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三、キリストとともによみがえる
1、日々自分の十字架を負って主に従う
祈りましょう:主よ、感謝します。感謝します!あなたは、私たちを死からいのちに移し、新しいいのちを与えてくださっただけでなく、そのいのちが成長することを願っておられます。主よ、私たちに「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ」とはどういうことかをお示しください。主よ、知識だけではなく、実際の生活の中で生かしていくことができるように助けてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
主の御恵みを感謝します。神は世人を愛され、罪過の中に死んでいた私たちに御子をくださり、死からいのちに移る救いを完成してくださいました。すべて御子を信じる者がキリストにあってよみがえり、信仰によって義と認められました。サタンの支配下から御子の国へと移りました。イエス・キリストの死により、私たちは信仰によって彼とともに十字架で死んだため、罪の束縛から解放され、再び罪の奴隷になることはありません。イエス・キリストの復活により、私たちは彼とともによみがえり、キリストとつぎ合わされた新しいいのちが与えられ、キリストは私たちのいのちの主となられました。神がイエス・キリストによって死からいのちに移る救いを完成されたのは、私たちが信仰によっていのちを得るだけで終わるのではありません。救われて新生した後、私たちが自分勝手に生きたり、思いのままにやりたいことをするのではなく、神はその新しいいのちが健やかに成長するように願っておられます。神はご自分の子どもたちのいのちを成長させるご計画をお持ちです。まず、聖書を私たちにお与えになって、新しいいのちの日々の糧として私たちを養われます。そして、祈る権利をも与えられ、デボーション等を通してキリストとの関係を更に親しいものとしてくださり、心を新たにさせ、変えていかれます。また、私たちは日々自分の十字架を負って主に従うことにより、新しいいのちが成長していきます。
「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、•··あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。キリスト·イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペ2:5-6)」私たちは、恵みのゆえに信仰によって、キリストとともに死に、ともに生き、よみがえって新生し、新しいいのちの幼子になりました。同じように、恵みのゆえに信仰により、日々十字架を負って主に従い、主の死と復活を経験し、新しいいのちが成長していきます。これこそ私たちがこの課でお話ししたい「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ」、日々自分の十字架を負って主に従うということです。
1、あなたがたは「恵みのゆえに」救われたのです。では、神はどのような救いを完成されたのでしょうか?(エペ2:8、ヨハ5:24、Ⅰコリ2:2)
私たちが救われたのは恵みによります。すでにお話ししたことを含め、主なる神は私たちのために救いを完成されました。神は世人を愛し、その独り子をお与えになって救いを完成されました。ここでお話ししたいのは、主イエスが私たちに新しい生ける道を授けてくださったことです。以前、だれ一人として神の御前に行くことができなかったのは、なぜでしょうか?それは、私たちがみな罪人だからです。それゆえ、イエス・キリストが私たちのために一本の新しい生ける道を開いてくださり、ヘブル10章22節にあるように、私たちは全き信仰をもって、真心から神に近づくことができるようになったのです。
信仰と真心とは、私たちが誠心誠意、神の御前で自分を罪人と認め、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れることです。主がこの救いの道を開いてくださったので、私たちはアダムからキリストへと移ることができます。また、サタンの支配下から御子の国へと移ることができ、罪過の中で死んでいた中からよみがえり、新しいいのちを得ました。これらのことすべては人にはできず、人がそのために何かしたと言えることもなく、すべて神の恵みによるのですから、感謝しましょう。
では、恵みとは何でしょうか?「働く者のばあいに、その報酬は恵みではなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。(ロマ4:4-6)」「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。(ロマ11:6)」
2、「信仰によって」とは?(エペ2:8、ヨハ1:12)
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。(エペ2:8)」神がすでに救いを用意してくださったのですが、また「信仰によって」とは、わたしたちがそれを信じ、受け入れることによって、主イエス・キリストが完成された救いの客観的事実が、私たちの主観的経験になるということです。受け入れる、受け入れないは、法律上の名称です。主イエスの血は世人のために流されましたが、もし、私たちが受け入れないなら、神の救いは私たちの上に成就できません。義と認められることはなく、死からいのちに移ることもできず、サタンの支配下から御子の国へ移ることもできないのです。
3、イエスを信じることにより、新しいいのちが与えられます。では、何によって新しいいのちは成長するのでしょうか?(ロマ1:17)
私は、イエスを信じた後、永遠のいのちが与えられたことを知りました。しかし、新しいいのちがどのように成長するかを、考えたことがありませんでした。私が一日中考え、求めることは、どのようにしたら良いクリスチャンになれるかということでした。聖書が言う通りに行なうべきだといつも考えていました。マタイ5、6、7章を読んだ時、心の中で、これは簡単なことではないと思いました。まぁとにかく、できるだけ頑張ってやればよい、と考えました。実のところ、イエス・キリストが完成してくださった完全なる救いが何であるかを全く理解していなかったのです。以前にもお話ししたように、イエスを信じたのち、自分の力で神に喜ばれようとするならば、神の御前で反抗するものとなってしまいます(ロマ8:7参照)。自分の力に頼ることは、律法の下にあることであり、のろわれた者となり(ガラ3:10参照)、まったく報われません。私がクリスチャンを評価するのは、とても熱心で至るところで伝道しているとか、とても愛があって兄弟姉妹を愛している、という点からです。家ではケンカばかりし、どこででも同労者と意見が合わず、また子供との関係が上手くいかないこと等は、人間は弱いので仕方がないのだと思っていました。
私たちはイエスを信じて「死からいのちに移り」、新しいいのちが与えられ、新しいいのちの幼子となりました。別の角度から見るなら、それはキリストの教えの始まりです。新しいいのちを得るには何によるのでしょうか?それは信仰です!新しいいのちの成長、つまり、完全にまで至るには、何によるのでしょうか?それも信仰によってです。これこそがローマ1章17節の「その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」という意味です。私たちは、信仰によって義と認められました。つまり、信仰によって、義と認められ、信仰から信仰へと進み、徐々に義とされるのです。皆さん、一緒にこの言葉を聞きましょう。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」私たちが救われたのは恵みのゆえに、信仰によってです。そして、救われた後のいのちの成長も、恵みのゆえに、信仰によるのです。私たちは自分に頼るのではなく、すべてにおいて、絶えず主の御名を呼び求め、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けるのです。
4、「あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。(Ⅰコリ15:36)」という十字架の教えとは?
前の図一でも詳しく説明しましたが、すべての人が罪の性質に支配され(古い人)、罪を犯さずにはいられなくなり、だれ一人として自分を救って神の御前に行くことはできません。私たちは自分の力で良くなることなどできないのです。一生懸命にそうしても、それは死体を亜麻布で巻くようなものです。自分の力で見栄え良く巻いても、少し良いものを身につけていたとしても、すべてが偽りです。
神はこのような世人を愛し、人々を救おうとされます。「人間を新たに造り変え、罪の支配から解放された新しい人類を創造するためなのです。(ガラ6:14-15参照)」恵みのゆえに、神はキリストにより十字架の救いを完成され、死んで復活し、古い創造を終わらせて新しい創造に移りました。すなわち、私たちは信仰によってイエスとつながり、ともに死に、ともによみがえって、新しく創造された人となりました。生きるためには死ななければなりません。これが十字架の教えです。つまり、「死ななければ、生かされません」という教えで、具体的には、主が成し遂げられた救いのことを指します。つまり、十字架の死により、私たちの古い人が死んで、私たちがアダムにあって死ぬことを通してのみ、罪の束縛から解放されるのです。古い創造が終わらなければ、新しい創造に入れません。生きるためには、死ななければなりません。これが十字架の道の中心的教えです。
5、日々の十字架とは何でしょうか? 日々十字架を負って主に従う、とはどのようなことでしょうか?(へブ12:1-13、ルカ9:23-24参照)
(1)主に従いたい、主に喜ばれたいという志:救われて新しいいのちを受けたほとんどの兄弟姉妹は、キリストの愛からの感動と励ましにより、主を愛し、主に従い、主に喜ばれたいという心と思いが神から与えられています。
(2)神はご自分の子どもたちの新しいいのちを成長させるご計画を持っておられます。
▲ 私たちの内側で、心の一新によって自分を変えることを通して:
私たちは信仰によりイエス・キリストの救いを受け、死からいのちへ移り、新しいいのちを得たのです。日々、聖書を読み、祈ること等の新しいいのちを成長させる要素を受け取るべきです。それは子どもがミルクを飲むようです。何を飲んでいるのかわからなくても、毎日飲むことにより、成長していきます。聖書を読み、祈ること等を通して、心を更新させ自分を変えていくのです。
▲ 外側で、日々の十字架を通して:神を愛し、神に仕え、神の道を歩むことを願うすべての人に、神はいのちを成長させるご計画を持っておられます。つまり、内側は絶えず心の一新によって自分を変えることを通して、外側は日々の十字架によって私たちを育てます。万物を統べ治める主は、ご自身でこの計画を遂行されます。
▲▲ 日々の十字架とは何ですか?(へブ12:1-13参照)
▲▲▲ 日々出会う不愉快なこと、心に願わないことが私たちの十字架です。ヘブ12:2、3には、「イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、恥かしめをものともせずに十字架を忍び」、すなわち、「悪人の反抗と罪人たちの争いを忍ばれた」と書かれています。ですから、私たちが人と上手くいかないと感じる時、この調和を乱す出来事が十字架と言えます。なぜ不調和になるのでしょうか?それは、私たちの古い性質に背くからなのです。
▲▲▲ 私たちに起こるすべてのことは、神が許されたことであり、また神によって私たちに相応しく計画され、私たちの聖い品性を形造ってくださるためです。聖書はこう言っています。「神を愛する人、すなわち、神のご計画に従って召された人のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ロマ8:28)」と。またこのようにも言っています。「神の許しがなければ、髪の毛一筋も失われることはありません(ルカ21:18)。」髪の毛のことよりも小さいことがあるでしょうか?「神は風をたなごごろに集め、水を衣のうちに包みました。(箴30:4参照)」「神は風を重くし、水をはかりで量られる。神は、雨のためにその降り方を決め、いなびかりのために道を決められた。(ヨブ28:25-26)」今日、出会うのは雨やいなびかりかもしれません。あるいは嵐、洪水かもしれません。しかし、すべてのことは私たちの聖い品性を形作るためであり、いのちを成長させるためのものなのです。
▲▲ 日々の十字架に対する私たちの態度:
▲▲▲ 軽く見ても、落胆してもなりません。日々の十字架は私たちに聖い品性を形造るためにあるのですから、大きすぎる、重すぎると落胆したり、また、小さすぎて不注意になることがないように注意しましょう。例えば、
落胆しない:私の生まれつきのいのちはとても堕落しており、よく怒ります。一度怒ると、何日間も話しません。30年前のことですが、ある日、私が怒って主人と数日間話をしませんでした。すると、外から叫び声が聞こえました。3歳の娘がべビーカーから転倒し、手を骨折していたのです。・・・・・・その時、私はやっと話しました。神は十字架を通して私の口を開いたのです!
また、20年前のことですが、また悪い癖が出て、主人と話しませんでした。車に乗って娘と一緒に歯医者へ行く途中、車から煙が出て、私は車が燃えないように路肩に停車しました。タンクが漏れて、水がなくなっていたのです。高速道路のどこに水があるのでしょうか。仕方がないので、私は主人に電話をかけて「口を開いて」助けを求めるしかありませんでした。私たちが神に喜ばれたいとの思いがあるのなら、神には何もできないことはありません。すべての忍耐をもって、私たちが古い性質を脱ぎ去るように助けてくださいます。
軽く見ない:20年以上前のことですが、ある日、子供が私にこう言いました。「お母さん、私たちとあまり話す機会がないようですから、もっと話す機会を作ってください。」これはささやかで小さい事のようですが、神は私のうちでこのことを見過ごしませんでした。私は祈りました。「主よ、どのようにして時間を調整すればいいですか。仕事を調整して、子供と話す時間が作れるように教えください。」
▲▲▲従うこと:私たちに起こることは、すべてが理にかなうものとは限らず、相手が必ずしも正しいとも限りません。しかし、私たちは、これらのことすべてが神の御旨であることを信じなければなりません。神がこのような環境を備えられたことに従い、神の懲らしめの御手が私たちの上にあることに服従し、「私たちはすべての霊の父に服従して生きるべき(ヘブル12:9)」だと信じます。服従の基礎は十字架です。
例えば、主人と話をしていると、彼はよく、「あなたの言葉は、どうしてこんなにもひどいの?」と言いました。聖霊が、これは神が私を整えておられるのだと、私に気付かせます。もし反発して、「じゃあ、あなたはどうなの?」と言うならば、十字架を背負うのではなく、敵対することになります。主に従うこととは主を認めることです。主にどうすればよいかを聞くのです。「主よ、主人が私の言葉がひどいと言います。私はこのような堕落した人間です。どうぞ、お救いください。」これが十字架を背負って主に従うということです。過去において、私は主人が何かを言うと、必ず言い返すような者でした。今では感謝なことに、十字架を負って主に従うため、言い返すことが少なくなりました。言い返さないからといって、悔しいとも思いません。すべて主に委ねるなら、心には残らないのです。死が私のうちに働き、いのちは他人のうちに働くと信じます(Ⅱコリ4:12参照)。私が主とともに死ねば、主とともに生きるのです。私は言い返しません。物事がどのようになるかは、キリストのいのちがすべてを治められるのです。
▲▲ 十字架の道とは何でしょうか?(ルカ9:23、24)「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」日々自分の十字架を負い、主について行く、これが十字架の道を歩むということです。
▲▲▲ 日々の十字架:主イエスは、ある日に十字架がある、とではなく、日々十字架があるとおっしゃいました。多くの兄弟姉妹が、毎日の十字架は多すぎる、と言いますが、事実そうなのです。主イエスが来られる日は近づいており、小羊の婚宴(黙19:9)が近づいています。よく思うのですが、私には多くの古い性質があるので、神が私に聖い品性を形造ってくださるために、大なたをふるい、日々の十字架を通させ、大風と嵐にも遭わされます。その目的は、私が古い人を脱いで、新しい人を身に着るためなのです。それだけでなく、今は、ほんの小さなことでも、神は私を見逃しません。主にお会いする日が近いことがわかるので、感謝します。主はあまりにも私を愛しておられます。はっきり表れている古い性質だけでなく、隠れている古い性質をも脱ぎ去るように、そうしてきれいに整えられ、小羊の婚宴の日を待ち望むように、と主は求めておられるのです。
▲▲▲背負う:持ち上げる、掲げるという意味です。
▲▲▲主に従う:十字架を掲げて、あちこち走り回り、どこでも無実を訴え、話しまわることではありません。これは日々出会う十字架を掲げて主に従うことです。主を呼び求め、主を仰ぎ、主を高く掲げます。
▲▲▲日々十字架を背負って主に従う:日々起こる出来事、例えば、子どもから「お母さん、もう少し私たちに時間を作ってください、どうして私たちに時間を作れないのですか?」と不満を言われるようなことに直面します。十字架を背負うということは、これらの出来事を持ち上げて、主に従うことです。すなわち、主を認め、主にどうすればよいかを尋ね、主を呼び求めることです。「主よ、子どもがこのように言っています。私はどうすればよいかを教えてください。」または、主人が私について話した時に、「主よ、今日、主人に私の言葉はひどすぎると言われました。そうです主よ、私はこのようなひどい人間です。どうぞ助けてください。」これが日々十字架を背負って主に従うという意味です。
▲▲▲いのちを失う者は、それを救う:物事について主を呼び求める時、私たちは実際にいのちを失っています。では、失うとはどういうことでしょうか?それは、自分自身を顧みず、自分の感覚に頼らず、自分の考えを通さず、屁理屈をこねないことです。「自分を捨てる」とは、いのちを失うことです。十字架を背負って主に従うとは、主のためにいのちを失う(主とともに死ぬ)ことですが、実際には、いのちを救い(キリストとともに復活し)、いのちが成長するのです。
十字架を負って主に従うことについて、もう少しお分かちしたいと思います。私が現在よく気付かされることは、主イエスがおっしゃった「『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。(マタ5:37)」ということです。以前、私はよくひとこと多く語り、いつも余計に話していました。主人は私に、「あなたはいつも理屈をこね、いつも自分を正しいとするね。」と言いました。私は「そうよ、正しいのよ」と、思っていました。しかし、神は私に日々十字架を背負うことを教えてくださったので、感謝します。今では、主人がこのように言う時に、「主よ、そうです。私はこのような屁理屈ばかりの人間です。主よ、私を救ってください。」と祈るようになりました。これが日々の十字架を負うということです。
このように主に従うなら、私たちは自分のいのちを失います。言い訳をしなくなり、いのちが成長して、キリストのいのちを得ます。ですから、十字架を負うことは自分を捨てることで、苦しみを受ける心構えがあるということです。ペテロがこういいました。「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。(Ⅰペテ4:1)」もし、私たちに苦しみを受ける心構えがないなら、「何の権利によって、こんなことを言われないといけないのよ。」と、反論するでしょう。古い人はみな自己中心です。そのため、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着て、苦しみを受ける心構えが必要なのです。
日々十字架を背負って主に従う時、私たちの十字架は主の十字架と結び合わされ、主とともに死に、ともに生き、十字架の復活の大能の御力が現わされます。十字架を背負ったばかりの時には、よく辛く感じますが、それは私たちの性質と相反することだからです。古い性質とは何十年も一緒でしたから、苦しく感じることでしょう。しかし、本当に十字架を背負う時、神が死の苦しみを軽くしてくださるので、辛くなくなります。十字架の道をまっすぐに歩む時、私たちは解放されるのです。
6、主イエスの十字架と私たちの日々の十字架、これらのことといのちを得ること、新しいいのちの成長とはどう関係していますか?「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ」とは、どんな意味でしょうか?(エペ2:6、ルカ9:23-24)
(1)イエスを信じた時、私たちはイエス・キリストとその十字架を受け入れて、新しいいのちを得ました。
(2)新しいいのちを得た後、日々自分の十字架を負って主に従うことにより、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着て、新しいいのちが成長していきます。
▲主イエスの十字架:昔から、多くの人が十字架につけられましたが、一体誰が復活したでしょうか?ただイエス・キリストお一人だけが十字架に付けられた後、死から復活されました。
▲ 日々の私たちの十字架:すでにお話ししましたが、それは、私の願わない、私の望まない、人とうまくいかない、という様な日々出会う出来事です。例えば、子どもが私に不満を言う、主人が私に注意をする、今日、あの人ににらまれた、あの人が私に話しかけない、子供の成績が悪い、先生が父兄を呼び出す・・・・・・これらはすべて私たちの十字架です。
▲ 日々自分の十字架を背負って主に従い、主を認め、主に呼び求める時、私たちの十字架は主の十字架と結び合わされ、主とともに死に、ともに復活する経験をします。イエスが十字架に付けられたとき、ゴルゴタには、イエスと二人の強盗の三つの十字架がありました。一人の強盗がこのように認めました。自分たちはやったことの当然の報いを受けているが、イエスは罪を犯していない、と。彼は、「イエスさま、あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と頼みました。彼は主を認め、主に求め、彼の十字架が主の十字架と結び合わされました。イエスは何と言われたでしょうか?「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:40-43)
皆さん、神は真実な方ですから、私たちを耐えることのできないような試練(十字架)に会わせるようなことはなさいません。必ず脱出の道を備えてくださいますから、主に感謝しましょう。これらの事はすべて、私たちに聖い品性を形造るためなのです。ハレルヤ!願わくは、神が私たちに従う心をお与えになり、従順な子供となれますように。
(3)もし、自分の十字架を背負いながらも主に従わずに、あちらこちらを走り回るとしたらどうでしょうか。
神が備えた十字架は、すべて私たちにピッタリのものです。問題は、私たちがどのようにそれに対処するかなのです。どうしよう、どうしようと、あちらこちらを駆け回り、いろんな人に話し、あちらこちらに電話をし、誰々さんに今日こんな事を言われた、主人に今日こんな事を言われた、私が怒って当たり前でしょう、と話します。自分の十字架を背負っているだけで、あちらこちらを駆け回るなら、キリストの復活の大能の力にあずかることができません。ただ怒って、もだえて、苦しんで、悩むだけで、キリストとともに死にませんから、主とともに復活することもありません。
(4)「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ」の意味とは、何でしょうか。
私たちが主を信じた時、主とともに死に、ともに生き、新しいいのちを得て、新しいいのちの幼子となりました。主を信じてから、日々自分の十字架を背負って主に従い、主の十字架と結び合わされ、主とともに死に、ともに生き、新しいいのちが成長していきます。主とともに死に続けると、必ず主とともに生きます。これが「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ」という意味です。言い換えれば、主を信じ、新しいいのちの幼子になるだけでは十分でなく、日々自分の十字架を背負って主に従い、主とともに死に、ともに生きる事を経験していくことにより、新しいいのちは成長するのです。
7、「キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」とはどのような意味でしょうか。なぜ神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められ、これこそが神の知恵なのでしょうか?(Ⅰコリ1:21-25)
十字架の道は、すべてにおいて主を呼び求めることです。人から見ると、このように弱くなって、自分の主張もせず、何でも神に尋ね、すべてにおいて祈るなんて、本当に愚かに思えます。では、神のご性質、神の支配と人の支配との結末から見てみましょう。
▲「主は、王であられ、・・・世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。(詩93:1)」神は天地万物の創造者、統治者、いのちの源(いのちの泉、詩36:9)です。光を造られた父であり、すべての良い贈り物とすべての完全な賜物の源です。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。(ヤコ1:17)」
▲ しかし、アダムが罪を犯し、この世に罪が入り、人はみな「罪に売られ」、罪の性質に束縛され、罪の奴隷となり、「自己中心」の状態の中に生きています。:「神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあった・・・(コロ1:21)」、「わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」(エレ2:13)
▲▲「湧き水の泉であるわたし(神)を捨てて」:「悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、・・・(ロマ3:11、12)」
▲▲「水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」:「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。(Ⅰコリ1:22)」この箇所は、人間が神を捨てて、自分の力と知恵をもって平和な国を作り、すばらしい人生を楽しみたいという描写です。今日、全世界がこのように混乱し、暗く、汚れているのは、すべての人が罪の性質に支配され、自己中心の生き方をした結果です。神を離れては、いかなるしるしも、人生の哲学も、人に真の平安と喜びを与えることができません。満足した生活を与えることはできないのです。
▲ イエス・キリストとその十字架は、人類を罪の支配から救い、一本の新しい生ける道を開き、人々を信仰によって神の御前に帰らせることができます。
▲ イエス・キリストを信じる人は、イエスと結び合わされ、「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めとになられました。(Ⅰコリ1:30)」主を賛美します。私たちが信仰によってキリストとつながり、神の御前に立ち返る時に、キリストのすべては私たちのすべてとなります。私たちが自己の中に生きる時は、罪の性質に支配され、罪の源――自己中心の中に生きています。しかし、キリストを高く掲げて崇めると、罪は私たちを支配できず、神の知恵と神の力が現れます。ですから、キリストは神の知恵、神の力なのです。
世の人たちは私たちがすべてのことについて主を呼び求めているのを見て、一体何が解決できるのかと思うかもしれません。人から見れば、私たちは弱いですが、しかし、私たちは全能の主とつながっています。人から見れば、私たちは自分の知恵と力を捨てていますが、しかし、キリストの知恵と力が現われています。ハレルヤ!
8、十字架の教えと私たちの知恵、理解力、知識及び見解とはどのような関係にあるのでしょうか。(コロ1:9)
「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。(コロ1:9)」
すでにお話ししましたが、十字架の道とは何事も主に呼び求めることです。主にすべての願いを打ちあけると、人のすべての考えにまさる神の平安が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(ピリ4:7)。神は私たちに知恵と理解力とをお与えになったのに、十字架の道はすべての事において主を呼び求めることなのです。では、私たちは自分の知恵、理解力、知識と見解を用いる必要があるのでしょうか?私たちには頭脳がありますし、神もパウロの知恵を用いて、ローマ書やその他の手紙を書かせましたよね?答えは、もちろん必要です。問題は、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」から、私たちは自分の知恵、理解力、知識と見解とを神に委ね、神に管理していただき、聖霊の導きのもとでその知恵と理解力を用いるべきです。それこそが、「霊的な知恵と理解力」なのです。
ですから、ある事柄のために祈り、祈った後、内側に平安がある(聖霊の支配を表します)ならば、行なってよいのです。行なう時には、知恵を用いますし、両手が必要であり、また、両足で歩く必要もあります。私たちが祈れば、知恵と理解力が聖霊の管理の下におかれますから、心に平安が与えられたなら、その思いのとおりに行なってよいのです。皆さん、すべてのことを、絶えず祈りましょう。「主よ、私は何もできません。あなたを仰ぎます。」と、私たちが神を仰ぐ時に、神の霊が私たちの内側で働き、あなたのいのちであるキリストが、聖霊によってあなたの知恵と理解力を管理してくださいます。
祈りましょう:父なる神さま、あなたを賛美します。私たちを生んでくださっただけでなく、養ってくださり、外側は日々の十字架を通して、また内側はみことばと祈りによって、私たちの心を更新し、変えさせ、いのちを成長させてくださいます。このような導きを感謝します。十字架は神の知恵、神の力です。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。主よ、賛美します!イエスの御名によって、祈ります。アーメン!