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三、キリストとともによみがえる

 

2、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、 その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。:ローマ7章

 

すでに「私たちをキリストとともによみがえらせた」ことについてお話ししました。主イエス・キリストが「死からいのちに移る」救いを完成され、私たちが信仰によっていのちを得ただけでなく、日々十字架を背負って、主に従うように召してくださいました。私たちは、一つ一つの十字架を前に、主を認め、主を高く掲げ、すべてを主の御手にお委ねします。「主よ、私はあなたを認め、あなたに従い、すべてを御手にお委ねします。」このように、私たちが実際に主を認め従う時に、主とともに死に、ともに復活することを体験します。「私たちをキリストとともによみがえらされた」、このキリストの復活の力が私たちに現われ、いのちを失う者はそれを救い(ルカ9:24参照)、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ます(コロ3:9,10参照)。そして、新しいいのちが成長していきます。

例えば、子どもや夫に非難されたり、同労者との間で問題が起こると、以前の堕落した私ならば、言い返したことでしょう。しかし、感謝なことに、「十字架の道」を理解してから、神の憐れみにより、徐々に「十字架を背負って主に従う」ことを学びたい、と思うようになりました。「主よ、感謝します。御手の中に私を委ねます。古い性質を脱ぎ捨てられるように、私を救ってください。」と自分自身を主に委ね、言い返さない時、心が喜びで満たされ、この言い返す堕落した性質が、少しずつ解放されていくのです。

キリストは神の知恵であり、神の力であることもすでにお話しました。ハレルヤ!神の知恵、神の力は受肉したキリストの内に宿っており、私たちを信仰によってキリストとともに死なせ(私たちの知恵と力を滅ぼし)、キリストとともによみがえらせて、神の知恵と力を受け取らせてくださいます。ハレルヤ!ハレルヤ!「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(Ⅰコリ118-25)」

祈りましょう:愛する父なる神様、あなたを賛美します。人の目には愚かな方法を用い、「主イエス・キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。(Ⅱコリ13:4」」このような方法で私たちを救ってくださり、私たちは信仰によって、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ハレルヤ!何と素晴らしい救い、貴重な救い、栄光ある救いでしょうか。キリストは神の力、神の知恵です。神の愚かさは人よりも知恵があり、神の弱さは人よりも強いのです。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。(黙5:13)」アーメン。主よ、あなたは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」という救いのみわざを成し遂げられました。私たちは、「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。罪に死に、義に生きます。」という事実を、すでに確認しました。これから、「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(ロマ7:6)」ということを見ていきます。願わくは、聖霊が私たちの心を開き、主をもっと知ることができるように助けてください。主イエスの御名により祈ります。アーメン!

今回は、この聖句を読みましょう。「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(ロマ7:6)」

アダムは原罪を世に持ち込んだため、人々は「自分の罪過と罪との中に死んで」しまい、神との係わりが断ち切られました。しかし、神は世人を愛し、人々を救いたいと願われ、「十字架の救い」(死からいのちに移る救い)を用意してくださいました。―――これは、人類を造り変える、つまり、罪の性質から解放された人類を再び創造する救いです。神を賛美します。主イエス・キリストがこのような救いを完成してくださり、すべて神の恵みのゆえに、信仰によって新しいいのちを受け取ることができました。そして「信仰に始まり信仰に進ませる」ことにより、新しいいのちが成長します。新しいいのちについては、すでに、かなりお話ししました。今からお分かちしたいのは、「日々自分の十字架を背負って主に従い、主とともに死に、ともに復活し、新しいいのちが成長する」ことについてです。

    私たちは、日々自分の十字架を背負って主に従い、主を認めます。では、次の一歩は、どのように歩むのでしょうか?ローマ6章に、死んでしまった者は、罪から解放されているので、罪(罪の性質)は私たちを支配することはない、と書いてあります。「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ロマ6:14)」ローマ7章では、以下のように語っています。罪がさまざまな方法を用いて、私たちを律法の下で生きるように誘惑し、束縛しようとしますが、しかし、いのちをお与えになる聖霊が、私たちを解放してくださいます。

1、「律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ」とはどのような意味でしょうか。(ローマ71-3

「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。――夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。(ロマ7:1-3)」

    この聖句は、「律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ」と語っています。では、質問です。律法は死んだ人に対して何か要求できますか?また、律法を行なうのは生きている人、それとも、死んだ人ですか?当然のことですが、生きている人です。律法の要求はその人が死ぬまでです。死んだ人は、律法の要求を果たす義務はなく、また、そうすることもできません。つまり、律法の権限は人が生きている間だけであり、死んだ人は律法の要求から解放されます。律法は死んだ人に対して権限がないのです。

2、どのようにして「自分を捕らえていた律法」に対して死ぬことができるのでしょうか?(ロマ63-674-6

 

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ロマ63-6)」

 

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(ロマ74—6)」

 

1)全世界の人は、「アダムにあって」生まれ、「律法の下」に生まれたのです。(Ⅰコリ1522、ガラ44参照)

2)「律法」と「律法の下」とは、それぞれどのような意味でしょうか。

▲律法:人間に対する神の義なる要求です。律法は霊的なもの、聖なるものであり、また、良いものです(ロマ712)。律法は最高のものであって(ヤコ28)、決してすたれることはありません(マタ518)。

▲律法の下:自分の努力に頼って、神の要求を達成しようとすることです。律法を完全に守れるなら、「『律法を行なう者はこの律法によって生きる。』のです。(ガラ312しかし、誰一人として律法の要求を達成することはできません。ですから、「律法の行ないによる人々はすべてのろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』(ガラ310)

3)だれも律法の要求を全うすることができません。それで、律法は「私たちを捕らえる律法」となりました。「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(ヤコ210)」

4)キリストは、私たちを「自分を捕らえていた律法」に対して死なせ、救ってくださいました。

神の救いについて、私たちは繰り返しお話ししたので、ここでは簡単に触れるだけにします。主イエスの一生は律法を完全に守るものでした。主イエスは、私たちのために十字架につけられ、血を流し、死んでくださいました。私たちは信仰によって、主とつなぎ合わされ、ともに死にました(死において主とひとつになりました)。「律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけ(ロマ71)」ですから、私たちはすでに死んだので、「律法の束縛」に対しても死にました。言い換えるなら、私たちは、どのように死ねたのでしょうか?イエスの死によってです。イエスは律法を完全に守られ、十字架の上で死に、律法の私たちに対する要求を完全に支払いました。私たちが主の御名を呼び求めた時、主とともに死に、律法において(私たちを捕らえていた律法において)死んだのです。ハレルヤ!

3「律法に対しては死んでいるのです」とはどのような意味でしょうか?ロマ74どのように律法に対して死ぬのでしょうか?

1「律法に対しては死んでいるのです」とはどのような意味でしょうか?上記でお話ししたように、イエス・キリストを信じることによって、キリストとつなぎ合わされ、キリストとともに死にました。死んだ人は律法の束縛から解放されているので、私たちは「律法に対しては死んでいるのです」。また、律法はもう私たちを捕らえることができないので、私たちはそれを守る義務はありません(皆さん、私たちが好き勝手に生活できるとは思わないでください。絶対にそうではありません!神は私たちに別の新しい律法をくださいました)。それに、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」から、「私」は、自分の努力で神の要求を達成する必要もなく、また、そうすべきではありません。

2どのようにして律法に対して死ぬのでしょうか?

 主の御名を呼び求めることを通して主とつながり、主とともに死んだことにより、「律法に対して」死にました。このことについては、後で詳しくお話しします。

 神は私たちを絶望させるよう働かれます。

私たちは習慣的に「自分に頼って」行動します。「律法に対しては死んでいるのです」とは、自分に対して絶望しなければならないということです。神は私たちを形造り成長させ、少しずつ自分に対して絶望させていきます。そして、言葉だけでなく心から神に従わせ、自分の努力で神に喜ばれようとはしなくなるようにさせます。私たちは日常生活の中でよく葛藤し、勝利したくても結果はいつも失敗に終わり、「どうしてこんなに弱いのだろう?」とため息をつきます。このように嘆くのは、まだ自分の肉が勝とうとしているからです。まだ、完全に自分に絶望し、自分には何もできないと信じるほどまでには、弱くなってはいないのです。ですから、主は、私たちにいろいろな弱さを経験させ、もう「(私は)おしまいだ」というところまで弱くします。その時こそが、主が「完了した」と言われる時なのです。

 

4、もはや古い文字によって主に仕えないなら、どのようにすればよいのでしょうか?(ロマ76

「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ロマ76

「死からいのちに移る」救いを成し遂げてくださった主イエスを賛美します。私たちは、信仰によって主とともに死に、律法から解放され、主とともに生き、いのちの御霊の原理の中で生きます。

1キリストが律法を終わらせられた(ロマ101-4):「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ロマ101-4)」聖霊がパウロによってこの聖句から次のことを示されました。

▲神に対して熱心であるには、真の知識に基づかなければなりません。つまり、私たちの思う熱心ではなく、神の御旨による熱心でなければなりません。

▲神に対して熱心である真の知識とは、神の義とは何かを知ることであり、どのように神の義に到達していくのかを知ることです。

▲「キリストが律法を終わらせられた(ロマ104

▲▲キリストは律法を完全に守り、律法のすべての要求を満たしました。キリストの一生は律法を守るものでした。主は律法の下に生まれましたが(ガラ44)一生涯、罪を犯しませんでした(へブ415)

▲▲キリストは死によって、人類が律法を犯したことにより担うべき代価を支払われました。ですから、罪人が主イエス・キリストを救い主として受け入れた時、キリストと結びついたことにより、律法は私たちに何の要求もできません。第一に、イエス・キリストが私たちの罪責を完全に支払われました。第二に、私たちは、すでにキリストとともに死んだので、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた(ロマ66)からです。私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放されました(ロマ76参照)。キリストを信じる人は、もう律法とは係わりがありません。律法によって義とされようとする必要もなく、また、そうしてはならないのです。

▲▲キリストの律法:

主イエスが死によって、律法の要求を全うし、律法との関係を絶ちました。主イエスは単に死んだだけではなく、死から復活して、新しい律法――いのちの御霊の原理(キリストの律法ともいう)――を完成しました。それは、律法の代わりに人の心を治め、人々が律法の要求を達成できるようにします。主イエスは私たちのために救いを完成され、天に昇られました。父なる神はイエス・キリストの御名のゆえに、聖霊をお与えになり、救いを成し遂げられます。主の御名を呼び求めることによって、聖霊は私たちを生まれ変わらせ、いのちを得させます。そして、主を信じるすべての人のうちでいのちの御霊の原理となり、注ぎの油の教えによって、すべてにおいて私たちを導きます。私たちは、聖霊に従い、より頼みながら歩みます。律法の義は肉に従って歩まず、聖霊に従って歩む私たちに成就していくのです。(ロマ84

▲▲ キリストが律法を終わらせたのには、二つの意味があります:

一つは、キリストが、私たちに対する律法の要求を終わらせたので、私たちはもう律法の下に生きません。もう一つは、父なる神が聖霊をお与えになり、律法に代わって、いのちの御霊の原理が私たちの心の中で働くようになりました。私たちが肉に従わず、聖霊に従って律法の要求を全うできるようにしてくださったのです。ですから、私たちは恵みの中に生きるのです。

▲信じる人はみな義と認められるのです:

主を賛美します。キリストが律法の要求を終わらせたため、私たちは律法の下に生きることなく、また、神に喜ばれるために、自分の努力で律法の要求を全うする必要もありません。事実、それは永遠に達成することはできないのです!しかし、いのちの御霊の原理により、私たちは二度と自分の努力に頼らないで、信仰によって義をいただけるのですから、主に感謝しましょう。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ロマ84)」「私たちは信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。(ガラ55)」ハレルヤ!「信じる人はみな義と認められるのです。(ロマ104)」

2)「古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(ロマ76)」

▲古い文字によって主にお仕えする(律法の下で奉仕する)のは、「私」の功績です。律法の下で奉仕し、「自分自身」(つまり肉体)の努力(意志、忍耐及び各種能力)に頼り、恐れおののいて律法の定めを行ないます。律法の要求を全うするため、多くの「すがるな、味わうな、さわるな 」等の定めを立てます(コロ221参照)。実際には、「そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。(コロ222-23参照)」これらの古い文字による奉仕をすると、よく自分がとても成功したように思ってしまいます。奉仕して用いられると、自分を高くし、自慢します(表面上は、神の恵みだと言いながらも、心ひそかに喜びをかみしめます。もし、他の人が違う意見を出すと、不愉快になり、不満でいっぱいになります。)。もう一方で、他の人が上手くできていないと言って批判し、裁くのです。奉仕をしてもまだ効果が現われない時は、意気消沈します。他人が意見すると、大騒ぎし(心の内、外に関わりなく)、自分に功績もなく、労苦も報われないように感じます。

▲古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです(恵みにある奉仕)

主を賛美します。律法の義は必ず達成しなければなりません。キリストは、十字架の死によって、律法の要求を満たし、律法を終わらせました。それゆえ、私たちは律法を行なう必要がなく、それ以上に、律法によって行なってはならないのです。なぜなら、「私」は肉に属しますから、自分に頼っては律法の要求を全うできないからです。「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。(ロマ8:7)」

主に感謝します。キリストが死からよみがえり、天に昇られました。神は聖霊を地上に遣わされて救いのみわざをなされます。聖霊は、主を信じるすべての人々の内に住んでくださり、いのちの御霊の原理となりました。このいのちの御霊の原理(次の課で詳しく説明します)は、旧約の律法に代わって私たちの心を治め、導いてくださいます。聖霊(いのちの御霊の原理)は私たち個人のいのちの成長にあわせて要求し、導きます。律法の要求(律法の義)が、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に全うされるためです。

律法の要求に直面したときには、「主よ、今生きているのは、私ではなく、キリストが私の内に生きているのです。」「主よ、この要求において、私は何をすればよいか、伴い導いてください。」と祈りましょう。心に平安が与えられるまで祈ったなら(これがキリストの平安です)、この事については、すでにキリストに主権を明け渡したということです。ですから、私たちはキリストが聖霊によって私たちの心を導いてくださるとおりに行なえばよいのです。

「新しい御霊によって仕えているのです(ロマ76)」を以下のようにまとめることができます。主に仕えることは、肉体のいのちに頼ってするのではなく、キリストが私のいのちであることにより頼んで行ないます。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラ220)」「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタ2639)」「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。(ゼカ46)」「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。(詩1271すべてが恵みによるもので、人の力はむなしいものです。

5、「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました。(ロマ75)」とはどういうことでしょうか。

1)「律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ(ロマ71)」:

生きている人は、律法の要求を満たさなければなりません。

2)「私たちが肉にあった」(聖書では自分を指し、そのため、主イエスは自分を捨てるように言われました)の意味は、救われて新生しているのに、まだ自分の力に頼って、自分の考えで、理性で分析することです。「私」自体は中立的であり、良くも悪くもありませんが、「私」に頼る時、つまり自我に生きる時に肉にある状態になってしまいます。

3)「律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて(ロマ75」:

肉にある人は、自我が生きている状態にあるため、律法に支配されます。何かが起きると、すぐに律法の下に生き、罪の性質に支配され、むさぼりが体のうちに起こります。律法は聖であり、正しく、また良いものなのですが、私たちが律法の下に生きると、罪に支配され、むさぼりが生じるのです。

4)「死のために実を結びました」:

肉にある状態(自己中心)になると、律法の下に生きることになり、罪に支配され、むさぼりが起こり、その結果は死に至ります(一時的に神と断絶状態になります)。皆さん、「こうあるべきでない、あああるべきでない」と、いつも他人を批判したりしていませんか?事実、私たちが「こうあるべきでない」と言葉に出す(あるいは思う)時、すでに「私」の中に生きています。「……べきだ」は律法です。私が「こうあるべきだ」と話す、あるいは思う時、もうすでに罪に支配されており、その結果は死です。死とは神との一時的断絶を指します。私たちの経験がこの事実を証明することでしょう。あの人はおかしい、ああするべきでない、と思う時、内側から怒り()が出てきて心の中がもやもやして、祈りは聞かれるでしょうか? 祈りは聞かれなくなり、一時的に神と断絶している状態になるのです。

律法には誤りはありません。問題は、私にあります。「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。(ロマ714)」そのため、律法が現われると、「私」は罪の性質に支配されます。罪に支配される時、肉の欲が出てきて、死の実を結びます。これが「律法による数々の罪の欲情」の意味であり、私たちの体も罪の器となってしまいます。

6、「それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。」(ロマ711) とはどのような意味でしょうか。

1)律法は聖なるものであり、正しく、また良いものであること。律法が人に係わるのは、人が生きている間であること。すべての人が罪に支配されたため、人の弱さのゆえに、律法を行なうことができなくなったこと。救われて新生した人が、自我(自分に頼り、肉にある)に生きるなら、再び罪によって支配されてしまうこと。これらの事実を私たちはしっかりと覚えていなければなりません。

2)イエス・キリストが成就された救いは、私たちの古い人(肉体と肉体に属する情欲)を十字架とともにつけました。「死んでしまった者は、罪から解放され、律法に対して死んでいるのです。(ロマ6776参照)」すなわち、私たちが死んだため、罪の性質は私たちの主になることはできないのです。救われて新生した後、日々十字架を背負って主に従い、主とともに死ぬなら、罪は決して私たちを支配できません。

3)罪は本当に極度に罪深いものです。(ロマ713):罪は、私たちに罪を犯させることによって私たちを殺すのではなく、「戒めによって機会を捕らえた罪が私たちを欺き、戒めによって私たちを殺すのです。(ロマ711参照)」罪はどんな機会を捕らえるのでしょうか?罪は、まだ私は「律法の要求に達していない(ロマ77-9参照)」ではないか、と知らないうちにまた私たちを責めて、戒めに目を向けさせます。そして、私たちを欺いて、自分に頼って生きるように勧め、がんばって律法の要求を全うさせようとするのです。

例えば、ある信じたばかりの兄弟姉妹がこの世の風潮に流されて同棲しました。教会の人が彼らに同棲してはいけない(これは戒めです)と話しました。この兄弟姉妹が同棲はいけないことだと知り、神に喜ばれたいと思ったとします。すると、罪はこの機会を捕らえ、彼らに自分の意志、努力、方法をもって同棲しないようにさせます。実際、自我に生きて、自分の力に頼って同棲しないというなら、その意図は良くても、方法が間違っています。すぐに罪に支配されて「殺されて」しまい、失敗に終わります。それは、同棲は解消しますが、心の内側は辛くてたまらないか、あるいは、また同棲し続けてしまいます。すでに、お話ししましたように、古い文字にはよらず、新しい御霊によって生きようとするなら、私たちは主の御名を叫び求める道を歩み、次のように祈るべきです。「主よ、同棲は間違っています。私たちの罪を赦してください。自分自身から解放されるように助けてください。主よ、私たちを救ってください、同棲から解放されるように助けてください・・・・・・。」と。

4主イエスを賛美します。キリストが律法の要求を終わらせてくださったので、私たちは、もはや律法の下に生きることなく、恵みの中に生きます。罪は決して私たちの主になれません。しかし、罪はいろいろな方法を用いて、私たちに律法を守らせようとします。この聖句ローマ711は、以下のことを指し示しています。罪は、まだ私は「律法の要求に達していない(ロマ77-9参照)」ではないか、と知らないうちにまた私たちを責めて、戒めに目を向けさせます。そして、私たちを欺いて、自分に頼って生きるように勧め、がんばって律法の要求を達成させようとするのです。

7「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。(ロマ714とはどういうことでしょうか。

(1)ローマ6章は次のように教えます。死んだ人は罪から解放され、罪はもはや主になることはできません。それは、私たちが律法の下にではなく、恵みのうちにいるからです。ローマ7章は、「私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(ロマ76)」と語ります。しかし、罪はいろいろな方法をもって、私たちに自分に頼って律法を守らせようとします。自我が自分を頼ることによってよみがえり、罪に支配されてしまいます・・・・・・。

2「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」アダムは神の御前でどんな罪を犯したのでしょうか?それは、反逆と背信です!それは他の言い方をするなら、アダムは罪と「死の契約」(ローマ623参照)を結んだことになります。彼の子孫全員が罪の奴隷として売られたのです。アダムが罪を犯した後、罪はアダムによってこの世に入り、アダムのすべての子孫(全人類)を支配しました。そのため、人は生まれた時から古い人――罪の奴隷です。

救われて新生した人は、古い人がすでに主とともに十字架につけられて死んでいます。「私は肉にある」(聖書はこれを自我と言っています)という意味は、すでにお話しました。人が救われて新生しても、自分の力、自分の意思、自分の理性による分析に頼って生きるなら、古い人の性質が出てきます。「私」は中立的であり、良くも悪くもありませんが、「私」に頼る時、つまり、自我に生きる時に、肉にある状態になります。この肉は本来罪に売られたものです。罪は律法によって私を肉の中に生かせ、そして支配します。そのため、自分に頼ると、罪に支配されてしまいます。

8、「私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(ロマ718-24)」とはどういうことでしょうか。

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、なる人としては、 神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ロマ718-24

1)この聖句を読まれる時には、本ホームページの図解三をご参照ください。この図が示している「神に頼るか、自我に頼るか」の二つの道は、自我に頼り「律法の下」に歩むか、神に頼って「恵みの下」に歩むかに分かれています。

2)この聖句についての説明は、「律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけです。」私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。」という事実に基づいています。

3)「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」この聖句は「肉に生きている」状態を表しています。パウロは以下のようにまとめています。「もし、私たちが肉の中に生きているなら、善を行ないたいと願っても(律法を守るという意味)、何の効果も得られない結果に終わります。自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。それは、私のうちに住む罪がしたのです。」私たちが肉のうちに生きると、必ず罪に支配され、したいと思う善を行なえないことが、このみことばからよくわかります。

4)どうして効果が得られないのでしょうか?パウロは、はっきりと、こう語っています。

▲ そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理(律法A――罪の律法)を見いだすのです:私たちが自分に頼って良い事をしようとする時、罪に支配されます(悪が私に宿っています)。これは変わらない原理です。

▲ すなわち、私は、内なる人としては、神の律法(律法B)を喜んでいる:新しく造られた内なる人は神の律法を喜びます。神の律法とは、聖霊がみことばをもって心に与える感動を指すとも言えるでしょう。

▲ 私のからだの中には異なった律法(律法C)がある:私は神の律法を喜んでいますが、その後、どうすれば良いでしょうか?主を呼び求め、主により頼む道を歩むことをお話してきたのですが、パウロはこのような戦いを経験したのです。自分の方法に頼ると(律法を守る)、罪に支配されます。この罪に支配されると、からだは肉の情欲に従うことになるのです(からだの中にあるもう一つの律法、律法C)。

  からだの中にある罪の律法(律法D――死の律法):罪に支配された時(律法A、体の欲が罪に支

律法Cされ、聖霊の感動律法Bに従えなくなります。返って、からだの中にある罪の律法(律法D)に服従し、罪を犯してしまいます。

これは、パウロが語っている情欲と聖霊の戦いの順序です。

皆さん、ローマ書7章を通して、律法の要求は全うしなければならないことを見てきましたが、本当にそうでしょうか?そうです、その通りです!天地万物が過ぎ去っても、律法の一点一画も廃れてはなりません。問題は、人に達成することができないところにあります。ですから、イエス・キリストの救いに頼らなければなりません。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と信じるので、キリストに私たちのうちで神の律法を全うしていただくのです。罪は律法を用いていろいろな方法で、私たちを自分に頼って生きるようにさせます。そのため、情欲と聖霊の戦いが起こるのです。しかし、主に感謝します。神がお与えくださったいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放してくださいました。ハレルヤ。アーメン。

祈りましょう:主よ、ローマ7章の解き明かしをもって示してくださり、心から感謝します。どうぞ、私たちに語り、自我に生きることから救ってください。私たちは律法に目を向けると、すぐに罪に支配され、肉の欲に従って、死の実を結んでしまいます。聖霊様が私たちの心を開いてくださり、律法の下に生きないように、いつも恵みのうちに生きるように助けてください。あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神に知っていただくことができますように助けてください。イエスの御名によって、アーメン!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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