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三、キリストとともによみがえる

 

4、いのちの御霊の原理(二)

 

祈りましょう:主よ、あなたの御前に出ることができ、心から感謝します。主よ、あなたと心も行ないも一つとされる人にしてください。私たちの心は落ち着きがありませんが、愛する主よ、日々の十字架をもって私たちの心と思いを勝ち取ってくださり感謝します。願わくは、ご聖霊が私たちの心の堅い要塞を打ち砕き、私たちの心と思いをとりこにしてキリストに服従させてくださいますように。あなたが私たちの上にみわざを成し遂げてくださると信じて感謝します。主イエスキリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

主イエス・キリストが「人類を再創造する」計画を成してくださった御恵みを感謝します。信仰によって、私たちの古い人が主とともに十字架につけられ、私たちは罪の性質から解放されました。また、復活してキリストのものとなり、私たちは新しい人とされ、キリストがそのかしらです。十字架は古い人と新しい人との分岐点です。私たちはもはや、律法の下に生きているのではなく、恵みの中にいます。肉の欲に従って行動せず、聖霊によって行ないます。肉に生きるのと聖霊に生きるのとでは全く異なる生活です。聖霊の中に生きるとは、「いのちの御霊の原理」に生きることです。これから続けて「いのちの御霊の原理」について見ていきましょう。

前回は、「いのちの御霊の原理」の三つの側面についてお話ししました。ここでは、その一つ目と二つ目を補足して説明します。

 

一つ目は神の要求です:神の要求とは何でしょうか?それは今までお話ししてきた日々の十字架です。神はすべて救われて新生した人に、それぞれのいのちを成長させる計画をお持ちです。主は私たちが日々様々な十字架に出合うことを許しておられます。これらの十字架は、それぞれの人にちょうどの重さで、軽くもなく、重くもないのです。なぜなら、それは、神が私たちのいのちの成長の程度に合わせて備えてくださるからです。この神の要求とは、ローマ8章28節の「すべてのことを働かせて益としてくださる」の「すべてのこと」です。神がすべて起こることを許されるのは、私たちの内に神の御子を形造るためです。神の要求である「日々の十字架」を前にして、私たちは祈り、主の御名を呼び求めるのです。

 

二つ目は主の御名を呼び求めることです:直面する事柄に対して、このように祈ります。「主よ、自我から解放されるように助けてください。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・・・・・主よ、何をすればよいか、導いてください。」祈りの後聖霊がくださる平安を、「キリストの平安」といいます。ある人は衝動的で、たとえば未婚の男女が同棲しているのを見ると、すぐに動揺し、怒らないではいられません。この「平安がない」は祈りの結果としての「平安がない」とは違います。なぜなら、この「平安がない」は「私は平安がない」であり、「私は熱心である」、「私は義に憤る」はすべて「私」が源です。祈った後の「キリストの平安」は、キリストが私たちの内で主となられ、私たちを導いて行なわせてくださるものです。「感情的衝動」と「聖霊の感動」は完全に分けて考えなければなりません。ある人はこう言いました。「感情的衝動」は脈が速くなり、祈っていられないが、「聖霊の感動」は静かで落ち着いていると。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。(イザ30:15

聖霊はたった一言、また一曲の賛美を用いて、思いがけない平安と喜びをもって、私たちを慰め、支え、示し、戒め、導き、教えます。これがいのちの御霊の原理の内容です。旧約の律法は石の板の上に刻まれましたが、新約の律法(いのちの御霊の原理)は、心に刻まれます。そのことばはどこから来るのでしょうか?それは日々十字架に出合う時、祈りの中で神が私たちの内に語られることばです。

「御霊を消してはなりません。・・・すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(Ⅰテサ5:19-21)」祈りの後、心に平安のある内容こそがいのちの御霊の原理の内容です。もう少し説明しましょう。皆さん、私たちは肉体に生きているので、時には自分の思いと神のみこころとを混ぜてしまうことがあります。そのため、「心に平安のある内容」を見分けなければならないのですⅠテサ521。祈った後に、心に思うことが聖霊の語りかけだとはかぎりません。見分けることが必要です。まず、祈った後に平安がずっと続くでしょうか。その時平安があっても、その後あったりなかったりと定まらなければ、それは情欲から来ています。(Ⅱコリ117この平安は聖書の基本的真理に反しないものです。この平安のとおりに行なう事には調和がとれています(聖霊の実は平和ですから、心の内に平安があるだけでなく、外側の行ないも周りと調和が取れているはずです)。もしこのような状況であるなら、それは主からのものと言うことができます。

なぜこの「いのちの御霊の原理」は「人を自由にする律法」とも言うのでしょうか?それは、神がいのちの成長レベルに応じて私たちに求められるからです(神が求められるとは、神がこれらの事を起こされたということではなく、私たちの聖い品性を形造ってくださるために、これらの事を許されたということです。)私たちが必ず耐えることができ、すべて達成できるので、人を自由にする律法なのです。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」この立場から、ある神の僕がこのように言いました。「この律法は自由です、神が御座においてこの律法をお立てになられ(日々起こる出来事は神が要求されたものです)、私たちが祈りをもってキリストと更に親しく結びつく時、キリストが私たちのいのちであり、私たちの内側で、律法を守ってくださいます。三位一体の神御自身が律法をお立てになり、又、自ら守られ、聖霊の大いなる力をもって働かれるので、必ず達成させてくださいます。なぜなら『私』がするのではないからです。」

    皆さん、十字架の道を誤解しないでください。もし、背負うのが重すぎるように感じ、いつまでも軽くならないならば、道を間違ったのかもしれません。神が与えてくださったキリストのくびきは負いやすく、その荷は軽いからです。もう一度言いますが、日々の十字架に出合う時には、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって主に委ねましょう。主に委ねるとは、聖書の真理に背かない原則において、内側(私たちの心)の平安のとおりに、外側(他の人の心や周りの状況)と調和を取りながら行なっていくことです。

律法の下に生きていない人は、律法の基準に達する必要があるのでしょうか?繰り返し言いますが、律法の基準は必ず達成しなければなりません。しかし、人は自分の力では達成できないので、イエス・キリストの救いと神がくださったいのちの御霊の原理によって、律法の下ではなく恵みの中で行なうのですいのちの御霊の原理に生きる。「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ロマ8:4)」こうして、私たちは律法の基準に達することができるようになりました。ハレルヤ、何と素晴らしい救いでしょう!

「私」に頼ると肉の中に生きてしまうので、「私」の努力で神の基準に到達しようとするのは間違いですよね?「私」の中に生きると、不平不満や批判がすぐに出てきます。アンドリュー・マーレーはこのように言いました。「自分をよくよく知ることを学びましょう。私は肉に属し、すでに罪に売られているのです。」皆さん、肉の生活を止め、解放されることを求めましょう。しかし、どうすれば止められるのでしょうか?私たちは肉に属しているので、何かあるとすぐに「私」が出てきてしまいます。ペテロが三回イエスを否定したように、自分の本来の姿を理解するために、神は私たちが失敗するのを許されます。私たちは自分がダメだと認めるなら、主に頼れるようになり、自分の肉の働きを手放すようになります。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神は御自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ロマ81—4)」ここで注意していただきたいのは、「私」は律法の下に生きないので、御霊の原理の中で生きることができる、ということではありません。それは、私たちが御霊の原理に生きる時に、律法の下で生きないようになるということです。

例を挙げると、ある間違っている事柄に直面した時、一生懸命に「自分に頼らない、自分を頼ることなどできない」と思うなら、それはやはり「私」が生きてしまっています。むしろ、「主よ、私を救ってください。」と言うべきです。「あの方が盛んになる」のが先で、それからようやく「私は衰える(ヨハ330参照)」ことができるのだ、ということに注意してください。主を呼び求め、主を崇めることによってのみ、「私」は自然に衰えていくのです。「私」が衰えれば、キリストのいのちが私たちの身に現されていきます。キリストのいのちに私たちの主となっていただき、それぞれの霊的なレベルに合わせて歩みましょう。子どもが小さい時に、母親に色々と質問をしますが、母親は「あなたが大きくなったらわかりますよ」と答えますよね。そのように、私たちのいのちもその時になれば、そのことがわかるのです。これが聖霊が私たちの内でなされる働きです。

 

以上はいのちの御霊の原理の一つ目と二つ目の点を補足説明したものです。これから三つ目の「聖霊に従って(あるいは頼って)行なうことの具体的問題」について説明していきましょう。

 

1、「聖霊の導き」とは、すべての事においての導きなのでしょうか?(ロマ828、ピリ46、Ⅰテサ518、Ⅰヨハ227

以前、私自身もよく考えたことでもありますが、よく兄弟姉妹たちからこのような質問を受けます。「これは聖霊の導きでしょうか?あのことは聖霊の導きですか?」皆さん、神はすべてにおいて私たちを導いてくださいます。「神がすべてのことを働かせて私たちに益としてくださるのです。(ロマ8:28)」「彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように・・・・・・(Ⅰヨハ2:27)に「すべてのこと」とあり、「すべての事について、感謝しなさい。(Ⅰテサ5:18)」でも「すべての事」です。ですから、大きな事も小さな事も関わらず、どんな小さなことでさえ、神は私たちを導いてくださいます。安心して聖霊に従って歩みましょう。

 

2 「いのちの御霊の原理に歩む」特徴は「平安」(心に平安、外側は調和)である、とはどのようなことでしょうか?コロ3:15、ガラ5:22-23、ヤコ3:13-18、ロマ8:6、Ⅰヨハ3:21、へブ12:14

聖霊は目に見えませんから、どのようにして聖霊に従って歩んでいるとわかるのでしょうか?それは、心の平安と外側の調和に従って歩んでいるかどうかでわかるのです。コロサイ書315節に「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の気持ちを持つ人になりなさい。」とあります。すでにお話ししましたが、私たちは神からの要求として日々起こるできごとの中で祈らなければなりません。心が平安になるまで祈ってから行なうのです。心がまだ落ち着かない時は、動いてはなりません。心が落ち着かないのに、行動しようとしたり、人に聞こうとしたり、他人に心の不安を慰めてもらおうとすることは、キリストの平安を主としていないことです。キリストの平安とは、祈りきって完全に平安を得て、キリストに完全に主権を取っていただくということです。そのために、私たちは時間をかけて祈り、代価を払って祈らなければなりません。どうしてそんなに急がなければならないのでしょうか?どうしてすぐにしなければなりませんか?実のところ、多くの物事は、すぐに決める必要はありません。もしすぐにしなければならないなら、このように祈りましょう。「主よ、このことをお委ねします、お委ねします。導いてください、導いてください!もしこれが主から出たことなら、すべてが順調に行き、そうでないなら、道を閉ざして止めてください。」と、主に主権を取っていただくのです。

また、自分の心の平安に従って行なうだけでなく、外側にも平和がある中で歩む必要があります。例えば、ある人が聖霊に示されて、ある兄弟と話しをすることになったと言いますが、その結果、ケンカになってしまいました。聖霊がその兄弟と話すように感動を与えられたのかもしれませんが、ケンカになったその話し方は絶対に聖霊の導きではありません。特に、私のような人間は、思ったことを何でも言ってしまうので、言葉が刃物のように鋭く、相手をボロボロに傷つけてしまいます。これが聖霊の導きでしょうか?聖霊の実は愛、喜び、平安、寬容・・・です(ガラ522-23参照)。もし物事の結果が愛、喜び、平安、寛容・・・でなければ、聖霊の導きとは言えません。聖霊にあって歩むなら、必ず平安があるはずです。聖書は「できるなら、すべての人との平和を追い求めなさい(ロマ12:18の中国語訳より)」と言っています。「できるなら」というのは、聖書の真理の基本に逆らわない範囲において、という意味です。

 

3、私たちが求める外側の調和とは、何の原則もなく仲良くすることでしょうか?(Ⅱコリ13:412:9-10、イザ53:7-12、Ⅰペテ2:21-25

聖霊の導きに従って歩むことを求め、外側の調和を求めることは、けっして何の原則もなく仲良くすることではありません。ヤコブ書313-18節には「上からの知惠」と書いてあります。ヤコブ書全体から、この節のみことば「上からの知恵」は聖霊の導きであることがわかります。聖霊の導きは、まず純真であり、次に平和です。ですから、聖霊の導きの結果も、必ず純真であり、平和です。物事が聖書の真理に逆らうものなら、それは聖くありません。自分が御霊の原理の中にいるかどうかはどのようにわかるのでしょうか?まず、心に必ず平安があり、次に外側にも必ず平和があります。実のところ、世界中の人々は平和を望み、皆が平穏に暮らして仲良くしたいと願っています。しかし、私たちが語る平和は世の人が語る仲良くする事とは全く違います。なぜなら、私たちはキリストの十字架を基礎としているからです。私たちの語る平和(「私」が死ぬこととは、決して妥協を意味しているのではありません)は、キリストの十字架を掲げ、主とともに死ぬなら、ともによみがえると信じて与えられるものです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と信じるなら、キリストが主権を取られ、すべてを管理してくださるのです。

例えば、人と話していて、相手が言うべきでない言葉を言ってしまいました。相手の話は聞き難いものですが、しかし、聖霊に従って歩み、「主に感謝します。これでいいのです。すべては私に聖い品性を造ってくださるためですから。」と受け入れていく時、本当に主とともに死ぬことを経験し、キリストの復活の力が現われ、私たち一人一人を支配してくださるのです。私たちの側では、心が主に治められているので、平安と喜びに満たされる一方、聖霊に従って歩むことによって、古い性質がまた少し解放されます。相手(クリスチャンとは限りません)は、主のお取り扱いにより(主が行なうことには時があります。主がどのように相手になさるかは、主の時と方法があります)、いつか必ず自分の過ちに気がついて、このように言うべきでなかったと謝るか、他のご計画があることでしょう。

 

4、平和に影響を与える要因を挙げてください。(ヤコ3:18、コロ4:6、エペ4:2-35:21、テト3:2、Ⅰコリ11:3-414:40、ロマ7:141813:714:115:17、Ⅰペテ5:5、ピリ1:9-11、ガラ5:23

聖霊に従って歩む道の必須条件とは:日々の生活での、正しいデボーション、正しく聖書を読み祈ることです。そして、主に喜ばれたいという志を主の前に献げ、主に導かれることを求めるなら、心の中の平安と外側(人々との関係や周りの状況)の調和に従って歩めばいいのです。

しかし、このような現実の状況があります。心の平安と外側の調和を求め、「主よ、従いたいです。」と泣いてまで祈りました。しかし、なぜだかわかりませんが、祈った後に、不調和な出来事が起こってしまいます。これは一体どういうことでしょうか? 次に、平和に影響を与える要因を見ていきましょう。

 

1)平和:「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(ヤコ318

「平和」を慕い求めるとき、まず注意するべきことは、「平和は平和のうちに蒔かれた結果」だということです。例えば、神が私にある人と話しをするように感動を与えられたとします。しかし、話し方の態度、言葉、場面における「平和」は「調和」に影響を与える要因となります。例えば、私が密かにある姉妹と話します。「ある事で少しお話したいのですが、あの日、あなたが話された事は少し不適切なように思えるのです。どうお感じでしょうか?」これは、一つの方法です。または、皆が集まっている場所で、その姉妹にこう言います。「姉妹、あの日はどうしてあんなことを言ったのですか。あのように言うのは間違っています。主に対する罪です。兄弟姉妹にも大変失礼なことです。」これも別のやり方です。どちらが義の実を結ばせるのでしょうか?もちろん前者です。

皆さん、神に示されて、人に話しをするか、あるいは何かをする時には、必ず祈りましょう。どんな態度で、どんな言葉で、またどんな方法でするかを導いていただきましょう。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」この聖句を暗唱してください。神に何かをするよう、または話すよう示されても、態度、言葉または方法が不調和であれば、不調和の結果になります。不調和が生じた時は、静まって、「主よ、あの姉妹との間で、どうしてこのような不調和が生じたのでしょうか?主よ、示してください。」と祈りましょう。

2「互いに受け入れなさい。(ローマ157)」:人間関係の衝突の多くは個性、やり方の違いによるもので、正誤の問題はありません。例えば、ある人はゆっくりと話し、ある人は早口です。ある人は内向的で、ある人は外交的であるように、皆違います。あるご年配の姉妹が私にこう言いました。「あの人が大嫌いです。」それで、「あら、どうしてですか?」と尋ねると、「彼女は私に会うと、ただ握手するだけで、一言も話しません。」と答えました。私は彼女に「あの姉妹はとても内向的で、話すのが苦手なんですよ。私たちは彼女を受け入れましょう。」と言いました。この老姉妹は外交的で、話をするのが大好きです。人が喋らないと不愉快に感じ、陰口を言います。ここでは、真理の原則は関係なく、ただ個人の性格の問題です。不調和が起こるのは、私たちが人を受け入れないことが原因の時もあるのです。ですから、私たちは互いに受け入れる訓練をしなければなりません。

3)「力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。(ロマ151

自分が霊的であり、強いと思っている兄弟姉妹がいます。「私は聖書をたくさん読んでいて、真理を多く知り、教会での各種の奉仕を熱心に行なっています。」というような力のある兄弟姉妹は、力のない人たちの弱さを担うべきです。しかし、不思議なことに、社会でも、また家庭でも、この「力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。」という事を理解していますが、教会では、力のない者が力のある人を担っています。高圧的な態度で弱い人たちに無理をさせています。その結果、それができない時はどうでしょうか?ある人は内向的で、表面上は何も言いませんが、心では不平不満で一杯です。ある人は外交的で、すぐに言い返しますが、その結果、必ず不調和が生じます。御霊の原理の中で最も大切なのは、聖霊が私たちのいのちの成長レベルに合わせて求められるということです。力ある人は力のない人のために祈り、支え、励ますことができますが、決して強制してはなりません。よく、力のある人が力のない人を担うことにおいて起った問題が、多くの破れ口を作ってしまい、不調和が生じるのです。

 

4)「みな互いに謙遜を身に着けなさい。(Ⅰペテ55

同労者の間で地位を比べてはなりません。例えば、「あなたは何者ですか。私があなたの指図に従わないといけないとは。」というような考えでは、互いに謙遜を身につけようとする態度ではありません。私たちは、主を敬う心、「互いに謙遜を身に着ける」こと、十字架を背負って主に従う意思を求める必要があり、「主よ、今同労者の間で意見が異なります。この事をあなたにお委ねします。主の御手に委ねます。」と祈るべきです。自分の考えを話した後は、互いに謙遜を身に着ける態度で、十字架の道を歩み、自分の権利を手放して、自分の意見を退けます。あなたは神が無から有を造り、死者を死から復活させる神であることを信じますか?自分の意見や考えが神から出たものであるなら、私たちが主張しなくても、神は無(手放す)から有(再び取り上げる)に変え、復活させてくださることを信じますか?今日、私たちが争ってしまうのは不信仰だからです。主とともに死ねば、必ず主とともによみがえることを信じていないからです。自分が死ねば、主が生きると信じないからです。「互いに謙遜を身に着けなさい。」に従えないのは、私たちが十字架の道を歩んでいないからです。私が死ねば黄泉にくだり、体が朽ちてしまい、虐められると思っているからです。家庭でも、教会でも、社会の中でも、「互いに謙遜を身に着ける」ことができないのが、調和を乱す要因です。十字架の道を歩むことだけが「互いに謙遜を身に着ける」ことを可能にするのです

 

5)「だれにでも義務を果たしなさい。(ロマ137

人が責任と義務を果たさないことは、調和を乱します。例えば、聖書の中に、妻は夫に、嫁は姑に、母は子どもに、教会では若い人が年配の方に・・・等と、それぞれがどのように接したらいいのか、はっきりと書かれています。私たちはよく自分の責任と義務とをわかっていないために、調和を乱してしまうのです。

 

6)「自制」(ガラ523):

自制できないことも調和を乱します。私は全く自制できない者で、スケジュールをびっしり詰めることが好きです。もし、何か他の用事ができると時間がありません。すると私はすぐに怒ってしまいます。また、私が怒ることにそれなりに理由をつけます。なぜなら、それらはたいてい突発的な出来事であり、予定していなかったからです。神は少しずつ、私が自制できていないことを教えてくださいました。スケジュールを立てるには、よく祈って計画すべきです。今日は何をするのか、どのようにするのか、よく祈らなければなりません。もし、よく祈らないなら、熱心であるように思っていても、至る所で伝道しても疲れてしまい、食事も喉を通りません。体が不調になるだけでなく、必ず怒ってしまい、人とも不仲になってしまいます。この不調和の原因は自制できないことによるものです。

 

7自尊心、自信、自己中心

「自己中心」は調和を乱す根本的要因です。「自分」が出る時、すぐに不調和になります。どうして、そのような目つきで私を見るのですか、私を何だと思っているのですか?あの人はどうして私を尊重しないのですか?どうして?どうして?・・・・・・。

それでは、皆さん、いのちの御霊の原理はどのように歩むのでしょうか?日々の生活の中で聖霊はすべてにおいて導いてくださいます。私たちはその導きに従い、頼ればよいのです。心の平安と外側の調和に従って歩みます。十字架に直面して、もし「わかりました。すべては私に聖い品性を造ってくださるためです・・・・・・」と従えないならば、「主よ!救ってください、救ってください、私を解放してください、自分を委ねますので、あなたが成就してください。あなたを仰ぎます、仰ぎます・・・・・・」と、祈って主に「より頼む」べきです。もし心に平安がなく、また外側で不調和が起こるなら、これらのものは私たちが直面する十字架ですから、静まって主を求めましょう。「主よ、問題はどこにありますか?私のどこが間違っているのか、お示しください。」と私たちが主に呼び求めようとするなら、聖霊が調和を乱す要因が何なのかを示してくださり、その導きに従って歩み、正せばよいのです。とても簡単なことです。神はこのように私たちを導かれるのです。従って、従って、従い、頼って、頼って、より頼んでというようにです。

皆さん、不調和が生じることにおいて、神の主権を認めましょう。他の人の問題であると思わないでください。不調和に対して、神に導いて示していただき、言い訳をしないのです。これは神が私にお与えになった状況だと受け取り、「自己中心」から解放されるように神に求めましょう。「古い性質」から解放されることは十字架への一歩であり、とても大切です。何か不調和が起こると、いつも人のせいにしてしまうのが、人間の本性です。しかし、十字架の道を歩むようになると、いのちの御霊の原理の下で、すべての事において祈りを通して主と結ばれるのです。神が私に聖い品性を造ってくださるためであり、古い人から解放され、新しい人を着るためなのだと受け入れるようになります。これはとても大切です。他の人についても、私たちが主の十字架を高く挙げ、主とともに死に、ともによみがえりますから、主ご自身がその人を取り扱われます。死が私たちの身に起こるなら、いのちがその人の上に現わされるのです。皆さん、ともに信仰によって、この道を歩んでいきましょう!

5、「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれた(ヤコ318」ということを体験したことはありますか? 私はこのような事を見たことがあります。ある人が不注意で人の足を踏み、すぐに謝りました。その人の足を手でなでながら「ごめんなさい」と言い、すぐに和解しました。しかし、ある人は、不注意で人の足を踏むと、相手は「どこを見ているんですか?」と言い、もう片方は「わざとじゃありません。」とケンカが始まります。平和をつくる人は平和の内に義の実を結びます。多くのことは、もともと大した問題ではなく、不調和(言葉の不調和、態度の不調和、行動の不調和・・・・・・)から問題が引き起こされるのです。

6、不調和に直面した時、どのような態度を取るべきでしょうか?(エペ3:14-17

不調和に直面した時、他人を責めてはなりません。「主よ!感謝します。すべては私に聖い品性を造ってくださるためです。私に成長する必要があるからです。主よ、示して、導いてください。」と祈るべきです。また、「私に起るすべてのことは、私を成長させてくださるためで、自我から解放される一歩となり、また更に一歩神に主権を取っていただき、主を中心にすることを学ぶためです。」と主の主権を受け入れましょう。私たちは、「主がなされることはすべて最善ですから感謝します。すべてあなたの御旨です。」という態度を取るのです。他の人のことは主ご自身が取り扱われるので、心配せずに主に委ねましょう。

 

7どのようにいのちの御霊の原理を訓練するのでしょうか?―――見分ける感覚をどこまで訓練すべきでしょうか? ヘブル書514節の「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」とは、どういう意味でしょうか?

1)心の訓練:繰り返しお話ししますが、日々起こる出来事は、私たちに聖い品性を造るための十字架です。毎日直面する出来事は私たちを訓練します。「これは十字架ですから、主に感謝します。神の絶対的主権により取り扱ってくださいます。これらすべては私に聖い品性を造ってくださるためです。」このように言う度に、感覚が訓練されていきます。物事が起こった時、すぐに十字架だと見分け、主の御前に行き、その主権を認め、すべてが私を造り変えるためだと受け入れられるところまで心を訓練するのです。

2「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された」

良い物と悪い物とを見分ける」とは、どういう意味でしょうか?それは何が良くて、何が悪いのかがわかることです。「良い」という言葉は、原文では「傷がない、神に喜ばれる、救いの真理に合う」という意味です。つまり、良い物と悪い物とを見分ける感覚とは、十字架の教えが何なのかわかり、神に喜んでいただけるように望むことです。皆さん、これはとても大切なことです。不調和が起こる時、私たちは心を訓練せずに、理屈を言い始めてしまいます。どうして十字架の道を歩まないのでしょうか?

兄弟姉妹の家庭に問題がある時には、話し合うのではなく、十字架を掲げてともにこのように祈りましょう。「主よ!主よ!この家を救ってください。この家庭を祝福してください。私をも自我から解放して救ってください。私たちの上で主となり、王となってください。すべて私たちに起こることは十字架です。十字架ですから、主よ、兄弟姉妹の目を開いてください。彼らの内側の力が強められますように。」私たちがよく訓練されて、「これは十字架です。私に聖い品性を造るために神が許された御旨ですから、感謝します。あなたに頼らせてください、主よ。この件をどうすればよいか、教えてください。」と言えますように。これが訓練であり、良い物と悪い物とを見分ける感覚が養われていくのです。

 

8、どのようにいのちの御霊の原理を訓練するのでしょうか―――どのように経験のために自分を鍛錬すればよいのでしょうか?(Ⅰテモ4:7-8、ヤコ1:26、ピリ2:14-16、Ⅰコリ9:27

 

1)「敬虔のために自分を鍛錬しなさい。(Ⅰテモ4:7-8)」

「敬虔のために自分を鍛錬しなさい。」では、何を鍛錬するのでしょうか?それは心の平安と外側の調和について訓練することです。心に平安がないならしません(あるいは言いません)。心に平安があっても、外側が不調和であるならしません(あるいは言いません)。例えば、私のような堕落した人間は、どんなことでも理屈を言いたがり、「もうケンカはしませんが、道理は言わせてもらいます。」という言葉をいつも口にしてしまいます。主人に何を言われようが、私は必ず言い返し、以前はよくこう言っていました。「筋が通っているのに、どうして私を悪く言うの?どうして理由を言わせてくれないの?」このような二人の間では調和が取れません。しかし、私が十字架の道を歩み始め、聖霊に従いより頼んで歩むことを訓練されている恵みに感謝します。今でも、私が不適切なことをすると、主人に指摘され、「また、理屈を言おうとしている」と言われます。それでも、この十字架において少しずつ訓練され、古い性質が解放されていき、理屈を言うことが徐々に減って、終にはほとんど言わなくなりました。

皆さん、敬虔のための鍛錬とは、心に平安がなければせず、外側が不調和なら止めることです。アンドリュー‧マーレーはこのように言いました。「もし不調和があるなら、それはあなたが肉に属していることを示しています。」皆さん、聖霊は不調和をもたらすでしょうか? 人間関係で不調和が起こるなら、すぐにやめるべきです(話すことでも、行ないでも)。うるさく求めることは口論の始まりであり、ケンカにつながります。私たちは敬虔のために自分を鍛錬し、聖霊に従って歩むよう訓練するのです。心に平安があり、外側にも調和があるなら話し、途中で不調和が生じたならすぐにやめます。それは、車を運転するようなもので、青信号になると運転し、赤信号になったら止まるのです。実に、このように簡単なことなのです。聖霊に従いより頼んで歩んでいきましょう。

私の性格も少しずつ解放されてきて、完全になるまではまだ程遠いですが、しかし、神が敬虔のための鍛錬において必ず主のみわざを成し遂げてくださると信じます。「三つ子の魂百まで」と言うことわざがありますから、イエス以外には救いはありません。私たちの本性は徐々に神の大いなる十字架の力で砕かれていくのです(マタ2144参照。ハレルヤ!主よ、賛美します!どうか私たちの痛みを気にせずに、砕いてください!

 

2舌にくつわをかける:

とても重要なことは、ヤコブ書1章26節にある「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」ということです。不調和が生じる一番の要因は、話すことです。ですから、舌にくつわをかけることはとても大切です。車の運転でのブレーキの役割と同じです。ブレーキが壊れれば、すぐに修理しなければなりません。十字架を背負って主に従う道は、聖霊に従いより頼んで歩む訓練であり、ブレーキとは私たちの舌です。

敬虔のために自分を鍛錬するとは、心の平安と外側の調和を訓練するということです。不調和が生じたとき、まず行なうべきことは、ブレーキをかけることです。聖霊に私たちの内側で舌にくつわをかけていただき(自分の力で抑制するのではなく、主の助けを求めます)、話さないことです。このように祈りましょう。「主よ、私の舌にくつわをかけてください。行くべき道に導いてください。」続いて、「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。(ヤコ1:19)」というみことばの通りに、主の導きを求めるのです。

 

祈りましょう:三位一体の神様、いのちの御霊の原理を与えてくださり、感謝します。私たちには何もする必要がなく、このように簡単です。あなたは御座におられてこの律法をお立てになられたので、あなたの御名を呼び求める時、私たちの内側で、あなた御自身が律法を守ってくださいます。いのちの成長に合わせて導いてくださるので、私たちは何と自由なことでしょう。日々の生活の中で十字架に直面した時、私たちは心の平安と外側の調和を訓練し、聖霊を仰いで自分の舌にくつわにかける訓練を重ね、絶えず私たちの心を訓練してくださるよう願い求めるだけでよいのですから、主に感謝します。主よ、どうか、続けて敬虔のために鍛錬していけるよう導いてください。伴ってください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン!

 

 

 

 

 

 

 

 


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