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三、キリストとともによみがえる

 

3、いのちの御霊の原理(一)

 

祈りましょう:何と素晴らしい主、素晴らしい救いでしょうか!心から感謝します。主よ、「律法の下に生きずに、恵みのうちに生きる」ことを、私たちはいつも聞いてはいますが、実際に体験したことがありません。主よ、律法の下に生まれた私たちは、本質的に律法の下であなたに喜ばれようとしてしまいます。主よ、私たちを助けてください。私たちを自我から救い出してください。願わくは、ご聖霊が示してくださり、何が古い文字によるもので、何が新しい御霊にあるものなのかを教えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン!

主を賛美します。日々自分の十字架を背負って主に従うことにより、主とともに死に、ともに復活することができるのですから・・・・・・。主とともに死んだので、私たちは死んで罪の支配から解放されました。私たちは死んだので、もはや律法の下には生きず、以前のように好き勝手には行動しません。なぜなら、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」から。

私にとって、「死んでしまった者は、罪から解放されている(ロマ67)」ということは、理解しやすいです。しかし、「死んでしまった者は、律法から解放されている」ことについて頭では理解できますが、実際にいのちが成長していく歩みにおいて、難しさを感じます。それはイエスを信じてから、私は長年「どのように良いクリスチャンになるか」という固定観念の中で生きてきたからです。聖書が語るとおりに行なわなければならないとして、自分だけではなく他人にも要求していました。そのため、いつも自分の努力に頼って、聖書の要求を達成しようとしていたのです。ですから、救われて生まれ変わった後には、行いや人柄は古い文字から解放されるべきで、自分の考えや自分の努力に頼って神の要求を全うしようとしてはならないということは、私にとって不自然に思えました。

そうであっても、古い文字が最終的にもたらすのは、ただ「自分に対しての絶望感」だけであることを、どうか聖霊が私たちの内側に語りかけ示してくださり、実際の信仰生活の中でも経験できますように。自分に頼っては何もできない、自分はどうしようもない、と心から認め、「主よ、どうか私を自我から救い出してください。あなたのいのちが、私の内ですべて成就してくださいますように。」と願い求める新しい御霊の原理に立ち返ることができますように。

    ある年、農村の忙しい季節を終えた後、ある兄弟が私にこう言いました。「おばさん、私たちはとても弱いです。聖書を学びたいのですが、一向に進まず、霊的に奮い立たないのです!」と。私はこう答えました。「兄弟、まだ弱さが足りません!」彼は、「おばさん、どうして弱さが足りないのですか?もうこんなに弱くなっているのに、どうするんですか?」と言いました。私はこう答えました。「弱いと感じるのは、私たちがまだ何かができる、また、もう少し強ければいいのにと思うからです。私たちは死に至るまで弱くならなければなりません。」

皆さん、「聖書を学ぶ」ことは正しいでしょうか?もちろん、正しいです。問題は、聖書を勉強するということですが(すべての良い要求に対してもみな同じことですが)、ここでやはり古い文字が出てきてしまいます。○○兄弟、この授業を用意してください、○○さん、その学びを準備してください等と、「私」が段取りを始めるのです。そのため、兄弟姉妹は聖書の学びのテキストを一生懸命に探し、どのように教えればよいか考えます。何がよくないのでしょうか?聖書の学び自体が悪いのではなく、その聖書の学びにおいて、私たちが誰を主とし、何の力に頼るのかを問われるのです。つまり、聖書を学びたい思いは新しい御霊によるのだろうか、ということです。まず最初に、「主よ、聖書を学びたいですが、どうか、私を自我から解放してください。主よ、どうしたらいいでしょうか?どうぞ、導き伴いください。」と祈り、その後、自分の意志や力ではなく聖霊の導きにより、一歩一歩進めていくのです。

皆さん、ある時、皆がこうつぶやきました。「おばさん、おばさん、自我から解放してくださいと主に祈っても、時々効果がないのです!人に対して怒る時に祈っても、まだ怒り続けてしまいます。誰かにわだかまりがあっても、それがまだあるのです!どうして効き目がないのでしょうか?」私はこう答えました。「心から主を呼び求め、主を崇めたのなら、すでに信仰によって神を仰ぎ、すべてを主に委ねたのです。主のなさることには時があります。その時が来れば成就しますから、私たちが焦る必要はありません。」

    時々、神はすぐにはお答えにならないようですが、どうしてでしょうか?神は私たちを弱くさせ、死に至るまで弱くなるのをお許しになります。私たちに「私」の弱さを思い出してほしいのです。ラザロが病気になった時、主イエスはそれを聞いても、更に二日間その地方に留まられたあの時のようにです。ラザロが死んで腐ってしまってから、主イエスはラザロを死から復活させました。あなたが「もう、頭にきそうだ!どうして祈りがきかれないのだろう?またひどく怒ってしまいそうだから、ただ自分を抑えるしかない。」と感じているならば、違う方法で祈ってみてください。「主よ、私は認めます。私はこのような人間です。自分を抑えることさえできないのです。助けてください。」自分に絶望した時には、「主よ、私はこのように短気な人間で、どうすることもできません。あなたの救いを仰ぎ望みます。」と祈って試してみてください。すぐに解放されることでしょう。

    以前、ある姉妹が私にこう言いました。「おばさんの語る十字架の教えで、皆が解放されました。今日、私はある人との契約の機会を放棄して、ここに来たのです。それなのに、私はまだ解放されていません!」私は言いました。「主の御手に委ねましょう。解放されないなら解放されないのです。主ご自身におまかせしましょう。『私が解放されたい』は、また『私』ですよね?自分を捨てて、自分は何もできず自分には解放できないことを認めましょう。主よ、あなたご自身が成し遂げてください。」午後になり、この姉妹は喜びに溢れてやって来て、「おばさん、私も解放されました!」と言いました。「自分に絶望し、主の救いを仰ぎ、キリストは私のいのちであり、私の内側ですべてのことを成し遂げられる」、これこそが新しい御霊なのです。

    主イエスは十字架の上で律法を終わらせました。主は死なれ、私たちを律法から解放するとともに、もう一方で、新しい律法―――いのちの御霊の原理を全うしてくださいました。私たちが聖書の真理を話す時、両方をバランス良く話す必要があります。つまり、律法からの解放だけを話すのではなく、必ず恵みに入ることをも話さなければなりません。主に仕えるのは、古い文字によるのではなく、新しい御霊によることを話さなければならないのです。

 

1いのちの御霊の原理にはいくつかの名称があります(ロマ82、ヤコ125、Ⅰコリ921

主イエス・キリストは、十字架上で新しい律法---いのちの御霊の原理を全うされました。聖書の中で、この原理が成す三つの異なる効果から、三つの異なる名詞が使われています。

1)いのちの御霊の原理:「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ロマ82)」

▲「いのちの御霊の原理」とは何でしょうか?

主イエス・キリストが救いを完成し、天に昇られた後、父なる神がそのために聖霊を遣わされ、救いを行なわれます。聖霊が私たちを新生させた後、永遠に主を信じる者の心に内住し、導いてくださいます。これが「いのちの御霊の原理」です。

なぜ「いのちの御霊の原理」と呼ぶのでしょうか?

私たちが主の御名を呼び求め、イエスを自分の主と認めた時に、聖霊が働かれて私たちを生まれ変わらせ、新しいいのちを与えます。私たちが主の御名を呼び求め続け、主として認め続ける時に、聖霊は私たちの中で働き続けてくださり、新しいいのちを成長させていきます。「主の御名を呼び求め、聖霊が働かれ、いのちが与えられる。主の御名を呼び求め、聖霊が働かれ、新しいいのちが成長する。」これは変わることのない原理だからです。

2)完全な律法、すなわち自由の律法:「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(ヤコ125

▲「完全な律法、すなわち自由の律法」とは何でしょうか?

「完全」という言葉は、主イエスが十字架の上で叫ばれた「完了した」と同じ言葉です。この律法は人が守ることのできるものなので、「自由の律法(中国語訳:人を自由にする律法)」なのです。ですから、「完全な律法、すなわち自由の律法」とは、主イエスが十字架で完成された、人が達成できるものです。

なぜ「完全な律法、すなわち自由の律法」と言うのでしょうか?

十戒を代表とする旧約の律法であっても、また日々出会う出来事もみな、私たちを束縛します。一体、なぜでしょうか?それは、努力して律法を達成しようとしても、内側は葛藤でもがき苦しみ、達成できないと、ついにガッカリして落ち込んでしまうからです。この旧約の律法は最高の律法(ヤコ28であるにもかかわらず、私たちには全うすることができませんから、私たちを捕らえる律法となりました(ロマ76)。主イエスがお与えになった律法は私たちを自由にします。次に、どのように自由にするのかをお話ししましょう。

3)キリストの律法:「律法を持たない人々に 対しては、――私は 神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。(Ⅰコリ921)」「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラ62)」

▲「キリストの律法」とは何でしょうか?

キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ロマ104)」旧約の律法は私たちの努力によって守りますが、キリストの律法は、「信じる人はみな義と認められるのです。ハレルヤ!

なぜ「キリストの律法」と言うのでしょうか

それは、キリストが十字架の上で完成された「死からいのちに移る」救いだからです。死んで律法から解放され、復活して新しい律法を完成されたのです。

2、いのちの御霊の原理と律法の根本的に違う点:(エレ3131-333240、エゼ3626-27、イザ4011、ヨハ1613、Ⅰコリ1311、へブ513-14

1)旧約の律法は石の上に書かれた十の戒めであり、あれをしなさい、これをしなさいと要求しますが、律法を守る力は与えてくれません(人の頑なな心では守れません)。しかし、いのちの御霊の原理は、神が聖霊を私たちにお与えになり、頑なな心を肉の心に変えます。聖霊が私たちの内側で導き伴なわれるため、私たちは自然に守れるようになり、神を恐れ敬い、従う力が与えられます。

▲「見よ、その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―― 主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレ3131-33

    旧約の律法は石の板の上に刻まれていますが、いのちの御霊の原理は私たちの心の中にあります。

▲「わたし(神)が彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。(エレ3240)」

旧約の律法は「主を敬いなさい」と教えますが、守る力を与えてくれません。いのちの御霊の原理は私たちの中で、自然に主を恐れ敬う心を授けてくださいます。

▲「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(エゼ3626-27)」

 

旧約の律法は、人の頑なな石の心では守ることができません。いのちの御霊の原理は、神が聖霊を私たちの内に置かれ、新しい御霊をもって(肉の心が与えられ)、新約の律法を自然に守ることができ、神に対する恐れと従う力が授けられます。

2旧約の律法は、まるで定規のように人を測り、要求する型どおりの変わらないものです。いのちの御霊の原理は、一人一人異なる新しいいのちの成長レベルに合わせて、一歩一歩伴い導きます。つまり、聖霊は私たちの内側の新しいいのちの成長に合わせて語られ、感動を与え、導かれるのです。あなたが一歳なら、主は一歳の話をされ、二歳なら、二歳の話をされます。主が語られる言葉、与えられる感動は、必ずあなたのいのちに合ったもので、あなたに合わせて導かれるのです。外面上見たところ、律法はすぐに達成できるように思えます。律法がねたんではならないと語るから、ねたみません(実は、本心を隠しているだけで、そのようには守れないのですが)。しかし、いのちの御霊の原理は、一歩一歩導き、実際に律法の義を達成します。

▲ 「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。(イザ4011)」

いのちの御霊の原理は、私たちを焦らせず、ゆっくりと導きます。

▲「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。(ヨハ1613)」

ここでの「導き入れます」の意味とは、私たちを一歩一歩導き、すべての真理に入らせることです。

▲「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。(Ⅰコリ1311)」

神は私たちを段階別に導かれます:子どもの段階での導き、大人の段階での導き・・・・・・と、すべて違います。しかし、旧約の律法はすべて同じで、聖書が言う事をそのまま行なうのです。

 

3、いのちの御霊の原理に含まれる、三つの側面とは何でしょうか?(ルカ119-13、ガラ51625

いのちの御霊の原理は:(1)神の要求(2)心に平安があるまで祈り求める(3)内側の心の平安と外側の調和によって行なうこと、の三つの側面があります。

1)いのちの御霊の原理、一つ目――神の要求:

以前にもお話ししましたが、私たちが救われ新生した後、神は私たち一人一人に対していのちの成長の計画をお持ちになり、日々起こる十字架によって、私たちを造り変えてくださいます。日々の十字架(すべての意にかなわない、願わない人や物事)とは、神の私たちに対する要求です。これらのものは私たちに聖い品性を形造るために、神が許されたのです。皆さん、何という慰めでしょうか!神の許しがなければ何事も私たちに起こりません。そのようなことが起こるのは、必ず私たちに聖い品性を造られるためなのです。ハレルヤ!人とは、何者なのでしょうか?あなたがそのように重んじられるとは。

2)いのちの御霊の原理、二つ目――心が平安になるまで祈る。心の平安の内容はいのちの御霊の原理の内容です:以前にもお話しましたが、日々私たちに起こる十字架に対し、主の御名を呼び求める十字架の道を歩みましょう。

あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神に知っていただき、心が十分に平安になるまで祈ります。

▲心の平安の内容とは(その平安が、思い、みことば、賛美歌等のどれを通して与えられたものであっても)、いのちの御霊の原理の内容で、それは以前「みことばを行なう」でお話した「注ぎの油の教え」のことです。

▲▲キリストの平安でなければならない:つまり「キリストの平和が、私たちの心を支配するようになるまで(コロ315参照)」静まって祈ります。「自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。(ロマ1422)」

▲▲みことばの要求に沿い、真理の原則に反しない。(イザ820

▲▲聖霊は私たちに感動を与えるだけではなく、従い、恐れ敬い、守る力をお与えになります。ルカ137、へブ412参照

例えば、未婚のクリスチャン男女が同棲しているのを見たとします。クリスチャンの道徳基準からすれば、未婚のクリスチャンは同棲してはならず、これは必ず守るべき律法の義です。では、どのようにこの問題に対処すれば良いでしょうか?「自分」に頼りますか、それとも「主」に頼りますか?「自分」に頼るとは、自分の考えで方法を見つけ、自分の知識、知恵、能力に頼って行ないます。「主」に頼るとは、切に祈って主に委ねることです。「主よ、この事にどう対処すればよいですか?主よ・・・?」と祈り続け、心が完全に平安になるまで祈ります。その平安が与えられた通りに行なえばよいのです。この平安の導きにより、この二人のために熱心に祈るようになるかもしれません。その心の平安は、○○兄弟と会って交わり、共に祈るように促すかもしれません。また、別の形でこの件に対処するよう導かれるかもしれません。とにかく、聖霊が導いてくださいます。【ルカ119—13】には、「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」とあります。祈りさえすれば、聖霊が導いてくださるのです。これがいのちの御霊の原理です。

いのちの御霊の原理は、必ず心に平安があり、外側にも調和があります。なぜなら、聖霊の実は必ず「愛、喜び、平安、寬容・・・・・・」だからです。ヤコブの手紙にある「上からの知惠」とは聖霊の導きを指し、それは「第一に純真であり、次に平和(ヤコ317です。ここでは、聖霊の導きは真理と反しないことを説明しています。皆さん、いのちの御霊の原理(新しいいのちの原則、新しい御霊、恵みの中に生きる等はみな同じ意味です)にあって問題が起こる時には、まず、祈ることです。思いと意志において主を認め、主に委ねましょう。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

多くの人が私にこう尋ねます。「もし、祈る時間がなく、ある事を処理しなければならない場合、どうしたらよいでしょうか?」と。私は、「それは急病ですか?」と答えますが、そんな場合でも祈れるはずです。例えば、あなたのお子さんの具合が良くない、あるいはお子さんに何かが起こった!と連絡されたなら、跪いてじっくり祈ることができなくても、走りながらでも祈れます。「主よ、主よ、主よ、導いてください。」と、走りながら祈ることは可能でしょう。緊急事態が起こる時、心で「主よ、導いてください。主よ、私に正しい態度、適切な言葉をください・・・・・・主よ、主よ。」と祈れます。祈る時間がないと言うのは、主に主権をまだお返ししていないからです。

3)いのちの御霊の原理、三つ目――聖霊に従い、より頼んで進む:従うとは聖霊に従うという意味で、より頼むとは聖霊の大いなる力に頼って行なうということです。

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラ516)」「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラ525)」

  「律法」と「いのちの御霊の原理」が全く異なるのは:誰が主権を握るのか?誰の力に頼るのか?ということです。神の義と律法の義は必ず達成しなければなりません。問題は、どの道をたどるかということで、「新しいいのちの原則」なのか、「人の判断」なのかです。新しい御霊とは「新しいいのちの原則」のことで、古い文字とは「人の判断」のことです。新しい御霊、つまりいのちの御霊の原理により、どんな事でも祈り、祈った後、聖霊によって(心の平安と外側の調和によって)、聖霊の力で行なうのです。「主よ、賛美します、キリストは私のいのちです。あなたのいのちですべてを成就してください。主よ、あなたの力が私の力になりますように。主よ・・・・・・。」ハレルヤ!「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信賴すれば、あなたがたは力を得る。(イザ30:15)」ですから、「神の安息にはいった者ならば、神が御自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。(ヘブ4:10)」「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。(詩46:10)」これが「新しいいのちの原則」と「人の判断」の完全に違う点です。物事を処理しないわけではありません。神は急用には、もちろん急いで処理され、遅くてもよい事柄にはゆっくりと対処されます。一番大切な事はやはり祈ることです。後は主の導きと伴いにおゆだねしましょう。

「律法の下に生きる」人はこのように聞くかもしれません。「ここにクリスチャンの男女が同棲しているのですよ。同棲しているのに、どうして忠告しないのですか?」「新しい御霊、つまりいのちの御霊の原理」に訓練されている人はこう答えます。「このことは必ず対処しなければなりません。しかし、誰が主権を持ちますか?主を主として認め、まず主に聞きましょう。そして、主が指示(導きと伴い)される通りに行ないましょう。どうして主に聞かずに、先に行なおうとするのですか?」「律法の下にいる人」はこのように言うかもしれません。もし、彼らにすぐに言わなければ、義務を果たせていない、と。ある人たちがこれらの事に出くわすと、すぐ相手に平手打ちをしてしまいます。私はそういう事を見たことも、聞いたこともあります。

皆さん、繰り返し言いますが、神の義と律法の義は必ず達成しなければなりません。問題は誰が主ですか?誰の力に頼りますか?どの道をたどりますか?「新しいいのちの原則」の道ですか、それとも「人の判断」で行なうのでしょうか?

4、いのちの御霊の原理と十字架の道との関係(ルカ119-13

「いのちの御霊の原理」と「十字架の道」は、どんな関係にあるのでしょうか?

「十字架の道」は一本の道で、「いのちの御霊の原理」はその道にある交通規則(行ないや人柄についての原則)です。日々自分の十字架を背負って主に従う「十字架の道」を歩むには、何事も祈り、「いのちの御霊の原理」で行ないます:心が平安になるまで祈り(キリストの平安が心で主となり)、それから、心の平安と外側の調和の導きのままに行ないます。もし祈った後、心に平安がないなら、動かないでください(話す事や、行動等を含む)。もし動いてしまうと、失敗です。主に聞いたのなら、主を認め、委ねなければなりません。そうでなければ、なぜ主に聞くのでしょうか?行動の原則は平安によって行なうことです。平安がないなら、まず止まって、祈り続けます。これは、消極的に何もしないことではなく、積極的にお委ねすることであり、「私」がするのではなく、キリストに、私のいのちにおいて全てを成就していただくのです。

5、「いのちの御霊の原理」を行なうポイント:

1)「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。(ヤコ119-20」これはどういう意味でしょうか?

この聖句は、神がすでに私たちを新生させ、いのちの御霊の原理(聖霊の導き、感動、伴い)を私たちの内に授けてくださったことを語っている、と言うこともできます。物事が起こった時には、すぐに「私」が出てきて語ったり、怒ったりするのではなく、まず先にこう祈るべきです。「主よ、このことをどうすれば良いでしょうか?導き伴ってください。聖霊さま、私を導いてください。」そして、すぐに心の中で聖霊の導きと語りかけに耳を傾けるのです。これは聞くには早く、語るにはおそく, 怒るにはおそいようにしなさい、ということです。神は私たちにすべての労苦を手放させ、自分のわざを休ませ、主の中で安息させ、主のいのちが私たちの内で、私たちのために、すべて成就するようにされます。

先ほどの例えをもう一度用いますが、その二人が同棲しているのを知って、もし律法の下に生きるなら、語るのに早くなり、大変な事になった、どうしてこんなことをするのか、と早く解決しようとします。あるいは、「あなたたちは何をしているのですか?」と語るのが早くなります。・・・しかし、「いのちの御霊の原理」は聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい、です。なぜなら、人の怒りは神の義を全うできないからです。今日、自分の怒りを用いるのでありません。怒るなら律法の下に生きることになり、律法によって生じた悪い欲は、死の実を結び、神と一時的に断絶した状態になります。「私」に頼って物事を処理する時、ひどい結果になってしまうことが度々あります。その二人はあなたの前で表面上同棲しなくなったようであっても、背後では続けているかもしれません。あなたの前では何も言わずに、背後で悪口を言っているかもしれないのです。どうしてそうなるのでしょうか?それは、祈りによることなく、キリストのいのちが私たちの内で生きることなく、聖霊に頼って行なわずに、「私」に頼って処理しようとするからなのです。 

ヤコブは私たちに「聞くには早く」と勧めています。私たちがいのちの御霊の原理に歩んでいるなら、同棲しているのを見たとき、どうすべきでしょうか。「主よ、私を自我から救ってください。私を打ち倒し、生きることがないようにしてください。キリストのいのちが私の内で適切な言葉と態度に導いてください。主よ、私は今何をすればよいでしょうか?・・・・・・」と祈るべきです。これが、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい、です。

ある時、兄弟姉妹たちの交わりの中で、私はこのように尋ねたことがあります。もし、今日、学校からあなたの子どもの行儀が悪いと報告されたら、どうしますか?と。ある兄弟は、「まず叱ってから、ゆっくりと聖霊に導いてもらいます。」とかわいい答えをしました。もちろん、冗談だと思いたいですが、神のみことば「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(へブ47参照に聞きましょう。「きょう」とは安息日です。物事が起こる時、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにします。神は私たちにすべての働きをやめさせ、わざを休んで主の安息に入るようにと願っておられます。怒らないことは無責任であり、怒れば義務を果たすとは思わないでください。皆さん、祈りましょう。主に聞きましょう。主を主として崇めることが義務を果たすことなのです

2なぜ兄弟姉妹の間で互いに悪口を言い合ったり、さばいたりしてはいけないのでしょうか?(ヤコ411-12

はっきりと救われ新生したクリスチャンであるなら、その内側に聖霊が内住され、いのちの御霊の原理が宿っています。聖霊がひとりひとりの内に働いていますから、それぞれいのちの成長は違うので、聖霊の導きも異なります。その人は9か月で、あなたは2歳かもしれません。2歳のあなたが9か月の彼を見ると、各方面が違います。彼はまだ床の上ではっていて、立つことができないかもしれません。あなたはちゃんと歩くことができます。歩くことのできるあなたは、うまく歩けないその人を批判してはなりません。なぜなら、彼はまだ9か月なのですから!家庭には老人、大人、青年、子ども、幼児がいるので、それぞれの年齢、状況に応じて話しをします。違う年齢、違う状況の人を認めることができるからです。しかし、教会の中では、兄弟姉妹のいのちの成長段階や、いのちの状態の違いをあまり認めることができません。みな同じような大人であることを期待していますが、これは間違っています。兄弟姉妹を批判するなら、それは内にあるいのちの御霊の原理を批判していることになります。しかし、もし聖霊の感動が与えられたなら、私たちは主にあって互いに励まし、注意し、支え、祈り合うことができるのです。

3)「いのちの成長は一つの過程にしか過ぎない」とはどういう意味でしょうか?(マコ426-29参照)

▲新しいいのちの成長は一つの過程であることを認めなければなりません:いのちの成長は一朝一夕になるものではなく、ゆっくりと成長していきます。「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。(マコ428)」それは、ちょうど私たちが大人になるまで、いくつもの昼と夜を経て、また、いくつもの山と谷を越えるようです。

▲新しいいのちの成長は「自己」を知る過程であり、「私(自己)」が徐々に明らかにされ、自分に対して絶望する過程です:今日、律法の下にいず、恵みの中にいるという真理が分かれば、私の行ないや人柄は完全にそのようになるのでしょうか?それは不可能です!自分に対して絶望せず、まだ自分に能力があって、できると思うなら、まだ「律法の下」にいます。いのちの成長の過程において、神は私たちに弱さ、侮辱、迫害、困難、苦しみ及び失敗などを経験させます。「自己」がいかに堕落し無能であるかが徐々に明らかになった時に、私たちはやっと自分に対して絶望し、恵みの中に生きたいと願い、「主よ、私は何もできません。あなたを賛美します。あなたの全能の力が私の上ですべて成就しますように。」と心から告白するようになります。「自己」を知ることは、一生をかけてすることなのです。

いのちの成長は一つの過程であり、それを無理に焦って早める必要はありません。それぞれのレベルに合わせて行なえばよいのです:日々自分の十字架を背負って主に従うのですから、一朝一夕で大人になることはできません。私たちは古い性質を多く持っているので、もしかしたら、新しいいのちの道を歩んでいない人よりも悪いかもしれません。例えば、私には人を批判してしまう性質がありますが、新しいいのちに歩んでいなくても、もともと人を批判することが嫌いな人もいます。聖霊が私のこの古い性質を示されるたびに、私は絶えず主に助けを求めて、解放されるように祈り続けているのです。古い性質が完全に取り除かれるには、一定の期間が必要なことを理解してください。完全に解放されるまで、それを自制したり、隠したりして無理に頑張ることはできません。歩む道が正しいなら、神は必ず私たちを完全にお救いくださいます。

 いのちの成長は一つの過程であり、その道が正しければ、いのちは必ず成長します:新しいいのちの成長の道と過去に歩んだ道とは、どこが違うのでしょうか?

以前、私は救われ新生して、死からいのちに移った後、十字架を背負って主に従う十字架の道を歩んではいませんでした。大変な事が起こった時だけ祈り、「自己中心に、主に物事の解決を求める」生活でした。普段は、家庭生活、同労者間で不愉快な事が起きると、多くの葛藤がありました。「主により頼み、主を主とする神中心の」いのちの成長の歩みのことがわからず、「自分に頼る」葛藤と束縛の道を歩んでいました。

今日から、私たちはこの正しい道を歩みましょう!十字架の正しい道を歩み、すべてを主に委ね、主を主として認める時にこそ、私たちはキリストとともに死に、古い人から解放されていき、キリストとともによみがえり、新しい人を着ることができるのです。また、これは一つの過程であり、すぐに大人になろうとしてはいけないことを認めなければなりません。いのちの成長を慕い求めれば、新しいいのちが成長する要素を受け取ることができます。日々自分の十字架を背負って主に従い、自分のいのちの成長レベルを認めましょう。人と比べて、罪悪感や不満を持つ必要はありません。志を絶えず主に献げ新たにして、主にこのように祈ってください。「主よ、私はいのちが成長する道を歩みたいです。私のいのちは幼いですが、いのちが健やかに成長できるように、どうぞ助けてください。」と。

4自分に、または他人に対して不満が生じる時、なすべきことは何でしょうか?(エペ316

他人や自分の状態に不満な時、「主よ、どうして私はこうなのでしょうか」「どうしてあの人はああなのでしょう?」と思いますが、いのちの成長過程は一生のことだと認めなければなりません。その成長を焦って早くさせようとしてはなりませんが、自分や他の人のためにこのように祈ることはしてよいのです。「神が私たち(または他の人)の内なる人を強くしてくださりエペ316、心の中の堅い要塞を破り続けてくださいますように(Ⅱコリ10:4参照)。私たちが自分(または他の人)の本性を認め受け入れることができますように。私たちのすべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させてくださいますように(Ⅱコリ10:5参照)。このようにして私たちのいのちが成長していきますように。

    祈りましょう:愛する天のお父様、感謝します。旧約の律法は尊いものですが、人の弱さにより守れません。イエス・キリストの完成された救いを賛美します。いのちの御霊の原理を成し遂げられ、私たちが古い文字でなく、新しい御霊によって主に仕えることができるようにしてくださいました。律法の義は「肉に従わず、聖霊に従う人の上に」成就するのです。主よ、私たちを救ってください。聞くには早く、語るにはおそく、怒るには遅いように助けてください。祈りですべてを委ねることや、心の平安と外側の調和によって生活することを学べますように助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン!

 

 

 

 

 

 


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