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四、まとめ (前半):
「私たちは神の作品であって、・・・キリスト•イエスにあって造られたのです。」 (エペソ 2:10)
祈りましょう:主イエス様、感謝します。エペソ2章1-10節の学びをここまで導いてくださり、本当に感謝します。私たちはあなたの作品であり、キリスト・イエスにあって造られたのです。主よ、この汚れた私たちが、どのようにして、あなたの栄光の御国を受け継ぐことができるのでしょうか?願わくは、ご聖霊の啓示により、私たちの上に成し遂げてくださったみわざがいかに素晴らしく、その恵みがいかに望みに満ちたもので、神を信じる者に働く力がどのように偉大なものであるかを知ることができますように。主よ、私たちはあなたに感謝し、賛美します!願わくは、真理の御霊が絶えず啓示を与えてくださり、あなたを真に知ることができますように。イエスの御名により祈ります。アーメン!
エペソ2章1-10節の学びは、神がどのように私たちを新しい人に造られ、又その新しい人をいかに健やかに成長させてくださるのかを教えています。この中心的テーマを強調するため、本講座は「豊かないのちの学び26課」の中心的テーマと主な内容を包括していますが、「豊かないのちの学び26課」すべての内容を含んではおりません。
1、私たちは神の作品です:
(1)神は何のために私たちを救ってくださるのでしょうか?(マタ1:21、ヨハ3:16、ロマ5:6-11、エペ4:20-24、コロ3:10)
神が人類を創造したのは、人が地上で神の証しと栄光になるためです。神は人を通して地上を治め、地上での神の権威を表されます。神は人にこう仰せられました。「生めよ、ふえよ、地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。(創1:28)」これはアダムを創造された時の神のみこころです。神はエデンの園でアダムと契約をしてこう言われました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創2:16-17)」しかし、エバは蛇の誘惑を受け、いつも善悪の知識の木の実に引きつけられていました。その実はまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというので、女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べました。アダムは神との約束を破ったのです。そして、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」という結果が世界に及んでしまいました。アダム自身も死ぬと同時に、自分の子孫も売られて罪の下にあるものとなりました(ロマ7:14参照)。このように罪はこの世に入ったのです。
図解一で、「罪から来る報酬は死」であることを十分に理解されたことでしょう。罪のゆえに、人は自分の力で神の御前に行くことは決してできません。しかし、神は人を愛し、人を救おうとされます。神の救いの目的とは、事実上、人を創造した目的と同じです。イエス・キリストの救いを通して、新しく造られた人々を獲得しようとされるのです。これらの新しい人は神の形に似せて造られ、真理に基づく義と聖を持っています。神はこれらの人々の上に、アダムとエバが罪によって失った神の形を回復させてくださいます。これらの人々は古い人を絶えず脱ぎ捨て、新しい人を身につけ、知識において少しずつ新しくされ、主の似姿に変えられていくのです。
(2)神はどのような方法でお救いになるのでしょうか?(Ⅰコリ1:21-25、2:2、ヨハ5:24)
全人類が罪の性質に支配され、神との関係が絶たれてしまいました。そのために、神の救いは人類を新しく造り変え、罪の支配から解放するものでなければなりません。神の救いの方法は「恵みのゆえに、信仰によって」です。「恵みのゆえに」とは、神がご自分の御子を人類の救い主とし、罪の贖いのいけにえとされ、十字架で「死からいのちに移る」救いを完成されたことです。「信仰によって」とは、すべてイエス・キリストを自分の救い主として受け入れた人がキリストと結びつき、新しいいのちを得て、新しく造られた人となることです
(3)私たちが努力して追い求めるべき方向とは?(Ⅰコリ9:26-27、エぺ4:20-24、マタ16:24-26、ピリ3:9-14)
皆さん、どうかキリスト教を宗教として見ないでください。クリスチャンなら、キリスト教の教義と教理を守ればそれでいいと思い違いをしないでください。Ⅰコリント9章26節に、「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしていません。」とありますが、私たちが追い求めるべき方向とは何でしょうか?自分が「良い」とか「正しい」と思うものを追い求めてはいけません。神が人を救う方法と目的に従って追い求めましょう。神はイエス・キリストとその十字架の「死からいのちに移る」方法で私たちをお救いになりました。ですから、私たちが追い求めるべきことは、「信仰に始まり信仰に進み(ロマ1:17参照)」、「従い続けて」、日々自分の十字架を負って主に従い、絶えず古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ることです。
エペソ2章10節はこう語っています。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」私たちが神の作品なら、神が造ってくださるということです。では、神はどのように私たちを造られるのでしょうか。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」「恵みのゆえに」とは、すべてを神が成し遂げられたということです。「信仰によって」という意味は、信仰によって主と結ばれ、主イエスがなされた救いが私たちの上で成就することです。すなわち、イエス・キリストとその十字架を受け入れることにより、私たちは新しく造られた人となるのです。この新しく造られた人は、日々自分の十字架を背負って主に従いながら、少しずつ成長していきます。このことによってのみ、新しく造られた人が、神の望まれる善をなすことができるのです。この学びの内容は、如何にして新しく造られた人になり、その造られた人がどのように成長するのか、ということについてです。私たちが造られていく過程の中で、神の救いは「恵みのゆえに、信仰によって」であることを、しっかりと覚えていきましょう。
2、キリスト・イエスにあって造られた:
ある兄弟がこのように祈りました。「主よ、主のためにたくさんの事をしてきましたが、それらの事は、『自分に頼って』したものです。ですから、キリストのうちにはないので、すべて無益です。主よ、キリストの中にいなければ形造られず、神が望まれることをすることもできません。力を尽くしても、何の益にもならないのです。」アーメン、本当にそうです。
(1)始祖アダムが罪を犯した後、神との関係はどうなったのでしょうか?(ロマ5:12、エペ2:1、コロ1:21)
▲神との関係は絶たれており、死んでいます:
前の図解一を参照してください。アダムとエバが罪を犯した後、自分たちが罪の性質に支配されるだけでなく、その子孫までもが支配され、罪を犯さずにはいられなくなり、その結果は死です(神との断絶)。「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが(コロ1:21)」。図解一の状態は、神の正しい法廷での、裁判官と罪人の関係を表します。「死」とは、人が罪の性質に支配され、罪を犯さずにはいられなくなり、その結果である神との断絶を指しますす。もし、ある人が死ぬまで主を信じないなら、罪人の裁きの結果は死であり、神から遠く離れた所――地獄へ行くのです。
▲人類はいける水の源から断ち切られたため、満たされる喜びや永遠の幸せを得ることができません:
神は永遠のいのちであり、永遠のいのちの源です。また、そのいのちを喜んで人に与えられます。神から離れると、永遠のいのちを得られず、死んでしまいます。神のいのちには満たされた喜びと永遠の幸せがありますから、そのいのちを得るなら、その満たされた喜びと永遠の幸せが与えられます。イエスはかつてサマリヤの婦人にこう言われました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」「この水」とは、世界の人や物事が与える喜びだということもでき、それらには限りがあります。人生の虚しさとは何でしょうか?それは、喜びがあっても満たされず、幸せであっても永遠に続かないことです。「また渴く」のです。今日、神は私たちがこの永遠のいのちを得るために、御前に来るようにと願っておられます。このいのちがあれば、私たちは満たされた喜びと永遠の幸せを得ることができ、そして、「決して渴くことがありません」。
▲全世界は悪い者の支配下にあり(Ⅰヨハ5:19)、サタンの権威の下にいます(Ⅰコロ1:13、Ⅰペテ2:9参照)。
▲人類は自分の救いで神の御前に行く事はできません。なぜなら「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。(ロマ7:14)」から:この「自分」は罪に支配され、いかなる宗教、いかなる人が自分の力で善を行ない、神に喜ばれようとしても、それは不可能です。なぜなら、人は何をしても、みな「自分」がしているので、罪の支配下にあり、すべての行ないは「自己中心」で、神と敵対しているからです。
(2)神はイエス・キリストを通してどのような救いを完成されたのですか?この救いはどのようにして私たちの上に成就し、キリストが私たちのいのちとなったのでしょうか?(ヨハ5:24、エペ2:8-9、ロマ6:6、ガラ2:20)
▲神は人類を再創造しなければなりません:
世の中の人々はみな罪の性質に支配され、真に「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。(ロマ7:15)」人間は誰一人として、自分を救って神の御前に行く事はできません。神は世を愛し、人々を救うために、人類を再創造しなければなりません。罪に支配された古い人が死んで、初めてこの罪から解放されるのです。神はキリストと結ばれた新しい人類を造られます。
▲恵みにより、神は「人類の再創造」という救いを備えてくださいました。(「神の救いの計画図」参照。)
▲▲神はそのひとり子を人類の救い主としてお立てになりました。
何度もお話ししましたが、世の中で誰一人として、完全に律法を守り、人類の救い主になれる人はいません。そのため、神は御自分のひとり子を人として、この地上に送られました。皆さん、私たちが罪人であった時、神との関係はどうだったでしょうか?敵です!私たちが神の敵であり、罪人であった時、神は御自分のひとり子を私たちにくださり、十字架に付け、血を流して犠牲とされたのです。これこそが神の素晴らしい愛です。神の愛は何と深くて広く、はかり知れない愛でしょうか。
▲▲神のひとり子は、完全なる神であり、ことばが人となった完全なる人――人の子です。
主イエスは、天から人として地上に来られて完全なる人となり、人とつなぎ合わされて人の身分――人の子とならなければなりません。それゆえ、主は人類の代表となることができ、十字架にかかり、救いを完成することができました。人は信仰によって主とつなぎ合わされるのです。
▲▲救いにおける四組の名詞:
エペソ4章23-24節に「新しい人」と「古い人」、Ⅰコリント15章22、45、47節では「アダムにあって」と「キリストによって」、「第一の人」と「第二の人」、そして「最初の人アダム」と「最後のアダム」、これら数組の名詞があります。
▲▲神の救い-死からいのちに移る:
神のひとり子は、受肉してこの世に来られ人の子となった:主イエスは完全なる神であり、また完全なる人でもあり、神と人との完全なる性質を持たれました。主イエスが受肉されこの世に来られたその一生は、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われ(ヘブ4:13b)」、苦しみの一生でした。すべての律法を全うし、罪を犯したことのない完全なる一生でした。主イエスの一生は、神に対して絶対的服従の一生でした。
主イエスがなされた「死からいのちに移る」救い:主イエスは人類のすべての罪を負って、ほふり場に引かれていく小羊のように、最後のアダムとして十字架にかかられました。尊い血を流して人々の罪を聖め、神と和解できるようにしてくださいました。十字架の死によって古い人の代表として死なれたのです。アダムの中から出て、罪の性質の支配から解放されました。なぜなら、「死んだ人は罪から解放された」からです(罪の性質の支配から解放されるのは古い人が死んだためで、罪の性質はまだ死んでいないことに注意してください。)。また、主イエスは死なれただけでなく、復活されました。ハレルヤ!主イエスは死んで復活したため、キリストの内にある新しい種族(新しい人)が生まれ、新しい人のかしらとなられました。主イエスは死からいのちに移る救いを完成されたのです。主イエスが誕生される前に、天使が夢の中でヨセフにこう話しました。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(マタ1:21)」「罪」には「罪の行ない」と「罪の性質」の両方の意味があります。イエスが受肉して地上に来られ救いを完成したのは、ご自分の民を罪の行いから救うとともに、ご自分の民を罪の性質から救い出すためです。十字架の上で主イエスの血は私たちの罪の行いを聖め、主イエスの死は私たちを罪の性質の支配から救い出してくださいました。神がイエス・キリストにより完成した救いは、完全に恵みによるもので、人は何もする必要がないのです。
「神の救いの計画図」に、主イエス・キリストの完成された救いが明らかに示されています:主イエスは十字架の「死」によってのみ、古い人を代表することができ、死から復活して、死からいのちに移られました。そして、アダムから出て、キリストの内に入られたのです。すなわち、「罪過と罪との中に死んでいた」、「罪の性質に支配された古い人」、「律法の下に生きる」、「肉によって歩む」、「サタンの暗闇の勢力の中」等のすべて古い人の状態から出られて、死からよみがえられ、いのちの主となられました(後に主を信じたすべての人が信仰によって主と結び合わされ、新しい人とされます)。そして、「罪の支配から解放され」、「恵みの中に生き」、「聖霊によって歩み」、「キリストの光の御国に入る」新しい人類の代表となられたのです。(ここで特に注意していただきたいのは、主イエスはアダムにあって生まれ、律法の下に生まれ、罪の体の形をおとりになられましたが、罪は犯されなかった、ということです。ロマ8:3参照)
▲三位一体の神がともに救いのみわざを完成された:
神が人類の救い主を授け、イエス・キリストが人となって地上に来られ、十字架につき、死んでよみがえられました。そして、聖霊が主の一生を導かれましたから、救いのみわざは三位一体の神がともに完成されたものです。
▲信仰によって(図解二参照):
神の恵みのゆえに、主イエスが救いを完成されました。主イエスが成された救いは、どのようにして私たちの上に成就したのでしょうか?私たちが唯一することができ、また、なすべきことは、ただ信じることです。主を私たちの救い主と認め、御名を呼び求めて、用意された救いを受け取ることです。そうすれば、主イエスが完成された救いは、完全に私たちの上に成就します。主イエスはこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハ5:24)」すなわち、主の御名を呼び求めることにより、主とともに死に、ともに生きるのです。ともに死ぬとは、古い人が主とともに十字架につけられ、罪の支配から解放されたことです。ともに生きるとは、キリストと結び合わされて、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」ということです。キリストは私たちのいのちであり、栄光の希望となりました。
心からイエス・キリストを自分の救い主として受け入れた時に、私たちは古い人、罪に支配され、罪過と罪との中に死んでいた状態から出てよみがえり、キリストの復活に入り、キリストと結び合わされた義人とされ、新しい人になりました。私たちは律法の下に生き、自分の理性や力で物事を行なうことをやめ、恵みの中に入り、聖霊に寄り頼んで歩みます。サタンの支配下から出て、神の御子の光ある国へと入るのです。神を賛美します。私たちは神の作品です。「恵みのゆえに、信仰によって」です。神がキリスト・イエスによって私たちに新しいいのちを与え、新しく造られた人にしました。
新しく造られた人の成長も、同様に「恵みのゆえに、信仰によって」です。新しいいのちは「恵みのゆえに、信仰によって」与えられ、信仰に始まり信仰に進んで成長していくと言うことができます。あるご年配の牧師先生がこのように言いました。「新しいいのちの成長は、私たちの自由意志が降服する過程で、信仰から信仰へとすすみ、イエス・キリストを崇め、私たちの主と王とになっていただく過程です。アダムが背信の故に罪の性質に支配されたため、その子孫もみな罪に支配されてしまいました。私たちは肉に属しており、罪に売られました。しかし、主イエス・キリストがその死により私たちを罪の支配から解放し、主と結び合わせてくださったのです。ですから、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。
このことばが私の全人生を変えたのだということができます。長い間、私は自分に頼っていました。「自分」は良いことをしたい、「自分」は神に喜ばれたいと考えながらも上手くできず、本当に苦しい毎日でした。自分が願うようには行なうことができないのです。そのため、私はいつも嘆きと叫びの中にいました。しかし、感謝なことに、「求める者は受ける」のです。20数年前、神はアンドリュー・マーレーの言葉を用いました。「自分の力で良い事をしたいと思う時、あなたはまだ死んでいません。」この簡単な言葉で、私の耳を開かれ、私を悟らせました。イエス・キリストはすでに「死からいのちに移る」救いを完成されました。私たちは主とつながり、キリストは私たちのいのちとなり、主となります。そうです。「もはや私が生きているのではなく」、私は自分に頼って生きてはならないのです。
(3)救いの計画図から、アダムにあることとキリストにあることとの分岐点が、十字架であることが明確にわかります:
すでにお話ししましたが、肉体はアダムとつながり、霊はキリストとつながります。すなわち、私たちが肉に生きる(自分に頼る、「自我」とも言う)と、アダムにあるすべての状況が表れます。聖霊により頼んで歩むなら、キリストにある状態となります。私たちはいつも、「自分に死にたいのに、なぜ死ねないのか?」と嘆いていますが(もちろん、これは肉体の死を指すのではなく、肉の死です)、では、どのように死ぬのですか?肉自身が死ぬことができるでしょうか?それはできないのですが、実はとても簡単な方法があります。
それは、私たちが主の御名を呼び求めることにより、主とつながれば、主とともに死ぬことができるのです。自分には何もできないと認めた時、つまり主を仰ぎ、主を求める時、主とともに死ぬことを経験します。どうか以下のことを覚えてください。主を呼び求めることにより、主とつながり、主とともに死ぬことができるのです。多くの人々がなぜ死ねないのかと言いますが、皆さん、神は私たちに死ぬようにとは言われていません。主の御名を呼び求め、主と結び合わされ、ともに死ぬようにと言われているのです。これはとても簡単なことです。問題を難しくしているのは、私たちが主の御名を求める道を歩まないで、自分の力で「自分」に死のうとするからです。みなさん、祈りましょう。そして「自分に頼っては死ねない」ことを、聖霊に示していただきましょう。信仰によって、キリストとともに十字架につき、「主よ、私はあなたに自分を委ねます」と祈りましょう。そうすれば、十字架を通して、キリストのいのちは私たちの内に現されます。
ここでよく理解していただきたいことは、イエスを信じた時、主の御名を呼び求め、救われて生まれ変わったのです(その時、自分自身はわからなかったかもしれませんが、主とともに十字架にかかり、ともに死んでよみがえる過程が、実際に内側で起こっていたのです)。キリストと結び合わされ、新しいいのちが与えられ、キリストがいのちとなり、新しいいのちの幼子となりました。その後も、いつも主の御名を呼び求め、絶えず主とともに十字架につけられ、主と更に親しくつながっていくなら、新しいいのちは成長していくのです。すべては十字架によります。ハレルヤ!「十字架は永遠に私の栄光です」。
▲「サタンの支配」と「御子の国」は何が分岐点になるのでしょうか?
主イエスが十字架で贖いをされ、死んで、埋葬され、復活し、神の救いを完成されました。主イエスは十字架の上で悪魔の頭を打ち破りました。「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武裝を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロ2:15)」この聖句の意味は、主イエスが十字架により、悪魔とその使いの邪悪な武装を解除し、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えさせ、公に侮辱したということです。イエス・キリストは強制的に悪魔とその使いたちを自分の勝利の行列の後ろにつけさせ、勝利の行列の捕虜とし、すべての被造物にイエスの勝利を知らせました。それだけでなく、悪魔が死をつかさどるので、主イエスは十字架の死によって、死の領域に入り、「その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放して(ヘブ2:14-15)」くださいました。
「滅ぼす」という意味は、そのもの自体を存在させなくするのでなく、その力を消滅させるか、あるいは、その力を弱くして完全になくなるまで、無効にし、無力にするという意味です。復活によって、主はよみがえり、死とハデスの鍵を持たれ、死に勝利した証しをなされました。主イエスは「・・・・・・わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。(黙1:18)」と言われました。
主イエスは死からよみがえられただけでなく、第三の天にまで昇り(サタンは空中の支配者なので、主イエスがすべての天を通り抜けられたことは、悪魔の権威に勝利したことを表しています)、いと高き父なる神の右に座し、全宇宙における最高の権威の王座に座られました。「天においても、地においても、いっさいの権威が主イエス・キリストに与えられた。(マタ28:18参照)」「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。(エペ1:21-22参照)」パウロはこのように宣告(ピリ2:10)しています。「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」主イエスが十字架の「死」によってサタンの権威を滅ぼし、死と復活により、御子の国に入る道を備えられたことがよくわかります。
では、「サタンの支配」と「御子の国」との分岐点はどこでしょうか?
十字架です。ただ十字架によって、イエス・キリストの死により、私たちは主とともに死んで、サタンの支配から解放されました(全世界の人は、サタンの支配下にいます)。主とともによみがえり、御子の国へ入ることができました。救われて新生した時と同じように、私たちのいのちもそのように成長します。神に従うことにより、堅い信仰と主とともに死ぬことで悪魔に対抗します。こうして、悪魔は私たちから逃げ去るのです。
ここでもう一つ付け加えてお話ししましょう。救われ新生した私たちは、すでにサタンの支配から御子の国に移されました。神はⅡコリント6章14節から7章1節でこのようにお命じになっておられます。サタン、偶像、暗闇、不義との関わりの中から出て行き、汚れたものに触れないようにし、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしなさい、と。このことはとても大切です。それは、サタンの権威の下から出て、御子の国へ移り、サタンの国にあるすべてのもの、つまり、占い、風水、手相など、これらの物とは完全に聖め分かたれるべきです。「あなたには、あなたの神、主は、そうすることを許されない。(申18:14)」のですから、私たちはそれらの関わりの中から出なければなりません。なぜなら、多くの病気、多くのうつ病、精神的疾患等のうち原因不明の病気は、これらのことと関係がある場合があるからです。
(4)主を信じた後の私たちの内側の状態とは?新しいいのちは聖霊で始まり、聖霊によって完成されるとはどういう意味でしょうか?肉によって完成されるとはどういう意味でしょうか?(マタ7:7-27、ガラ3:2-3、5:16、25)
▲主を信じた後の私たちの内側の状態(図解三参照):
主を信じた後、すぐに古い人が死に、新しい人になるのでしょうか?いいえ、そんなことはありません。罪の性質がまだ死なずに、私たちの内にあることを認めなければなりません。私たちの内側は二種類の状態になります。
図解三からわかることは、私たちは主の御名を呼び求めることにより、救われて生まれ変わり、キリストとつぎ合わされた新しいいのちを得ることです。私たちの内側には二種類のいのち(新旧二種類の異なるいのち)、二つの道(信仰によって求めるか、信仰によらずに理性に頼るかの二つの道)、二種類の力の源(聖霊に従って歩むか、肉によって歩むかの二種類の力の源)があります。新しいいのちが健やかに成長するには、私たちの内側の状態を知る必要があります。
物事に直面する時、私たちの内に選択できる二種類の道があります。もし、自分自身に頼って生きるなら、自己本意で歩み、罪の性質に支配され、古いいのちの状態すべてが表れます。主に頼る時はいつでも、主の御名を呼び求め、主と更に親しく結び合わされ、新しいいのちが成長し、喜びが増し加えられていきます。
例えば、今日子供に失礼な言葉を言われたとします。私の内側には二つの状態が表れます。一つは「主に頼る」状態で、「主よ、私自身から救ってください、どう解決したらいいのか教えてください、導いてください。」と求めます。これは「主の御名を求める」信仰の道で、キリストのいのちが私を支配する歩みです。二つ目は、自分に頼って行なうことです。「こんなことしちゃダメでしょ。親に対してどうしてこんなに失礼なの?」と子どもをしかります。これこそ、「理性による考え」で、肉による歩みです。「自分」が表れると、すぐに罪に支配されてしまうのです。
このように二種類の状態があるので、自由意志による選択は私たちにとってとても大切です。主に頼ることを選ぶなら、新しいいのちが成長し、「自分」に頼ることを選ぶなら、キリストとしばらく関係が絶たれる状態になってしまうからです。自由意志による選択は、新しいいのちが成長し続ける要因であり、心の一新によって自分を変えた結果であるということについて、これからお話しします。
▲聖霊で始まる(ガラ3:3参照):
恵みのゆえに、主イエスは十字架の上で救いを完成されました。信仰によって、私たちが心からイエス・キリストを自分の救い主として受け入れる時、神の御霊が内に住んでくださり、私たちを新生させ、キリストとつながるいのちが与えられます。これが聖霊で始まるという意味です。すなわち、私たちは自分の行ないによって救いを得ることはできず、主の御名を求めることによって、聖霊が私たちを生まれ変わらせて、救いを得させ、新しいいのちが与えられます。図解二を見てください。私たちはどのようにして救われて新生したのでしょうか?それは、主の御名を求めた時、聖霊が働かれ、私たちはキリストとつながり、古い人がキリストとともに十字架につけられ、罪の支配から解放され、キリストと結び合わされて新しいいのちを得て、聖霊で始まりました。
▲聖霊で始まり、聖霊によって完成される:
ここでの「完成される」とはどういう意味でしょうか?それは、すべての救いの過程が完成されることを意味しています。新しい人が次第に成長していき、キリストの身丈まで大きくなるのです。聖霊はどのように始まるのでしょうか?私たちが主の御名を求めるのです!聖霊が私たちを生まれ変わらせて始まったのです。ではすべての救いの過程は、新しいいのちの成長、キリストの身丈にまで成長していくことも、主の御名を求めて聖霊によって完成されるのです。つまり、聖霊で始まるとは、主の御名を求めることによってであり、聖霊が働かれて新しいいのちを得ます。聖霊によって完成されるのも、主の御名を求めることにより、聖霊が絶えず働かれて、新しいいのちが成長し、大人になっていくのです。
▲聖霊で始まり、肉によって完成される:
図解三の二つの行を見てください。上の行は「自分」に頼り、肉(原文では肉体、血肉と同じ言葉)によって行なう時、私たちが望まなくても、又わかっていなくても、罪の性質に支配されています。罪に支配されれば、自由がなくなり、罪を犯さずにいられなくなり、死んでしまいます(父なる神との交わりが一時的に絶たれてしまいます)。下の行は、神に頼ることを選ぶ時、主の御名を呼び求め、聖霊が私たちの内に働かれ、私たちは聖霊によって歩み、いのちが成長していきます。図解三の上の行は肉によって完成されることで、下の行は聖霊によって完成されることです。
長年に渡って私はこのような状態でした。主の御名を呼び求めて、聖霊によって生まれ変わり、新しいいのちを得たのですが、多くの場合、やはり自分に頼り、主の御名を求める道を歩みませんでした。主は救いの喜びの歌をもって私を囲み、そして、私を顧みてくださり、奇跡がたくさん起こりましたが、頑固な自己中心という私の堅いやぐらは崩れませんでした。過去を振り返ると、私のいのちは健やかに成長してはいませんでした。多くの行いは、神から見て死んだものだったのです(この死は父なる神との交わりの一時的断絶を指す)。これが聖霊で始まったのに、肉によって完成されたという意味です。
まとめ (後半)に続く