんが救いの証をする時に、どのようにそのみことばをいただいたのか話すのを忘れないでください。それは「イエスはあなたの主です」かもしれませんし、「イエスの血がすべての罪を赦す」、あるいは「イエスを救い主として受け入れるなら、神の子どもになる」だったかもしれません。どんな言葉であっても、これらの内容はどこからきたのでしょうか?それは聖書からです。ですから、聖書は私たちのいのちの種なのです。
▲すでにイエスを信じている人にとって、聖書はいのちの糧です。私たちが古い人を脱ぎ捨て新しい人を身に着るために、私たちを養い育てます。それにより、新しいいのちが成長していくのです。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。(Ⅱテモ3:16-17)」
聖霊は聖書を通して、以下のことをしてくださいます。
▲▲私たちを教えます。
聖書は、神の御旨と神の救い、そしてすべての教理を私たちに教えます。それは、私たちが知識において、神とイエス・キリストを更に知るためです。
▲▲私たちを戒めます。
聖霊は聖書のことばを通して、私たちを責め、そして心を照らされます。
「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ(詩19:7)」
▲▲私たちを矯正します。
私たちが戒めを受けた後、聖霊は再び聖書を通して、私たちを正しい道に導きます。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした(戒め)。私はそれであなたのおきてを学びました(矯正)。(詩119:71)」
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません(戒め)。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し(矯正)。(エペ4:29)」
▲▲義の訓練をします。
「訓練」とは教え導く、指導するという意味です。神の義とは何であるかを教え、神の子どもとは、イエス・キリストを信じたのちに、訓練と指導の中で、神により頼んで服従し、義の道を歩んで義の実を結ぶ者なのだと、聖書は示しています。
私は長年「義の訓練」の意味を誤解し、わかっていませんでした。訓練とは聖書の規準に基づいて行なうことだと思っていました。例えば、嘘をついた時、自分に対して、「聖書には『嘘をついてはならない。嘘はサタンから出ている。(ヨハネ8:44参照)』とあるでしょう。だから嘘をついてはいけません。」と言います。しかし、再び嘘をついてしまうと、聖書が「嘘をついてはならない」と教えているので、私はできるだけ隠そうとします。隠せば「嘘をついていない」ことになるでしょうか?いいえ!それは義ではなく、隠ぺいです。
では、「義の訓練」とはどのような意味でしょうか?それは、私たちにひとつの生き方を訓練し、指導します。これこそが、イエス・キリストを信じたのち、主との関係が更に現実のものになり、また密接になる方法です。例えば、イエス・キリストにより頼んで、「主よ、私は嘘つきです。主よ、私を嘘から救い出してください。」と、大胆に認めるのです。この生き方こそが、自分に頼らず、イエス・キリストが完成してくださった救いにより頼んで歩む道です。「主よ、私にはできません。私はこんな者でしかありません。あなたの救いを私の上に待ち望みます。」と祈りつつ歩むのが義の道なのです。
聖書は、他にもいろいろな角度から、聖書と新しいいのちとの関係を説明しています。新しいいのちの洗浄剤、新しいいのちの良薬、生活と仕事に新しいいのちの力を供給する源、私たちが新しいいのちに敵対する三つの強敵に勝利するための武器等と説明されています。聖書はまた、人の心を刺し通す鋭い剣のようであり、火やかなづちのように人の硬い心を溶かし、砕きます。鏡のようでもあり、人の顔を映し出します。
2、どのような態度で聖書を読めばよいのでしょうか。聖書にある「みことばを実行する」とはどういうことでしょうか?(Ⅰペテ2:2、Ⅰテサ2:13、申11:18、エゼ3:10、詩1:2、119:11,97、コロ3:16、ヤコ1:19-25、ロマ10:17、マタ13:1-9、エレ4:3-4、イザ28:24、Ⅰヨハ2:20,27)
(1)聖書を読む態度は、聖書の読む方法よりも大切です。(Ⅰペテ2:2)
まず、私たちがイエスを信じて新しいいのちが与えられたことを知らなければなりません。この聖書と私たちはどんな関わりがあるでしょうか?聖書に対する態度とはどのようなものでしょうか?
▲聖書は私たちのいのちの糧です。聖書は一冊の本ですが、普通の本ではなく、いのちの糧です。私たちが毎日食事を取るように、毎日聖書を読む必要があります。例えば、目の前にあるご飯と、目の前にある本や絵は同じでしょうか?違いますよね。ご飯は食べるとお腹が満たされます。お腹が空いて仕方がないのに、一枚の美しい絵をもらっても意味がなく、食べられません。
▲信仰と受け入れる態度で聖書を読み、頭ではなく、心を用いて読みましょう。聖書はいのちの糧ですから、たんぱく質や脂肪、水分は一体どれだけなのか等と、それを一日中分析する必要はありません。最も大切なのは、お腹が空いた時に、食べる必要があるということです。私たちの神は霊です。私たちは霊とまことを持って神の御前に行き、完全に受け入れる態度をもって、神のことばを読みます。今日、聖書の注解書はたくさんあります。それらを用いることもとても必要ですが、それらの本よりもっと大切なのは霊と誠を持って、「主よ、この聖句をお与えください。」と主に祈ることです。理解できなくても、受け取る態度をもって読み進んでいきます。
▲昼も夜もそのおしえを口ずさみます。そのまま読み流したり、聞き流すのではありません。
▲みことばを実行しようとする志が必要です。主イエスは、わたし(主)のことばを聞いて行なう者は幸いです、と常に教えられました。
(2)聖書において、みことばを実行することとは何を指していますか?(Ⅰテサ2:13、申11:18、エゼ3:10、詩1:2、119:11,97、コロ3:16、ヤコ1:19-25、ロマ10:17、マタ13:1-9、エレ4:3-4、イザ28:24、Ⅰヨハ2:20,27)
▲みことばを実行するとは、どういうことでしょうか?
みことばを実行するとは、文字通り、聖書の教えを実行することです。
▲どのように実行するか。みことばを実行する順序があります。
長い間ずっと、私は聖書が教えることは何でもすぐに実行する、と間違った認識を持っていました。そして、実際には実行できなかったのです。聖書がしてはならないと教えることを、私は表面上は行ないませんでしたが、それは隠していたにすぎません。これは全く、聖書が教えるみことばを実行するということではありません。では、どのようにみことばを実行するのでしょうか?聖書にあるみことばを実行するには、必ず順序があります。
▲▲心を備える。
みことばを実行する前に、まず主のみことばを心に受け入れます。主のことばを受け入れる前には、まず心を備えなければなりません。ヤコブ1章21節には「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。・・・」とあります。私たちは主のことばを受け入れる準備をする前に、まず心を備えなければなりません。「主よ、私はあなたのことばを受け入れたいです。主よ、私の心を備えてください。私を打ち倒し、自我から解放してください。主よ、私をあなたにお献げします。」1日24時間いつでもこのように求めることができます。「主よ、私の内側を探ってください。主よ!私をすべての汚れやあふれる悪からお救いください。」
皆さん、このように祈る時に、聖霊は私たちの内側で心を耕され、私たちが忘れているか、今まで知らなかった多くの「汚れやあふれる悪」を示してくださいます。聖霊の導かれたところまで、私たちは心から主の血潮の聖めにより、汚れと悪からの解放を求めます(自らの自制や努力によるのでなく、主に願って取り除きます)。それは農夫が土地を耕す時に、丁寧に石を取り除いたり、雑草を抜いたりするようにです。聖書を読む前、みことばを聞く前、信仰書を読む前、交わりなどをする前などに、私たちはこのように心を備えることができ、いつでもこのように祈ることができます。たくさん祈るなら、内側の心は更によく備えられ、更に祝福を受けます。心の備えは、みことばを実行するための基本であり、私たちのいのちの成長の基本です。
▲▲みことばを聞く。
ディボーション、みことばを聞くこと、信仰書、交わりなどの聖書の真理からみことばを受け取ります。みことばを聞くとは、みことばを聞いた後、頭で理解することです。
▲▲みことばを信じる。
祈りによって心を備えつづけます。聖霊はわたしたちの頭の中の聞いたみことばを、心に植えつけてくださいます。それはヤコブ1章21節に「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。」とある通りです。主のみことばが心のうちに入るとすぐに、その植えつけられたみことばを受け入れます。私たちが主と親しく交わる中で、植えつけられたみことばは芽を出し、成長し、実を結びます。
▲▲「注ぎの油の教え」(Ⅰヨハ2:20,27参照)
聖霊は、植えつけて芽を出し、成長して実を結んだ「神のみことば」を通して、そのつど私たちに感動をお与えになります。その感動によって与えられた「神のみことば」が注ぎの油の教えです。注ぎの油の教えは服従する力、恐れ敬う力と受け入れる力があります。
「注ぎの油の教え」については、多くの兄弟姉妹たちの証があります。多くの場合、どうすることもできない出来事に遭う時に祈ると、神はみことばを与えてくださり、その難関を楽に通り過ぎることができます。例えば、ある人を憎んでいた時に「主よ、私を救ってください・・・」と祈ると、ある時突然「赦しなさい」ということばが与えられます。聖霊があなたの内側で「赦しなさい」と語られる時、それが「注ぎの油の教え」です。恐れ敬う力、服従する力、受け入れる力が伴いますから、自然に赦すことができます。これが「みことばを実行する」ことです。いつもは人から「兄弟(姉妹)、赦してあげなさい!」と言われても、「同じ経験もないのに、私の苦しみがわかるわけがない。」と思って相手を赦せないでしょう。
▲▲みことばを実行する。
神のみことばは、聞くことによります。
→そして、聞いて理解します。
→みことばを信じ、聖霊が心を備えてくださり、
→そして、聖霊が心に植えつけてくださったみことばを受け入れます。
→神のみことばが心の中で働き、芽を出し、成長し、実を結びます。
→聖霊はそのつど、この実を結んだ神のみことばをもって感動を与えます(注ぎの油の教え)。
→自然にみことばを実行することができます。
皆さん、ですから「みことばを実行する」とは「注ぎの油の教え」を行なうということです。聖書が言うとおりに行なう、ということではありません。例えば、目の前にご飯があります。とても、おいしそうですが、見て頭で思うだけで、歩く力が与えられるでしょうか?与えられませんよね。食べて、消化しなければ、力にもならず、歩くこともできません。同じように、「みことばを実行する」には、このみことばを聞き、信じ、実を結んだみことばによってこそ、実行することができるのです(注ぎの油の教え)。
3.この学びにある「三つで一つ」の聖書の読み方とは何でしょうか?
この学びで「三つで一つの聖書の読み方」をご紹介します。毎日、きまった時間にディボーションを持ち、できるだけ毎日一節の聖句を心に覚えます。毎日、時間のある時に、聖書を速読、熟読します。できるなら、週に一度、聖書研究をします。そうすればいのちの成長とともに、聖書を全面的かつ統括的に理解することができ、真理の道を正しく理解することができます。注意していただきたいのは、ここで説明しているのは三通りの聖書の読み方ではなく、三種類の違った方法による一つの聖書の読み方です。
4.ディボーションとは何ですか?ディボーションはなぜ大切なのでしょうか?どのようにディボーションをもっていますか?(雅1:4、詩5:3、25:14、105:4、143:8、119:146-148、出16:13-35、イザ50:4-5)
(1)ディボーションとは何でしょうか?ディボーションとは、主と日増しにしっかりと結びつく方法です。ディボーションとは、私たち一人一人があらかじめ定め、あらかじめ一定の時間を作り、静まって、神とまみえ、霊において主と交わることです。ディボーションの中に賛美、聖句、祈りを入れてもいいです。「・・・・・・王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。(雅1:4)」「主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。(詩25:14)」「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。(詩105:4)」
私個人のディボーションの方法をお分かちしたいと思います。毎日朝起きると、他の事は何も考えず、他の人、事、物に思いを傾けず、まず主に近づきます。「主よ、あなたを愛しています。主よ、昨晩も平安をあたえてくださり、感謝します。主よ、新しい1日が始まりました。主よ、あなたとともに歩みたいと心から願います。」と。賛美を1曲してもいいでしょう。豊かないのちのホームページに沢山の賛美、聖書賛美、教会賛美などが載っていますので、自由にお選びください。賛美しながら、主に向って主を慕う心を打ちあけます。「主よ、私は今、静まりたいです。主よ、あなたにお会いしたいです。あなたの御顔を仰ぎたいです。主よ、あなたの力が必要です。主イエスよ、ありがとうございます。」と。もし賛美を知らないなら、前日の夜、寝る前に1曲賛美の繰り返し部分をおぼえ、次の日の朝起きた時に「主よ、ありがとうございます。1日が始まりました。」と、この賛美の部分を歌います。賛美しながら、服を着替え、それが終わると、もう主と親しくなっています。そして、座ってから(跪いたり、立ったままでも結構です)聖書を読みます。ディボーション時の聖書は、たくさん読むことはせずに、1節または1段落読むことをお勧めします。1節の聖句を繰り返し覚えて、またこの聖書箇所を祈りにあわせます。例えば、「主はご自身を恐れる者と親しくされ」という聖句を読む時、このように祈ります。「主よ、ありがとうございます。あなたはご自身を恐れる者と親しくしてくださることを感謝します。恐れる者となりたいと心から願います。そうなりたいですが、私にはできません。どうぞ、私を導いてあなたを恐れる者としてください。感謝して、この一日をすべてあなたにおゆだねします。主イエスの御名によって求めます。アーメン。」
アンドリュー・マーレーはこのように言いました。「1節の聖書を10回読むのは10節の聖書を読むより大切です。」皆さん、この主との交わりが数分だったとしても、1日において5分、7分であったとしても、必ずデボーションをもってください。毎日ある時間をとり、主と会い、聖書を少し読み、主と交わります(奥の間に入ります)。習慣化されると、主と交わらなかった日には、変に感じることでしょう。付け加えて言いますと、この主とお会いするために、するべき事は前日の夜に終わらせる必要があります。次の日の朝に子どもが着る服をあらかじめ用意し、食べる物も準備し、子どもの宿題は前の日の晩には終わらせておく等です。そうすれば、次の日の朝は心配せずに心置きなくディボーションを持つことができます。
ディボーションはとても大切です。ディボーションと普段の聖書通読とを一緒にしないようにしてください。一緒にしてしまうと、ディボーションがおかしくなってしまいます。奥の間にいながら、あれをしたり、これをしたりすると、奥の間にいる意味がなくなってしまいます。
5、「新しいいのちの原則」と「人間的な考え」とは相反する、とはどのような意味でしょうか。(マタ7:13-14)
主の御名を賛美します。恵みのゆえに、主イエス・キリストが御救いを完成され、私たちは信仰によって、主の御名を呼び求める(祈る)ことにより、新しいいのちを受けました。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
新しいいのちの原則とは何でしょうか?それは、キリストが私のいのちであり、すべてにおいて主を第一とし、主に王権を取っていただき、そして御霊に従って歩むことです。
人間的な考えとは、イエスを信じてはいますが、すべてにおいて自分の理性によって考え、自分の力で行なうことです。
ある兄弟はこのように証をしました。ある時、聖書の中のある絵を書くことになりました。「どうしよう、大きく書くべきか、小さく書くべきか。上のほうに書くべきか、下のほうに書くべきか。こう書くべきか、ああ書くべきか・・・」とずっと考えていました。しかし、私は間違っていました。「主よ、どう描けばいいのか私にお示しください。お教えください。」と、まず祈らないといけないことに気付かされました。人間的考えによってではなく、新しいいのちの原則で書くべきだと気付いたのです。
大切なことは、救われた後にもはや私自身ではなく、キリストが私のうちに生きておられるということです。新しいいのちの原則とは、キリストが私のいのちであり、神に頼って、神の力を用いる神の知恵です。人間的考えは、人や人の力に頼ります。何か起こった時、「主よ」と呼び求めることが新しいいのちの原則です。人間的考えでは皆で話し合ってどうするか相談します。人間的な考えと新しいいのちの原則とは相反するものです。
6、どうして祈る必要があるのでしょうか?主イエスは、私たちにどのような内容を祈るように教えられましたか?(ルカ18:1、Ⅰテサ5:17、エペ1:19-23、3:14-17、6:18、ピリ4:6、エレ29:11-14、マタ6:6、へブ4:10-16、11:6、ロマ10:12、イザ11:6-10、30:18、50:2、Ⅰコリ1:30、コロ2:9-11、4:12、詩46:10)
神は霊ですから、祈りとは霊とまことによって神と交わることです。私たちは救われて新生し、祈りの特権を与えられたのですから、主に感謝しましょう。私たちはいつでも主イエスの恵みの御座の前で祈ることができるのです。
(1)どうして祈る必要があるのでしょうか?
▲神は祈るようにお命じになっています。祈りは私たちと神との交流であり、神とのいのちの関わりです。
▲祈りとは神が神を求める人にお与えになる、主を呼び求めるすべての人に答え、報いる手段です。「祈りは効果がありますか?その結果はどうでしょうか?」と、よく質問を受けます。私はこう答えます。「祈りの具体的な結果がどうなのか、私にはわかりませんが、ただ一つ確実にいえることは、心をこめて祈るなら、神は主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられ(ロマ10:12)、神を求める者に報いてくださいます(へブ11:6)。祈りの結果は必ず報いであり、必ず答えであり、必ず恵みです。このことは絶対です。」
▲祈りとは、新しいいのちの成長の必要を受け取る手段であり、キリストの豊かさを受け取る手段でもあります。神が天上のすべての霊的祝福を私たちにお与えになることなど、あり得るのでしょうか?神は御子をくださり、主イエス・キリストが受肉してこの地上に来られ、人となり、救いを完成してくださいましたから、感謝します。神の満ち満ちたご性質が形をとってキリストのうちに宿っておられます。私たちは祈りによって、信仰により神と結び合わされて、キリストの豊かさを受け取るのです。
▲▲キリストのご性質を受け取ります。キリストは聖いお方ですから、私たちも聖くなければなりません。「主よ、私はこんなにも堕落した者ですが、あなたを賛美します。あなたは聖いお方ですから、私にも聖い性質を形造ってくださると信じます。」と祈りましょう。決して自分に頼るのではなく、自分の聖さによるのではありません。キリストの聖さを受け取って、俗悪から解放され、聖い人になれるのです。キリストは義であり、救いであり、知恵です。
▲▲キリストの力、キリストの平安、キリストのすべてを受け取ります。このように祈ってください。「主よ、私に力が必要な時、あなたは力を与えてくださいます。知恵が必要なら、与えてくださいます。平安がほしい時、あなたは平安を与えてくださいます。」主はすべての良いものの源であり、すべてのほうびは主がくださいます。祈りによって受け取り、また、主に求めることができることを、心から感謝します。なぜなら、私たちはすでにキリストと結び合わされ、キリストのすべては私たちのすべてだからです。皆さん、なぜ私たちはこんなにも辛く、「お父さん、長年の間、私はお父さんに仕えたのに、子山羊一匹くださったことがありません!」と、放蕩息子の兄のようなのでしょうか。では、父親はどう言っていたでしょうか。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」主が私たちの耳を開いてくださり、「キリストの満ち満ちた豊かさ」を受け取って、喜ぶことができますように。ハレルヤ!
今のあなたの悩みは何でしょうか?子どもが言う事を聞かない、反抗する、子どもをどのように教育すればよいかわからない、というようなことでしょうか?どのような問題だとしても、・・・「主よ、感謝します。あなたは私の羊飼いです。あなたが導かれますから、私は乏しいことがありません!」と受け取りましょう。ハレルヤ!
(2)主イエスは、私たちにどのような内容を祈るように教えておられますか。
主の祈りから見てみると、三つの部分に分かれています。それは、賛美と礼拝、願いととりなし、そして、悔い改めです。
▲賛美と礼拝:「御名があがめられますように。」「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」
賛美とは、勝利を誇る声をもって神に喜び叫び、神がすべての良きことの源であることを認めることです。礼拝とは、恐れ敬い従い、敬虔にひれ伏すという意味です。賛美と礼拝を通してまず神への姿勢を正します。詩100:4
▲願いととりなし:自分のためだけにではなく、他の人のためにも願い祈ります。ピリ4:6、Ⅰテモ2:1-2、エペ6:18-19
神の国とその義をまず第一に求めます。「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタ6:33)」
その後に、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかを求めます。マタ6:34
「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」このこととエペ3:14-21、ルカ9:23-27は同じことです。
試みと試練は原語では同じことばです。もし私たちがある出来事を信仰によって受け入れるなら、その事は神が私たちの信仰を練るための十字架となります。しかし、もし受け止めることができなければ、試みに陥り(試みに会い)罪を犯してしまいます。ヤコ1:12-15、民13:25-14:9
▲悔い改め:「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。(マタ6:14)」神は聖なる方ですから、聖くなければ、だれも主を見ることができません。神は私たちが神の御前で清く、人に対しても清くあることを求められます。私たちが人に対して、人が私たちに対して恨みや憎しみがなく、手がきよく、きよらかな心で御前に出て、平安に祈ることができるためです。また、悔い改めのみではなく、更に他の人の罪を赦すようにまで求められます。マタ6:14-15、18:21-35
7.私たちの祈りをはばむ要素とは何でしょうか?神の祈りに対する三つの答え方とは?(イザ55:8-9、59:1-2、マタ5:22-24、ヤコ1:6-7、4:2、Ⅰペテ3:7、ロマ8:32、Ⅰコリ2:9)
(1)私たちの祈りをはばむものとは何でしょうか?神は、どんな時に私たちの祈りをお聞きにならないのでしょうか?
▲もし、私たちが罪を重んじ、聖霊が罪をお示しになっても、悔い改めようとしなければ、神は私たちの祈りをお聞きになりません。
▲もし、人の罪を赦さなければ、神は祈りを聞かれません。
▲もし、私たちが傲慢になり、不信仰の心があるならば、神はお聞きになりません。
▲夫婦間の不仲を小さな事と思ってはなりません。このため、神は祈りを聞かれません。
▲もし、間違った動機によって求めるなら、神はお聞きになりません。
(2)神の祈りに対する三つの答え方とは何でしょうか。
私たちの祈りをはばむこれらのものがなければ、神はすべての祈りをお聞きになられます。神は私たちの祈りを聞かれないこともある!とある人は言います。それは神が聞かれないのではなく、私たちが自分の思う祈りの答えをもって、神に答えてもらおうと願うからです。
神はご自身の絶対的主権と知恵、慈愛、全能の力によって、私たちの祈りに応え、私たちの祈りを成しとげ、すべての祈りに報いてくださいます。神の思いは私たちの思いと異なり、神の道は私たちの道と異なり、神の道は私たちの道よりも高く、神の思いは私たちの思いよりも高いのです(イザ55:8-9参照)。神が私たちのために立てておられる計画はわざわいではなくて、平安を与えるものです(エレ29:11参照)。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。(Ⅰコリ2:9)」神は御自分の御子をさえ惜しまず、私たちに恵んでくださいました。神はいつも一番良い物を、願い求める人にお与えになります(ロマ8:32参照)。私たちはまことに愚かであり、無知であり、小さい者であることを認め、謙遜になって祈りの結果の主権を神におゆだねしましょう。
通常、神の祈りの答え方には三つあります。
▲いいです。私たちの祈りの通りにすぐに応えられます。
▲だめです。私たちの祈りの通りに応えられません。全く逆の答えが与えられることもあります。
▲いいですが、しばらく待った後に応えます。
アブラハムにイサクが生まれた時のことを考えてみてください。神の約束から何年たったでしょうか。25年です!皆さん、私たちは神の時間と方法を理解することも、決めることもできません。このような賛美歌があります。「神がなさるにのは時があり、神の時に素晴らしいことが起こります」。
もう一つ付け加えたいのですが、神が私たちの祈りに応えられない時は、私たちのうちに祈りをはばむものがないか調べてみてください。もし、ないのであれば、安心して主の御手にゆだねましょう。
8.主イエスは私たちにこのように祈るように教えられました。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを許しました。」(マタ6:12)あなたは、これらをどのように理解し、また経験しましたか?(詩139:23-24、マタ5:24、マコ11:25-26)
主イエスはこのように祈るよう教えられました。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを許しました。」(マタ6:12)以前、私は「主よ、私に罪があるなら、どうぞ赦してください。私にお示しください。」と、ただ「私たちの負いめをお赦しください。」だけに注目していました。しかし感謝なことに、聖霊は私の心を開かれ、主に私の罪を赦してくださいと願うだけでなく、私も他の人の罪を赦す必要があることを教えてくださいました。人が私に罪を犯す時に、私はその人を赦しているでしょうか?
私たちの心が解放されない多くの理由は、人の罪を赦していないからです。主は言われました。「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(マコ11:25)「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタ5:23-24)この二つの聖書箇所には、どちらも、「(もし)・・・たら」、「もし・・・思い出したなら」と仮定形が使われています。私たちが祈る時に、もし誰かにひどいことをされたり、恨まれたりしたことを思い出すなら、私たちは相手を赦し、仲直りすべきなのです。この「もし・・・思い出したら」は、聖霊が私たちのいのちの成長に合わせ、お導きになるということです。ですから、くれぐれも無理やり「何かないか」と探ることはしないでください。
他人を赦さないことは、相手の襟をつかんでいるのと同じです。相手に恨まれるのも、相手に襟をつかまれているのと同じことなのです。想像していただきたいのですが、祈る時に相手の襟をつかんでいたり、相手に襟をつかまれているとしたら、どうでしょうか?神は平和の神ですから、このような祈りをお聞きになるでしょうか?主イエスは私たちに、祈る時に「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを許しました。」(マタ6:12)と祈るようお命じになられました。
共に祈りましょう:主よ、私たちに祈る特権を与えてくださり、あなたの御前で更にあなたと親しくつながることができることを感謝します。主よ、この素晴らしい聖書を与えてくださり、私たちを教え、戒め、矯正し、義の訓練をしてくださることを感謝します。主よ、あなたは私たちに救いの御業を備えられただけでなく、聖書を、祈りを、そして他の多くの事柄を備えていてくださり、私たちの新しいいのちを続けて成長させ、心を新たにさせ、変えさせ続けてくださいますから、感謝します。賛美しつつ、主イエス・キリストの御名により祈ります!アーメン!