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三、キリストとともによみがえる

 

5.それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、

律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ8章)

 

祈りましょう:主よ、感謝します。人には律法を行なうことができないため、あなたが受肉されてこの地上に来られ、私たちのために救いを完成してくださいました。「いのちの御霊の原理」という、心の平安と外側の調和によって行動する簡単な方法で、成就してくださった主イエスを賛美します。あなたの荷は軽く、くびきは負いやすいです。主よ、私たちは心の訓練を渇き求め、敬虔のために自分を鍛錬し続けていきたいのです。主よ、私の身に御旨が成ることを信じます。感謝して、主イエスの御名によって祈ります。アーメン!

主よ、感謝します。私たちが罪人であって、自分には何もできないことを認め、ただイエス・キリストの救いを仰ぎ見た時、聖霊が私たちを新生させ、罪過と罪の中に死んでいた私たちをよみがえらせてくださいました。神の私たちへの要求としての日々の十字架(すべての自分の意にかなわない人や物事)に出合う時、私たちが祈るならば、神は求める人に聖霊をくださいます(ルカ1113)。聖霊が私たちの中で働き続け、人のすべての考えにまさる平安をくださり、私たちは聖霊に従いより頼んで歩むことができます。そのようにして、神が私たちの内に聖い品性を造ってくださり、徐々に古い人を脱ぎ新しい人を着て、神の御子の姿に似る者とされていきます。また、キリストの復活の力がすべての困難(すべての意にかなわない人や物事)を解決して私たちを救い出してくださいます。自分の力では日々の十字架に対処できませんし、神もそれを望んではおられません。キリストが私たちのいのちとなり、私たちの内で、私たちのために、すべてを成就してくださるのです。今日、一番大きな問題は、私たちが「律法の下に生きて」「私」が対処しようとしてしまうことです。しかし、神の救いは、私が死んで、キリストが私たちの上ですべて成就されるのです。人の目には、イエスは十字架の上で死んで終わった、と見えますが、神は「成就した」と思いがけない宣言をされました。

ハレルヤ!主イエスが備えてくださった救いは「死ななければ、復活できない」ものです。イエス・キリストのいのちが私たちの内に現れるためには、必ず十字架の死を経験しなければなりません。十字架の死を経なければ、私たちは古い人を脱ぎ捨てられず、罪の束縛からも解放されないのです・・・・・・。ですから、救われて新生した後、私たちは日々自分の十字架を背負って主に従わなければなりません。十字架、十字架、尊き十字架を主に感謝します。パウロが、「私は、あなたがたの間で、イエス‧キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らない。」と言ったようにです。

多くの兄弟姉妹がこのように言いました。「このいのちの道を歩みだした時、通ることのできる道を見つけました。堕落した自分をますます知るようになり、自分の汚れがどんどん明らかになって、主イエスの救いを仰ぎ見るようになりました。そして、御子が与えてくださる自由を確かに体験することができ、本当に自由になりました。何という解放と喜びでしょう!一生イエス・キリストとその十字架を語り伝え、日々自分の十字架を背負って主に従い、この十字架の道を歩みます。」

多くの教会の屋根に、また家のドアや壁に、十字架が掛かっているのをよく見ますが、これは何の意味でしょうか?「イエス・キリストが私の罪のために十字架で血を流し、罪を聖めてくださった、という意味です。」と人々はみな答えるでしょう。そうです。これは最も基本的な信仰です。この信仰により私たちは神と和解することができました。ローマ書5章では、「信仰によって義と認められた私たちが得た幸福」について語っています。神と和解し、主のいのちにより救われました(罪人が義人となり、「サタンの権力の下」から「御子の御国」へと移され、「放浪息子」から「子ども」となりました)。そればかりではなく・・・・・・、皆さん、どうかこの「そればかりではなく」に注意してください。つまり、十字架を知る恵みは、イエスの犠牲、信仰によって義とされること、神との和解、身分の変化だけではなく、イエス・キリストによって「神を喜ぶ」生活に入ることです。「神を喜ぶ」生活とは、必ず「いつも神を自分の前に置く(詩168-9)」「神中心」の生活です。皆さん、十字架は尊い血を持って私たちの罪を聖めてくださっただけではありません。十字架は私たちの心と思いとを勝ち取り、キリストに降服させ、「自己中心」から「神中心」に転換させます。ある神学校の教授がこのように話したのを覚えています。「人間の心はルーレットと同じです。キリストを中心とする生活は、ちょうどルーレットの真ん中に軸があるようです。軸が真ん中にあるなら、ルーレットは自由に回転し、少しの雑音も出しません。しかし、もし、軸が真ん中でないなら、うまく回転できず、雑音が出ます。そうです。私たちの生活は、なぜこんなに多くの苦しみがあり、多くの問題があるのでしょうか?それは、「神中心」でないからではないでしょうか。

では、どのようにして「自己中心」から「神中心」へと変わるのでしょうか?それは、ただイエス・キリストの十字架を通してだけです。日々自分の十字架を背負って主に従う時、私たちは主の十字架とつながり、主とともに死に、ともに復活します。私たちは常に神の主権を認めていくようになります。「わかりました。主に感謝します。これらの事が起こったのは、私に聖い品性を造ってくださるためです。主に感謝します。主に栄光がありますように。」このように従い続ける時に、徐々に「自己中心」から「神中心」へと変えられていきます。この十字架の道を歩む時にのみ、私たちは「あの方は盛んになり私は衰える」ことが可能となり、本当に自分を捨てることができるようになっていきます。これは一生の歩みであり、私たちが必ず歩まなければならない道なのです。願わくは、家のドアに付けている十字架、また、首にかけている十字架のネックレス、建物の上にある十字架を見た時に、イエス・キリストの血が私たちの罪を聖めたことを思うだけではなく、十字架は神の大能の力であることを思うことができますように。もしキリストとともに死ぬなら、ともによみがえり、キリストの復活の力が現わされます。十字架は私たちの知恵と力を排除し、神の知恵と大能の力を現わすのです。アーメン、ハレルヤ!

皆さん、十字架の道を歩むことを、ただ、すべてのことを祈るしかなくて、自分の力も使えず、自分の知恵も役立たない、というふうに勘違いしないでください。渋々そうするようならば、それは消極的な考え方です。積極的に考えるなら、神の恵みを大いに感謝すべきです。十字架で主とともに死に、自分の知恵と力が取り除かれると同時に、主とともに復活を経験し、神の知恵と大能の力とが現わされるのです。ハレルヤ!願わくは、主が私たちの志を強くしてくださり、「主よ、自分の十字架を背負ってあなたについて行きます。どうぞ、私を導いてください。」と言うことができますように。

十字架の道を歩んで、求め、仰ぎ、祈る時に、神の霊がわたしたちの内に働き、聖霊はキリストの平安を私たちの中に置いてくださいます(キリストの平安は聖書の真理に反しません)。この平安に従って行なうことこそが、聖霊に従いより頼む歩みです。とても大切なのは祈りです。ある人たちは、祈りを金儲けの手段として見ています。祈れば、お金が与えられると思い、大きい事柄は祈りますが、小さい事はどう祈ってよいのかわかりません。祈りをそのように取り扱ってはなりません。私たちは祈りを通して主と更に親しく結びつくのです。キリストは私たちのいのちであり、このキリストのいのちが私たちの身に現わされるのです。もし、「私」に頼って歩むなら、キリストは私たちの身に現われることができません。私たちはいつでも祈り、主のみことばを読みましょう。

イエスはこう言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハ15:7)」祈りと神のみことばを通してのみ、主と親しく結び合わされるのです。枝がブドウの木に繋がっているのと同じように、ブドウの栄養分が絶えなく枝に届くことにより、枝は実を結びます。ですから、主イエスは、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハ15:5)」と言われたのです。

デボーションについて話す時に、気をつけていただきたいのは、この聖句です。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、いのちを得るために私のもとに来ようとはしません。(ヨハ53940」白い紙に黒字で書かれた聖句は文字であり、そこにいのちはありません。聖書を調べても、主のみもとに来なければ、いのちを得ることができないのです。主のみもとに行きいのちを得るとは、どういうことでしょうか?具体的には、読んだ聖句と主が結び合わされることです(例えば、みことばを用いて祈り、祈りを通して主とつながります)。例えば、この聖句を読んだとします。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」このみことばを祈りの中で用います。「主よ、感謝します。こんなにも私たちを愛してくださり、感謝します。すべて御子を信じる人は永遠のいのちを持ちます。すでにあなたを信じ、私にも永遠のいのちが与えられたことを感謝します。どうぞ、もっと信仰を強め、いのちを成長させてください。」このようにみことばで祈り、主とつながることで、いのちの効果が生み出されるのです。

1、いのち御霊の原理はどのようにキリストにあって私たちを自由にし、罪と死の原理から解放したのでしょうか。(ロマ82-4

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ロマ82-4

1)「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっている」は「人は自分の努力で完全に律法の要求に到達することができない」ことを説明しています。ヤコブ2章10節では、律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者になるとあります。ですから、律法を守ることにより救われる人はいません。私たちがいのちの道を歩む時の誤った考え方は、自分の努力に頼って頑張ることです。神は私たちに自分の努力でうまくできないことをわからせるために、繰り返される失敗や、試み、葛藤等を経験させ、自分に絶望させます。それは、絶望しないと自分に頼ってしまうからです。ペテロは私たちより弱くはなく、私たちよりもっと主を愛していたと思います。しかし、ペテロは「自分の胸を叩きながら、「たとえ皆が主を離れても、私は絶対に離れない。」と言って、人の本性を表してしまいました。人がそのようであっても、私は大丈夫。ペテロがこのように言った時に、神は彼が失敗するのをお許しになったのです。

皆さん、私たちは皆このような経験があると思います。聖霊が私たちに示され、自分の罪深さが明らかにされる時、嫌になって、「あぁ、どうしてこんな人間なのだろう。」と言います。「あぁ、なぜだろう。。。」と嘆くのは、自分自身を知らないからです。自分がそのような人間だと思わず、まだましだと思っているからなのです。しかし、皆さん、聖霊の導きの中で、私たちは心からこのように言えますから、神の恵みに感謝しましょう。「神に示され、私は白く塗った壁であり、白く塗った墓と同じようなもので、外側は美しく見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいだとわかりました(マタ23:27参照)。」自分の汚れた本性を知ることは、成長の歩みの一つです。このように祈り続けましょう。「主よ、私に示し続けてください。もっと自分の汚れた本性を知り、更に自分では全く律法を守れないことを知ることができますように。主よ、私を自我から救ってください。自分の力に頼ることを止めることができるように助けてください。」

2)「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」

私たちは律法を完全に守ることなどできないため、イエスが救いを完成されました。イエスは罪のない人生を過ごされ、律法を完全に守られた一生でした。彼は肉において罪に定められ、十字架に掛かられ、血を流し、罪のためのいけにえとなってくださいました。罪のないイエスが私たちのために罪となり、律法の責務を支払ってくださったのです。

3)「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」

   キリストが律法を終わらせられた(ロマ104」:キリストは死によって、人が律法を犯した罪の代価を支払われました。そのため、罪人が主イエス・キリストを自分の救い主として受け入れるなら、キリストと結び合わされ、律法はもはや何も要求することができないのです。それは、イエス・キリストが私たちの債務を支払われたからであり、また、私たちがキリストとともに死んだからです。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ロマ66)」「今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、 それから解放されました(ロマ76参照)」。信じる人はすでに律法と関係がなくなったのです。律法を行なうことによって義とされる必要はなく、また、そうしてはなりません。主イエスが死によって律法の要求を終わらせ、すでに律法から解放されたのですから。主が死んで復活されたことにより、新しい律法――いのちの御霊の原理(キリストの律法)を完成され、律法に代わって人の心を支配し、律法の要求に到達させてくださるのです。

主イエスは私たちのために救いを完成し、天に昇られました。父なる神は、キリスト・イエスの御名のゆえに、聖霊をお与えになり、救いのみわざをなされます。聖霊は主の御名を呼び求める私たちを生まれ変わらせ、いのちを得させてくださいます。また、すべて主を信じる人の心の中でいのちの御霊の原理となり、注ぎの油の教えによってすべて導き、私たちに伴われます。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ロマ84)」。

キリストの救いは私たちを律法の下から救い出し、恵みの中へと導いてくださいました。神の恵みにより、私たちは信仰によって主とともに死んで、よみがえり、救われて新生しました。主とともに死んだので、すでに死んだ人は律法から解放されて、律法の下にいません。ですから、自分の努力によって神の要求に到達する必要もないのです。主とともによみがえり、恵みの中に生きます。つまり、いのちの御霊の原理の中に生きて、自分の力に頼らず、私たちのいのちであるキリストに頼り、聖霊に従いより頼んで、神の要求に到達するのです。

4)「なぜなら、キリスト·イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」

図解三をごらんください。図解三の上の行には、物事に出合う時(日々直面する十字架)、自分に頼ることを選び、罪に支配され、その結果、死んで神と一時的に断絶されます。これが罪と死の原理です。つまり、「私」に生きると、すぐに罪に支配され、その結果は死であり、これが罪と死の原理ということです。では、どのようにして罪と死の原理から解放されるでしょうか?下の行を見てみましょう。私たちが神に頼ることを選び、主の御名を呼び求め、「主よ、このことをあなたにお委ねします。導いてください。」と祈る時、この下の行を歩むことになります。下の行を歩む時、上の行から解放されます。つまり、主の御名を呼び求めて、いのちの御霊の原理に生きる時、罪と死の原理から解放されるのです。

ある兄弟がこの箇所を読んでいた時、こう言いました。「ああ!やっとわかりました。神は、私たちが下の行を歩み、いのちの御霊の原理に生きることで、自然に上の行から解放してくださるのですね。私たちに直接罪に打ち勝たせるのではなく、罪の原理から解放することによって、罪に勝利させてくださるのですね!」アーメン。

 

2、どのようにして肉に従うことから解放され、古い人を脱ぎすてることができるのでしょうか?(ロマ83911-14、ガラ516

1)「肉の思いで、肉に従う」及び「聖霊による思いで、聖霊に従う」こととはどんな意味でしょうか?

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ロマ85-8

▲「肉の思いで、肉に従う」 :「思い」の原語は、心を集中させるという意味です。肉とは何でしょうか?主イエスの救いは「私たちの古い人はキリストとともに十字架につけられました。」「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」私たちがキリストとのつながりから離れ、「私」(自分の考え、能力に頼ること。「自我」とも言います。)の中に生きている状態を肉と言います。そのため、「肉の思い」とは、心を集中して「私」はどうしようかと考えることです。

以前、私は「肉の思い」とは、この世での食べる、飲む、着る・・・等の貪欲を指していると思っていました。主を受け入れると、私たちはこれらの事から解放されますから感謝します。しかし、多くの場合、神に奉仕をしながら、私たちはやはり肉の思いで、肉に心を注いでしまいます。例えば、教会の奉仕において、ある活動の責任と計画を任されたとします。もし、私がこうすべきだと考え計画し続けるならば、その「計画」自体が肉にあることになります。それは、「私」がどうするかに心が集中しているからです。もし、「私」がどのように神の働きをしようかということに心を集中させるなら、たとえ上手くいったとしても、それはやはり肉の思いです。「肉の思い」の結果は、必ず「肉に従う」ことになります。つまり、肉は自分の思う通りに行なってしまうものなのです。

▲「御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」:

主を信じた後、神のみことばに対して「私」はみことばの通りにどのように行なおうか、どうすればいいかと考えがちですが、これは間違いであり、実は肉的な思いなのです。聖霊に従うとは、主のみことばを心に蓄え、祈りを積み重ね、聖霊の平安によって私たちの内側を支配していただくことです。聖霊の注ぎの油の教えを通して語っていただき、それから聖霊の導きのままに行ないます。「御霊の思い」の結果は必ず、御霊に従います。つまり、聖霊の導きに心を集中するなら、必ず聖霊の導きに従って行なうことができるのです。

ラザロの死と復活の絵を書いた兄弟はこのように証しをしています。彼がこの絵を書くことになった時、こう祈りました。「主よ、自分の思いから解放してください。主よ、どのように描けばいいかを導いてください。あなたご自身がどのように描くかを導いてください。」主の御名を賛美します。この件において、兄弟は聖霊のみわざに心を注いだのです。また、このラザロの絵の下に詩を付けてもいいのではないか、と思った時にこう祈りました。「主よ、これがあなたから出たのでしたら、あなたが示してください。もしそうでないなら、どうぞ閉ざしてください。」このように私たちが祈るなら、聖霊の働きに心を注ぐことになります。例えば、このウェブサイトの働きのために、このように祈ります。「主よ、このウェブサイトの働きをあなたにおゆだねします。主よ、どんな項目を作ればいいのかを導いてください。主よ、どの兄弟姉妹の証を用いるか、あなたご自身が彼らを召し、示してください。」これが「聖霊の思い」の意味です。もしそうでなければ、誰かのメンツのためやコネによって証を選ぶことになり、それは肉の思いで、肉に従うことです。

2)どのように「肉の思い」から解放されるのでしょうか?どのようにして「肉に従う」ことから脱け出せるのでしょうか?

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。(ロマ89-11)」

▲「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。」

私たちは救われて新生し、聖霊が永遠に私たちの中に住んでおられます。私たちはもはや自分に属さず(肉に属さない)、聖霊に管理され、導かれます。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(Ⅰコリ619」これは、主イエスが完成された救いの客観的事実です。

▲「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」この言葉はどんな意味でしょうか?

キリストを自分の救い主として受け入れた時、キリストのいのちが聖霊によって私たちの内に住まわれます。キリストの霊がおられることによって、私たちがキリストに属していることが証明されます。

▲「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」

▲▲「霊が、義のゆえに生きています。」:

イエス・キリストを個人的に救い主として受け入れた時、聖霊が私たちを新生させ、私たちの霊がよみがえりました(救われ生まれ変わりました)。これが「霊が、義のゆえに生きています。」の意味です。

▲▲「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んで・・・」:

私たちは救われて新生したにもかかわらず、まだ肉の中に生き、聖霊に従って歩んでいません(無知のゆえに、聖霊に従って歩むことがわからない。あるいは、聖霊に従って歩む道を知らない。)。このため、罪に支配され、罪を犯さずにいられなくなります(図解三を参照)。これが「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んで・・・」の意味です。つまり、救われて生まれ変わった私は、霊が生きていますが、もし、聖霊に従うことを知らないなら、体はまだ死んでいるので、罪の支配下にいます。

ローマ89-10節の意味は、救われて新生した後、聖霊の内住があれば十分だと思ってはならないということです。私たちの心が主を第一とし、聖霊の私たちの内側における地位を尊重し、主に従い、聖霊の導き(ガラ5161825、ロマ84)を受け入れ続けるなら、私たちは「肉に属さず、聖霊に属する」客観的事実を主観的経験として会得します。ですから、まず、私たちは救われて新生し、キリストの霊が与えられ、聖霊が内住してくださいます。そして、生まれ変わった私たちは、聖霊に従い、日々自分の十字架を背負って主に従います。これこそが「肉に属さず、聖霊に属する」実体験となるのです。

▲どのようして肉から解放されるのでしょうか?

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」

▲▲神の救いは、聖霊に従うことを通して、肉から解放します。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラ516)」

図解三からわかりますが、上の行は肉に従って行なうことで、下の行は聖霊に従って行なうことです。物事に出合う時、私たちは主を高く掲げ、「主よ!」と呼び求めます。「主よ!」と呼び求める時、上の行にある肉の行ないから解放されるのです。

▲▲神は全能の力に満ちておられます。

▲▲神がキリストの身に現わされたその全能の力により、キリストを死からよみがえらせました。

▲▲私たちの信仰により、聖霊が私たちの身に働かれ、私たちの死ぬべき体を生き返らせてくださいます。

御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考える:主を高く掲げ、呼び求める時、私たちは上の行――肉による行ない(肉の思い、肉に従う)から解放されます。また、聖霊が私たちの内側で働いてくださり、聖霊の思いで、聖霊に従い、キリストとともに死に続け、キリストとともによみがえらされます。私たち本来の死ぬべき体(肉の中に生き、罪に支配され、死ぬべきである)を生かし、すべて新しくし、新しい人を着るのです。これが、「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」の意味であり、エペソ1章19-20節の「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ・・・・・・」の意味でもあります。

3、律法の下にいないのに、律法の義はどのようにして私たちの身に成就するのでしょうか?(ロマ84

自分の努力で律法の義に到達しようとするなら、汗を流して一生懸命に労苦しても、律法の要求を満たすことができません。イエス・キリストが完成した「死からいのちに移る」救いにより、主の御名を呼び求めて主とともに死に、ともによみがえります。聖霊に従い、より頼み、聖霊によって導かれ、少しずつ律法の義に到達していくのです。

例えば、私の性格は怒りっぽくて、とても傲慢で、高ぶるものです。神に示されて、このような自分の堕落した性格を忌み嫌っていました。しかし、自分を憎んで頭を壁に打ちつけたとしても、何の意味もありません。例え、私が死ぬほど頭を打っても、やはり傲慢であり、怒りっぽいのですから。また、話さないで済むように自分の舌をかんだとしても、自分の言葉が乱暴であることを責めても意味がないのです。これらの方法は、コロサイ220-23節に書いてあるように、全く役に立ちません。自分の力に頼って、傲慢と怒りを抑制しても、まるで自分を死体を包む巻き布で巻き上げ、その上に更にひもで縛りあげるようです(本ウェブサイトの「ラザロの死とよみがえりの図」を参照)。

しかし、神が聖霊に従いより頼む道を示してくださったので、感謝します。私は主にこのように言いました。「日々自分の十字架を背負って主に従い、聖霊により頼んで行動する道を心から歩みたいです。主よ、私は歩めませんが、この心からの願いをあなたに献げ、あなたを賛美します。あなたが私の身に救いのみわざを成され、この道を歩ませてくださることを信じます。」日々、十字架に直面して、私はこのように祈ります。「主よ、今日出合ったこれらの事すべては、私に対するあなたの要求です。私に聖い品性を形造ってくださるためですから、感謝します。私の言い分をあなたはご存知です。主よ、感謝します。・・・」このように、日々十字架を受け入れていった時、素晴らしい主が、私を古い性質から徐々に解放してくださり、律法の義が少しずつ達成されていきました。今、完全に傲慢から解放されたとか、全く怒らなくなったとは言えませんが、確かに少しずつ解放され続けているのです。ハレルヤ!主に栄光を帰します。皆さん、神はなぜこのような方法や、このような出来事を通して私たちを形造るのか、私たちが理解する必要はありません。しかし、神はいろんな出来事を用いて、私を傲慢、怒り等の多くの古い性質から解放してくださいました。私は、従い、従って、頼り、より頼んで、一歩ずつ律法の義に到達させていただけるのです。

素晴らしい神が用意された方法は、とても簡単で、祈りを通して聖霊に従い、心の平安と外側の調和に従って歩むだけです。このように、私たちが律法の下にいなくても、律法の義に到達させてくださるのです。高ぶってはならないことは律法の義であり、それは達成しなければなりません。怒ってはならないのも律法の義であり、達成しなければなりません。問題は、どのように達成するかです。神は主イエスが成し遂げられた新しい律法――いのちの御霊の原理によって、私たちの内で働き、「自己中心」から解放し、徐々に古い人を脱ぎ捨てさせ、新しい人を着させます。では、律法の義は、どのように成就するのでしょうか?それは、肉に従わないで(自分の努力に頼らない)、ただ聖霊に従う(聖霊により頼む)人の上に成就します。「肉に従わず、ただ聖霊に従う」ことがいのちの成長の歩みです。聖霊に従わず肉に従う状態から、少しだけ聖霊に従ってほとんど肉に従うところになり、またそこから、半分聖霊に、あとの半分肉に従う状態になり、聖霊に多くより頼み肉にほとんど従わない、というプロセスを経ていきます。私たちはこの歩みにおいて、多くの「聖霊に頼らず、肉に頼る」という失敗をしてしまいます。しかし、それは自分の弱さを認識し、更に一歩聖霊に従うようになるという正しい歩みなのです。

5、神はどのように「肉の思い」を見ておられるのでしょうか?(ロマ86-8、ピリ317-19

「肉の思い」は死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。(ロマ86-8)」

以前、私は聖書の基準に達することはできないけれど、努力して、できるだけ行なおうと思っていました。しかし、今では、これは肉の思いであり、自分に頼った努力で神の要求に到達しようと心を使っていたのだとわかりました。神は、肉の思いを神と敵対し、神に喜ばれず、神の律法に従わないものだと見ておられます。神が私たちに求められるのは、律法を守ることではなく(もし守るなら、旧約の律法を全部守らなければなりません)、いのちの御霊の原理に従うことです。どちらの律法に生きるべきでしょうか?私たちは旧約の律法を守れないだけでなく、いのちの御霊の原理にも従いたくありません。「肉の思い」によって肉の行ないをしてしまいます。これは神の律法に服従せず、神に喜ばれず、神に対して反抗しているということではないでしょうか?

6、「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。(ロマ810)」この聖句はどんな意味でしょうか?

神は人を霊、魂、体の三つの部分に創造されました(この学びでは三元論の立場を取っています)。神は「霊」によって人と交わります。エデンの園で、神はアダムに言いました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創216-17」アダムは反逆と背信のゆえに、神との関係が絶たれ、死にました(本程の図解一「罪の代価は死です」を参照)。それは、全人類まで及び、神との関係が絶たれ、死ぬことになりました。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。(ロマ512

1)「霊が、義のゆえに生きています」:イエス・キリストを個人の救い主として心から受け入れた時、キリストのいのちは聖霊によって私たちを生まれ変わらせ、私たちの霊の内に住まわれます。神との関係を絶たれた私たちの霊が生き返ります。これが「霊が、義のゆえに生きています」の意味です。

2)「からだは罪のゆえに死んで」:救われて生まれ変わった私たちは、キリストのいのちが内側にある、新しいいのちの幼子となりました。しかし、聖霊に従って歩むことを知らないため、肉の中に生きてしまい、それゆえに罪に支配され、死の実を結び(図一、図三を参照)、神と一時的に関係が絶たれてしまいます。これが、「からだは罪のゆえに死んで」という意味です。

主を賛美します。私たちは救われ新生し、キリストのいのちが内側にあり、霊が義のゆえに生きています。この聖句は特に以下のように記しています。もし、私たちの内にただキリストが内住しておられるだけで、私たちがまだ肉の中にいるなら、体は罪に支配され、死んでしまうのです。(ロマ813参照)

7、いかにして死ぬべきからだが生かされ、新しい人を着るのでしょうか?(ロマ811—13

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいけません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ロマ811—13

(1)  私たちの体はなぜ死ぬのですか?

図一にあるように、アダムは罪を犯し、彼自身が罪に支配されただけでなく、罪が世界に入り、すべての人が罪に支配され古い人となりました。罪は古い人を通して体を支配し、罪を犯さざるをえません。死の実を結び、神との関係が絶たれたので、私たちの体は必ず死ぬのです。クリスチャンは、イエス・キリストが私たちのために救いを完成されたため、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、・・・死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(ロマ667)」 私たちが肉に生きている(自我に頼っている)時、いつのまにか罪に支配され、「死ぬべきからだ」の状態になります(図三を参照)

2)この「死ぬべきからだ」は神の子どもである私たちにとって二重の意味があります。

▲一つ目の意味は、私たちが肉に生き、「自己中心」に生きる時はいつも、その体のなす事すべてにおいて、神との関係が絶たれています。これが死です。

▲二つ目の意味は、私たちの体は必ず死にます。ですから、この体は「死ぬべきからだ」と呼ばれます。

3)イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊:「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリ2:6

イエス・キリストは十字架の救いを完成されました。ことばが人となったイエス・キリストの一生、その死んで葬られ復活したすべては、聖霊の導きによります。例えば、マリヤは聖霊によって受胎し、イエスが生まれました。聖霊がイエスを導いて荒野で試みを受けさせ、それに勝利しました。聖霊はイエスを導いてパブテスマを受けさせました。弟子を選ぶのを導き、人々を教えるのを導き、奇跡を行なうのを導き、ゲッセマネで大声で泣きながら祈るように導き、十字架の死に至るまで導きました(ルカ32241141021、ヨハ334等)・・・。そして神の大能の力がイエスを死から復活させました。

4)私たちは救われて新生し、聖霊の内住があれば十分だと思ってはなりません。聖霊に従って歩む必要があります。:聖霊は私たちを新生させ、永遠に私たちの内に住まわれ、いつも私たちを養い育ててくださいます。パウロがローマ7章で語ったのは、肉の思いで神に喜ばれようとしても、罪に支配されてしまう状態でした。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」しかし8章では、喜びあふれてこう言いました。「なぜなら、キリスト·イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、わたしを解放したからです。(ロマ82)」「キリスト·イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」ことばが人となったイエス・キリストは、聖霊によっていつも導かれ、十字架で死に、葬られ、死からよみがえられました。同様に、私たちは信仰によってキリストと結び合わされ、聖霊に従って歩みます。聖霊は同じように私たちを導かれ、キリストとともに死んで古い人が解放されていき、キリストとともによみがえり、私たちの死ぬべきからだを生かしてくださいます。願わくは、聖霊が示してくださり、私たちが「神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、知ることができますように。キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせた神の全能の力(エペ119-20参照)」を知ることができますように。

私たちが信じるなら、キリストと結び合わされ、キリストを死から復活させた全能の力が私たちの上にも働きます。図解三からわかるように、私たちが主により頼み、主を崇めるならば、聖霊の内に生き、聖霊に従って歩むのです。それは図解三の下の行を歩むことになります。神の要求に対し、主の御名を呼び求めるなら、聖霊が私たちの内側で働かれます。聖霊に従って歩むなら、上の行から解放されるのではないでしょうか?下の行のように歩むなら、聖霊に従って歩むことであり、その結果、私たちの「死ぬべきからだ」は少しずつよみがえるのです。

例えば、以前主人に批判された時、私のような高慢な人間は、どうして服従できるでしょうか?私はいつも主人に口答えし、勝つまで続けました。しかし、聖霊がゆっくりと私の内で働いてくださり、少しずつ一つ一つの出来事(日々の十字架)の前に導かれ、私が心から主を呼び求めて、「主よ、これらすべては私に聖い品性を造ってくださるためです。そうです、わかりました。」と言えるようにしてくださった神の導きに感謝します。実のところ、初めのうちはとても悔しく思えて、「どうして私に理由を言わせてくれないの?」と思いながら、受動的に強いられて従っていたのでしたが、徐々に積極的に従うようになっていきました。そして、私が図解三の下の行を歩み始めてから、「主よ、あなたがなさることはすべて素晴らしいです。」と言うようになれたことを主に感謝します。神の霊は私の内で働かれ、私を聖霊の導きに従わせてくださり(これが聖霊に従って歩むことです)、図解三の上の行の死の歩みから一歩脱け出すことができました。私の理屈と言い争いを好む性質が少しずつ解放されていったのです。少し解放されると、少しよみがえりを経験し、よみがえったからだは、言い争いをしないだけでなく、ほほえんでいることさえもできます。神がすべての出来事をもって私を造りかえ、私を少しずつ従わせてくださったことを感謝します。今では、主人に話さないようにと言われたら、私はすぐ従い、いつのまにか徐々にほほえんでいられるようになりました。これが古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るということです。ですから、聖霊に従って歩む時、私は古い人を脱ぎ捨て(口答えしない)、死ぬべきからだが生きる時、私は新しい人を着ます(怒らずにほほえむ)。このように、直面した物事が楽に過ぎ去っていくのです。この素晴らしい神の恵みを本当に感謝します。まさに「これは十字架の道、この道を歩きませんか・・・・・・」と歌う賛美歌にあるようです。これが、御霊により頼み従うことによって、私たちの死ぬべきからだをも生かしてくださる、という意味です。

8、「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ロマ813

1)肉に従って生きるなら、必ず死ぬ:

図解三からはっきりわかることは、もし私たちの心が「私」に注目しているなら、その結果は当然、肉に従ってしまいます。私たちは上の行を歩むことになり、どんなに自制して怒らないようにしても、死んでいるのです。なぜなら、それは表面的な表れでしかなく、内側は同じであり、結果として一時的に神との関係が絶たれてしまうからです。

2)「もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」:

    「御霊によって、からだの行ないを殺す」とはどのようなことでしょうか?以前、私はよくこのように祈りました。「主よ、助けてください、助けてください、怒らないようにしてください。助けてください、助けてください、争わないよう力をください。高ぶらないようにしてください。」このように叫ぶなら、聖霊によって体の行ないを殺すことになると思っていましたが、それは大間違いでした。今になってわかったのは、私たちが聖霊に従うことによって、従って、従って、主を仰ぎ続けていく中で、図解三の上の行にある死の歩みから抜け出すことができるということです。私たちの祈りを変えていかなければなりません。「主よ、私はこのように短気な人間です。怒らずにはいられません。主よ、私はキリストをわがいのちと仰ぎます。私の体から怒りを取り除いてください。」と。もし、罪の性質を木の根と例えるなら、私たちの罪の行ないは木の枝のようです。聖霊に従っている時、罪の性質は私たちを支配できず、木の枝(私たちの罪の行ない)は枯れてしまいます。このように、体の悪い行ないを殺すことができます(殺すの原文は消滅の意味です)。これが「御霊によって、からだの行ないを殺す」ということです。つまり、主の御名を求めることにより、キリストと更に親しく結び合わされ、聖霊に従って、体の行ないを殺すのです。図解三の下の行を歩み続けるなら、上の行の罪の行ないは消滅していきます。

    何度も言いますが、以前、私はいつも主の助けを求めていました。体の悪い行ないを殺すことができますように、高ぶらず、怒らず、傲慢にならないようにしてください・・・等、一日中、主に「これをしないように」「あれをしないように」と祈っていました。その結果は全く効果がなく、かえって苦しくて仕方がありませんでした。そうではなく、キリストを私たちのいのちとし、聖霊に従って解放され、ついには体の悪い行ないを滅ぼすべきです。ただ主に従い続け、聖霊により頼み続ければ、少しずつ解放されていくのです。ハレルヤ!神は私たちにこのような新しく、生ける十字架の道を備えてくださいました。主イエスが私たちのために、このいのちの御霊の原理を成してくださり、律法の義が、私たち肉に従わず聖霊に従う人の上に成就するのです。ハレルヤ!素晴らしい神の恵みです!素晴らしく完全なる救いです。

    祈りましょう:主よ、感謝します、感謝します。天地万物はすべて滅びますが、あなたのみことばは決して滅びません。主よ、「信仰により義とされる」救いは律法を廃棄するのではなく、かえって確立します。律法の義は必ず達成すべきだからです。しかし、主よ、律法は肉の弱さのゆえに到達できないため、神はこの新しい律法である、いのちの御霊の原理をくださいました。私たちが従い続け、頼り続けることによって、律法の義が、肉に従わず聖霊に従う人の上に成就するのです。神を賛美します。あなたの荷は軽く、あなたのくびきは負いやすいです。ハレルヤ!あなたは私たちに何かをするようにと求めておられるのではありません。ただ従い続けて、すべての自分のわざを手放し、力を尽くして安息にはいればよいのです。栄光を主に帰します。イエスの御名によって祈ります。アーメン!

 


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