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四、まとめ (後半):

 

「私たちは神の作品であって、・・・キリスト•イエスにあって造られたのです。」 (エペソ 2:10)

 

(5)「罪はあなたがたを支配することがないからです、なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです(ロマ6:14)」とはどういう意味でしょうか?

▲「律法」とは何でしょうか?「律法の下にいる」とはどういうことでしょうか? ここでお話しする「律法」とは、神の人に対する正しい要求を指します。この世の国家の法律とは無関係です。「律法の下にいる」とは何でしょうか?一般の人は自分の努力によって良い結果をもたらしたい(できるだけ頑張る)と思います。クリスチャンにとって、「律法の下にいる」とは自分の努力に頼って神の要求に到達しようとすることです。これらの「律法」と「律法の下にいる」こととを完全に分けて考えなければなりません。「律法」は必ず達成すべきです。そして、「律法の下にいる」とは、自分の努力によって、律法の要求を満たそうとすることです。

▲「恵みの下にある」とはどういうことでしょうか?

「律法の下にいる」ことと「恵みの下にある」こととの違いは、どの力の源によって律法の要求に達しようとしているかということです。「恵みの下にある」とは、自分の努力によらず、聖霊の大いなる力に頼って律法の要求を満たすことです。

 

    罪は私たちを支配しません。「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」

▲▲罪は私たちを支配しない:

イエス・キリストの救いに感謝します。イエス・キリストを信じることにより、古い人が主とともに十字架に付けられ、罪の支配から解放され、アダムからキリストにすでに移されました。罪はもはや私たちを支配できず、キリストが私たちのいのちの主となられたのです。しかし、私たちが信仰の道を歩まない時はいつも、「自分」に頼って生きる状態になり、知らず知らずのうちに罪に支配されてしまいます(私たちの主であるべき方は、イエス・キリストです)。

▲▲「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」:

主を信じる前、私たちは律法の下に生き、自分の努力で頑張っていましたが、罪の性質に支配されていたので、良くできませんでした。しかし、感謝なことに、イエス・キリストを信じることにより、アダムからキリストに移され、罪は私たちを支配することができなくなりました。なぜなら、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」私たちはもはや律法の下に生きることなく、恵みの下にいるのですから、自分の努力に頼らず、聖霊の大いなる力によって歩みましょう。

 

私たちが律法の下にはなく、恵みの下にあるので、罪は私たちを支配することはできないということがわかり、主に感謝します。 同様に、このことは、私たちが律法の下に生きる時、すなわち「自分」で努力して神の要求を満たそうとする時にはいつも、再び罪に支配されてしまい、古い人の状態が表れてしまうということを意味しています。

長年に渡り、私は主のために熱心に走りまわり、伝道し、集会を持ち、訪問する等と忙しさを極めていました。しかし、何か気にいらない事が起こると、すぐに怒ってしまいます。そして、こんなに忙しいのに、どうしてあなたたちは、ちっとも理解してくれないの?と嘆きます。なぜ怒ってしまうのでしょうか?それは、イエスにいのちの主となっていただいていないからです。私は「自分」に頼って律法の下に生き、罪に支配されてしまっていました。

 

6)神はどのような新しいいのちの成長を促す要素を備え、私たちの心を一新させ続けるのでしょうか?(ピリ4:6、詩146:1、ロマ1:1712:1、Ⅰペテ1:14-162:1-25、マタ28:19-20、エペ28:19-204:11-1623、Ⅰコリ12:12-27

新しいいのちの成長のために、神はさまざまな要素を備えておられます。時間の関係で、本講座の課程では、聖書を読み、祈るという二つの方面のみを取り上げましたが、これはとても大切な基本です。なぜなら、イエスはこう言われたからです。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい、そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハ157)」祈りをもっていつも主にとどまるなら、主のみことばも私たちの内にとどまります。聖書を読み、祈ることは、私たちが主につながる重要な鍵であり、とても大切なことです。賛美は祈りの一部分で、私たちが喜びあふれる心を持って主を主と認め、主を全ての良いものの源と認める時、すぐに主とつながることができるのです。

 

皆さん、ここで特別にデボーションの大切さを強調したいと思います。私たちはデボーションを重んじる必要があります。

新しいいのちが成長する要因は、聖書を読んで祈ることだけでなく信仰も必要です。自分を神に献げ、従い、神の御旨を行ない、聖い生活を追い求め、悪魔に打ち勝ち、この世に勝利する等の要素です。新しいいのちが成長するために、神はこれらの多くのことを備えてくださいますが、私たちの意志もとても大切なのです。もし、苦しみをものともしない意志や、神を信頼し従う心、さらに新しいいのちの成長要素が増し加えられるなら、私たちの心はいつも新しく変えられていき、いのちが次第に成長していきます。

 

7)日々自分の十字架を負って主に従うとは、どういう意味ですか?どのように聖霊に従い、聖霊によって歩むのでしょうか?(ルカ14:25-35、コロ3:15、ヘブ12:14

▲日々自分の十字架を負って主に従うとは、どういう意味ですか?

▲▲神は、ご自分の子どもたちのいのちを成長させるご計画を持っておられます。

神は私たちを新生させ、新しいいのちをお与えになっただけでなく、必ず私たちを養い育てられ、そのいのちを健康的に成長させてくださいます。神はご自分の子供たちのために、いのちを成長させるご計画をお持ちで、それは聖書を読んで祈る等、新しいいのちが成長する要素を受け取ることにより、私たちの心と思いが絶えず新しく変えられていくものです。神は日々の十字架(すべて私たちの望まない、願わない人や物事など)を通して、私たちの聖い品性を形造ってくださいます。日々自分の十字架を負って主に従い、絶えず古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着て、新しいいのちが成長していくのです。

▲▲何が私たちの日々の十字架でしょうか?

日々出会う自分の望まない、願わない人や物事が私たちの十字架です。皆さん、神の子どもたちにとって、偶然に起こることなど一つもありません。すべては、私たちに聖い品性を造るためであり、神の特別な御旨があります。日々の十字架を通して、神は大きな出来事や、小さな事によって、私たちを形造られるのです。

▲▲何が日々十字架を負って主に従うということでしょうか?

 

「日々」、「自分」の十字架:十字架を特に探す必要はありません。日々、私たちを悩ませる多くの出来事が起こっているからです。私たちはよく大きい事に注意を払いますが、しかし、小さい事をおろそかにしてしまいます。例えば、夫との口喧嘩を「人だから、仕方がない」と見なし、子供の不従順等さまざまな出来事を「よくあること」だと見るならば、神がこれらの十字架によって私たちを形造られる機会を失って(無駄にして)しまいます。

ですから、皆さん、今日出合った不愉快で、望まず、願わない出来事にどのように対処したかについて、メモすることをお勧めします。数日経つと、日々の十字架を更に深く理解し、自分の十字架にもっと敏感になり、注意することができるようになります。日々直面する十字架は、神が私たちのいのちの程度に応じて量られ、許されたことなので、けっして重すぎることはありません。ですから、安心してください。私たちが受ける試練は、耐えられないものではないのです。もし耐えられないならば、神は必ず脱出の道を備えてくださいます。

「背負う」とは「掲げる」ことです。

「日々の十字架を負い、主に従う」とは、直面している十字架を主の御前に出し、主を認め、主を高く掲げ、主を呼び求め、そして、完全に主に委ねて、主に主権を明け渡すことです。「主よ、あなたを主と認めます。これらの事が私に起こったのは、どうしてなのかわかりませんが、しかし、あなたは私の主ですから、必ず素晴らしい御旨があると信じます。感謝して、御名を賛美します!」これが主に従うということです。言い換えるならば、すべてのことにおいて、感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神に知っていただくのです。

 

▲聖霊に従い、より頼んで歩む

▲▲聖霊で始まり、聖霊によって完成する(ガラ3:3参照):

私たちが初めて主イエスに心から祈った時、聖霊で始まり、聖霊は私たちを生まれ変わらせました。今、私たちは、自分の十字架を負って主に従うのです

「キリストとともによみがえる」とは、すべてのことにおいて、感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神に知っていただくということでもあります。では、その後どうしますか?神は求める人に聖霊を与え、聖霊(いのちの御霊の原理)はその場で働き、聖霊に従って歩むことにより、新しいいのちは少しずつ成長します。これが聖霊によって完成するということです。

▲▲聖霊に従い、より頼んで歩む

主を賛美します。人の肉の弱さのゆえ、律法にはできないことがあります・・・・・・。ですから、神はキリストの救いをもって、いのちの御霊の原理を完成されました。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ロマ8:4)」聖霊によって歩むなら、私たちはは律法の下にはいません。(ガラ518)そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラ516

図解三の下の行を見てください。主を高く掲げ、神により頼む時、私たちが求めれば、聖霊はすぐに働いてくださり、思いもよらない平安と喜びとを与えてくださいます。時にはみことばが与えられ、時には賛美歌等が与えられ・・・・・・。私たちはこのような平安に従って、歩めばよいのです。上の行では、もし自分の努力で歩みたいと思うなら、律法の下に生きることになり、罪に拘束されます(非合法に、密かに支配する)。罪が私たちの主となると、自分の欲望に従って歩んでしまい、体を罪の道具として献げてしまいます。神に喜ばれたいのに、自分の努力に頼ったため、律法の下に生きるようになります。これは原理なので、どうしようもないのです。なぜなら、私たちは罪に売られたからです。自我に頼る時はいつも、罪の性質が出て来て、このように言うでしょう。「あなたはかつて罪の奴隷でした。罪に売られたのです。」イエス・キリストの救いの故に、私たちは死に、罪は私たちに対してどうすることもできないはずです。しかし、自分の努力で生きようとする(すなわち、律法の下に生きる)時はいつも、「自我」が生き、罪が出て来てしまいます。

私たちは自分の努力に頼らないで、「律法の下に生きず、聖霊によって歩む」べきです。図解三ではっきり示しているのは、主を高く掲げることにより、自然に聖霊によって歩むことができるようになり、律法の下に生きないようになれるということです。これが「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(ヨハ 3:30)」の意味なのです。

 

「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。(ロマ10:2)」過去の私も主に対してとても熱心で、「主のために」多くの集会をし、一生懸命「主のために」伝道し、「主のために」食事を取らず、眠らず・・・と極端なまでに熱心でした。主を愛していれば、聖霊は導いてくださると思っていました。この過程で、多くの不調和が生じました。家族と交わる時間がない、休むべき時に休めない、忙しすぎてイライラする、他人の異なる意見を聞かない、他人の批判を聞くと悔しくて仕方がない、あるいは、部屋に閉じこもってヒステリーを起こし、そばに誰かいたならばひどい目に合ったことでしょう・・・。長い期間、このような「主に対する熱心」と「不調和」とのアンバランスがありましたが、聖霊の導きによって、「聖霊の導き」とは一体何なのかと求めるようになれたことを主に感謝します。なるほど、自分は律法の下で主に対して熱心だったことがわかりました。本当に、「神に対して熱心であるが、知識に基づいていない」ことがわかりました。感謝なことに、聖霊が私の霊の目を開いてくださったのです。

では、「聖霊の導き」の特徴とは何でしょうか?どのように聖霊によって歩むのでしょうか?人に従わず、神の導きに従っているかどうかが、どのようにしてわかるのでしょうか?「聖霊の導き」の特徴は、「聖さ」の基礎の上に(つまり、基本的真理に反しないという原則)、内側の平安と外側の調和です。このことは前項で、すでに詳しくお話ししました。アンドリュー・マーレーはこのように言いました。「少しでも不調和があるなら、肉に属しています。」調和を乱す多くの要素については、すでにお話ししました。皆さん、これらの要素に関する聖句を心に覚え、不調和が生じた時に立ち止って、どうしてこのようになったのか、聖霊に示していただけるように求めましょう。不調和があるのは、必ず何か問題があるからです。

 

調和を乱す出来事はすべて、神の私たちへの要求(日々の十字架)です。私たちはやはり、十字架を背負って主に従い、聖霊によって歩む道を行くのです。前回の学びでは、とても重要なことをお話ししました。全ての不調和の出来事は、神の私たちに対する要求で、私たちに聖い品性を形造るためであり、古い性質から解放される十字架の道を歩むその一歩です。他の人を非難せずに、自分自身を見つめましょう。他の人のことを気にする必要はないのです。この十字架を受け取るならば、私たちは主とともに死に、ともに生きるのです。キリストの復活の大いなる力が私を支配するだけでなく、他の人をも支配してくださいます。

自分で管理しないことを願うなら、主にゆだねればよいのです。主に管理していただくほうが良いのか、自分でするほうが良いのか、どう思いますか?神とあなたでは、どちらが賢いですか?神とあなたでは、どちらが強いでしょうか?もちろん、私たちは「神に管理していただいたほうがいい!」と答えますよね。しかし、多くの場合、私たちは自分が神よりも賢く、強いと思って自分で解決しようとし、頑張るのです。まるでそうしないと損をすると思っています。皆さん、安心しましょう。神は私たちをハデスに捨てて置かず、神の聖者が朽ち果てるのをお許しになりません(使227)。必ず私たちをキリストとともによみがえらせてくださいます。

 

8)神はどのように私たちをキリストとともによみがえらせ、絶えず古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着せていくのでしょうか?(ルカ9:23-24、ロマ8:11、マタ21:42-44

▲エペソ26節の、私たちをキリストとともによみがえらせるとは、どういう意味ですか?

エペソ21-5節では、神が主イエスにより完成された「死からいのちに移る」救いについて語っておられます。「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし・・・あなたがたが救われたのは、ただ惠みによるのです。」恵みによるとは、神がすべてを完成し、私たちに信仰によっていのちを得させてくださることです。私たちはすでに生き返ったのに、どうしてエペソ26節で再び私たちをキリストとともによみがえらせると言うのでしょうか? エペソ21-5節では、私たちが救われて新生し、新しいいのちを得たことについて語っています。26節では、新しいいのちを得た後に、日々自分の十字架を負って主に従うことを通して、絶えず主とともに死に、ともに生きるということを、神が私たちに体験させ、主とともによみがえらせて、新しいいのちを成長させてくださることが語られています。

 

▲キリストとともによみがえり、 絶えず古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る:

日々私たちが直面する自分の十字架を取り、主を崇め仰いで、主に呼び求める時に、私たちの十字架(望まず、願わない物事)は主の十字架と結び合わされ、主とともに死に、ともに生きることができます。これがキリストとともによみがえるという意味です。皆さん、これはとても大切なことなのです。十字架を負って主に従いましょう。あなたの十字架が、キリストの十字架とつながるならば、キリストとともによみがえることができるのです。もし、十字架を負ってどこででもつぶやくなら、主とともに死んで生きることもなく、何の効果もないでしょう。

 

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです:

初めて心から主の御名を呼び求め、イエス・キリストとその十字架の死を受け入れた時、私たちはアダムの中からキリストへ移り、キリストとつながる新しいいのちが与えられました。この時点では、新しいいのちの幼子です。新しいいのちを得た後、絶えず主を仰ぎ、主を崇め、御名を呼び求めます(つまりキリストの中にいることです)。日々自分の十字架を負って主に従い、自分のいのちを失い、キリストとともによみがえり、更にキリストにつながるいのちが与えられるのです。絶えず古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着て、新しいいのちは成長していきます。キリストにあって私たちは新しいいのちを得ました。キリストの内にい続けるなら、新しいいのちは成長します。キリストの外は、すべて肉の働きです。皆さん、日々神が備えてくださった十字架を手に取り、立ち上がって主に従いましょう!

 

9)神はどのようにして新しく造られた人を健やかに成長させるのでしょうか?(エペ2:8、Ⅰペテ4:1-2、ロマ1:17、ピリ2:12-16、ルカ9:23-24

  上記の通り、「恵みのゆえに、信仰によって」、神は主イエスが完成された「死からいのちに移る」救いによって、罪過と罪の中に死んでいた私たちをよみがえらせ、キリストとつぎ合わされた新しいいのちをお与えになり、新しく造られた人とされました。神は、すべての新しく造られた人に、いのちを成長させるご計画をお持ちです。この計画の内容とは、以下のことです。

私たちの内側の心の更新と、外側に起こる日々の十字架により、絶えず死からいのちに移り、キリストとともによみがえること。律法の下に生きず、恵みの中に生きること。聖霊によって歩むこと。私たちが救われた時、死からいのちへ移り、新しいいのちの幼子となったこと。そして、日々の十字架に直面する時、絶えず主を仰ぎ、崇め、主を主として認めること。「主よ、私には何もできません。あなたを仰ぎます。どうぞ、あなたがなさってください。」、「主よ、感謝します。私には怒らずにいる力もないのです。あなたが私の上に、怒らずにいられるみわざをなしてくださるようお願いします。主よ、なさってください。」と、主を呼び求める時、絶えず「死からいのちに移る」みわざを体験し、新しいいのちは健やかに成長していきます。

また、このように言うことができるでしょう。新しいいのちが健やかに成長する鍵は、誰が私たちの内に生きるかということです。誰が主でしょうか?「私(自我)」ですか?それともキリストが私の内で生きておられるのですか?「自分」が主でしょうか?それとも、キリストが主なのでしょうか?もちろん、キリストが生きておられ、主であるならば、新しいいのちは健やかに成長するに違いないのです。

 

新しいいのちがどのように健やかに成長するのか、簡単に分析しましょう。

▲まず、新しいいのちの成長要素を受け取る:

新しく造られた人は、どのように健やかに成長するのでしょうか?感謝なことに、神は私たちが受け取るようにと、様々な新しいいのちが成長する要素を与えてくださいました。神が私たちに望んでおられることは、聖書を読み、祈り、聖い生活を求め、神の御旨に従う子どもになる等です。つまり、私たちの心が絶えず新しくされ、主と更に親しく結び合わされることなのです。

 

▲そして、日々、自分の十字架を負って主に従います。

神は、日々直面する十字架によって、私たちに聖い品性を形造ってくださいます。私たちが望まず、願わない物事に出合う時にはいつも、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにいきておられる」ことを訓練されます。まず、主の御前に出て、すべての事を主に打ち明け、「主よ、御名を賛美します。これらの事は、私に聖い品性を形造るためです。感謝します!」と祈ります。もし、あなたがこれらの事をすぐに受け止めることができなくても、このように祈る事ができるでしょう。「私は無実です。どうしてこのようになったのかわかりません。しかし、主よ、私を助けてください。自我から救ってください。あの人にあんなに良くしてあげたのに、全く無情な人です。理解できません!私を救ってください。私を自分から救ってください。私には何もできません。」このように、自分にはできないということを認めるのです。兄弟姉妹たちに話すのも良いですが、その交わりの目的は、やはり主の前でともに祈って支えあうためです。何かあるとすぐに、あちこちに電話をかけて話しまくり、愚痴を言うのではありません。

 

▲聖霊によって歩む

日々十字架を負って主に従うと、聖霊が働かれます。私たちが聖霊によって歩むならば、内側が解放され、いのちは成長します。新しいいのちは聖霊によって始まり、聖霊により完成します。肉によってでは完成できません。もし、誰かがあなたに怒らないように勧めるとします。父なる神があなたを愛するように、あなたもその人を愛すべきだと。そして、たくさんの聖書の話をもってあなたに教え、戒めます。これはとても良いことであり、また必要です。しかし、私たちは聖霊によって行なうことを理解しなければなりません。自分の口が立ち、慰めや励ましの賜物を持っているから、勧めると相手はすぐに聞き入れるのだと思ってはなりません。もしそのような考えであるなら、それは肉により完成しています。とりなして祈り、聖霊にその人の内なる力を強めてもらうように願うならば、その人は事実を受け入れ、主と結び合わされて(エペ314-17)、勧めを受け入れることができるのです。私たちは神の作品で、キリスト・イエスの内に造られたのです。主を高く掲げ崇めるなら、事は全うします。しかし、主を掲げないなら、何もすることができないのです。

 

▲意志による選択

皆さん、いのちを得て、いのちが成長する道は、すべて神のみわざです。私たちの信仰さえも神から与えられたもので、私たちには何もできないのです。しかし、意志の選択はとても大切です。「主よ、あなたに喜んでいただきたいのです。どうか、自分の思いで行なわないようにしてください。新しいいのちの道を歩みたいのです。」と、誠実な心で私たちの意志を献げましょう。私はよくこのように祈ります。「主よ、わたしの心はとても気ままです。どうか、私の痛みを顧みずに、あなたのむちとあなたの杖で私を戒め、正しい道へ導いてください。」主は必ず私たちの志を成就させ(Ⅱコリ812、Ⅱテモ112)、私たちを新しいいのちの道に歩ませてくださいます。私たちはただ「意志」によって新しいいのちの道を歩むことを選ぶだけです。完成するのは神がされることで、神が必ず成し遂げられます。私たちは真実でなくても、主は常に真実です。主にはご自身を否むことができないからです(Ⅱテモ2:13)。

 

▲新しいいのちの成長は一生の歩みです:

詩篇23篇は、神が私たちの一生を導かれる様を描いています。それは、まさしく新しいいのちが成長する経緯です。神が私たちのいのちを成長させるご計画は、たいてい外面的な目に見える生活行動から始まり、徐々に内側の思いや動機へと移っていきます。私たちは消極的従順(私たち人はいつも反抗的です)から、積極的に従うようになります。この過程は、自分の肉の思いに頼った故のたくさんの失敗という暗い夜と、神により頼んで救われ、勝利を得た昼とを経なければなりません。一つひとつの事柄において、弱さと失敗を通して古い性質が表され、挫折、嘆き、絶望により、「もうだめです。わたしはこのように汚れた人間です。」と認めざるを得なくなります。まさに聖書に書いてある通りです。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ロマ7:24)」しかし、神に感謝します。私たちがこのように絶望するなら、心から主を仰ぎ見ることができるのです。これが「完了した」です。「完了した」とは、自分の汚れがはっきりと見える時、自分がもうだめであると認めた時に、初めて真実に主の救いを仰ぎ見る事ができ、自分の努力と闘いを完全にやめて、「キリストはわがいのちであり、私の内ですべてを成就してくださる」ことを受け入れることができるようになることです。

例えば、時に私たちは怒るのが心地よく、怒り続けてしまうことがあります。サタンはその機会に乗じて私たちの思いを支配して怒らせ、主との関係を疎遠にさせます。私はこのような経験を何度もしたことがあるのです。怒りたくないのに怒ってしまい、何度かそれを繰り返してようやく自分の無力を認めた時に、はじめて解放されます。また、自分の望まない、願わない人や物事に出合う時に、ゆだねられないことは事実です。この「ゆだねられない」原因はやはり「自分」です。ですから、このように主に求めましょう。「主よ、私にはゆだねる力もありません。手放すべきであるとわかっていますが、できないのです。主よ、私自身をおゆだねします。主が私にゆだねるみわざを成し遂げられると信じます。」

また、相手から当然に受けるべき報酬を得ることができず、気持ちが不愉快になった時にも、主にこのようにお話しましょう。「主よ!腹が立ちます。どうしてあの人は私に対してこうなのでしょうか。全く理解できません。主よ、私を助けてください。救ってください。」それでもまだ辛いなら、更に祈ります。「主よ、力がありません。ゆだねることができないのです。私に信仰を与えてください。あなたが必ず私の上にゆだねるみわざを成し遂げられることを教えてください。主よ、私には信じる信仰さえありません。主よ、私に信仰をください。私はゆだねることができませんが、感謝します。あなたがわたしの上に成し遂げてくださるからです。」不思議なことですが、自分ができないことを認め、主が私の上に成就されることを確信した時、はじめてゆだねる事ができるのです。これは必ず通らなければならない過程です。

神を賛美します。私たちは神の作品です。神は成し遂げられるまで休まれません。主は、私たちの上で絶えず「自分にはできないことを認める」というみわざをなされ、同時に神のみわざを成就されます。ただ、手放したいという願いがあるならば、神は私たちの身にそのみわざを成してくださいます。アーメン。ですから、新しいいのちの成長は「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません(ヨハ3:30)」という歩みです。それは消極的から、積極的に主により頼むように変えられていく過程です。絶えず「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着る」過程でもあります。そして、一生をかけて、日々、造り変えられていく歩みなのです。

 

▲ラザロの死とよみがえりの図は、何を意味していますか?

この学びでは4つの図で、私たちがどのようにいのちを得て、そのいのちが健やかに成長する道を説明しています。

私たちは罪過と罪との中に死んでいました。まるでラザロが長い布に巻かれて墓の中で死んでいるようです。この「布きれ」とは私たちの古い性質、古い行いを表しています。主イエスが大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれたように、主は私たちをよみがえらせてくださいました。ラザロは長い布を巻かれたままで喜んで墓の中から出て来ました。これは、私たちが救われて生まれ変わり、とても喜んでいますが、内側は古い性質と行いに満ちていることを示しています。 

主イエスは言われました。「ほどいてやって、帰らせなさい。」:これは、私たちが主を信じた後、日々自分の十字架を負って主に従い、聖霊によって歩み、律法の下に生きず、恵みの中にいて、古い人とその行いを徐々に脱ぎ捨てていくことを表しています。これは布をほどいてくださる神のみわざなのです。

もし、私たちが恵みの道を歩まないで、律法の下に生き、自分のために多くの「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めを立てて縛られているなら(コロ220-23)、この布をほどくことができないだけでなく、かえって、外側を他のもので縛って巻かれた布を隠し、人に見せないようして、美しい上着(またの名を日ごとの修養)を着てしまいます。その結果、古い性質や古い行いを脱ぎ捨てることができず、クリスチャンとして、とても苦しむのです。

これは、神が私をフルタイムの奉仕に召してくださった50年間の内の最初の20年の状態でした。私にとって最も嬉しかったのは、救われ生まれ変わった時です。その後、主にお仕えし始めましたが、徐々に同労者との間で多くの問題が出てきました。異なる意見、異なる見解、そして、多くの不調和が生じました。これは矛盾してはいませんか?イエスは「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(ヨハ8:36)」と言われたのに、私のどこが自由なのでしょうか。どこに満たされた喜びと永遠の幸せがあるのでしょうか。どうしてでしょう? あぁ、それは道が間違っていたからなのです。

ですから、エペソ21-10節のポイントは、いかにして布をほどいて歩むかということです。自分がどれだけ努力したかではなく、日々十字架を負って、聖霊によって歩むことです。そうすれば、巻かれた布は徐々に落ちていき、古い人を脱ぎ続け、新しい人を着ていけるのです。「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。(箴4:18)」

 

3、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです:

神を賛美します。イエス・キリストが完成された「死からいのちに移る」救いによって、私たちは信仰により「キリストのうちに」入り、キリストと結ばれた新しいいのちを得ました。救われて生まれ変わったばかりの人には大きな喜びがあります。キリストの愛に引き寄せられ、励まされ、自分のためではなく、私たちのために死んで復活された主のために生きることを望みます。しかし、その時点の私たちは、まだ新しいいのちの幼子であることを認めなければなりません。熱心さはあっても、いかに主のために生き、いかに主に喜んでいただくかという真の知識がないので、すべての行動は肉の行ないとなり、「肉にあるものは神を喜ばせることができません。(ロマ88)」。

救われて生まれ変わった人は、新しいいのちの成長の道に沿って、日々の十字架により、「キリストのうちに」形造られます(成長し続けます)。そうすれば、神が私たちに望まれる良い行ないをする事ができます。つまり、「キリストのうちに」得た新しいいのちは、「キリストのうちに」保たれるなら成長することができます。「キリストのうちに」成長する人(新しく造られた人)のみが、神の御旨を知り、聖霊によって歩み、神が望まれる良い行ないをすることができるのです。

 

1)救われて生まれ変わった後、自分の熱心で、神に喜んでいただくことができるでしょうか?(ロマ10:1-4

過去における長い期間、私はとても主を愛していると思って、知恵を絞り、八方手を尽くして神に喜んでもらおうとしました。すでに何度もお話ししましたが、「自分」がしたいと思うことは、それは「キリストのうちに」ではなく、「肉のうちに」あります。神に喜んでもらおうとすることは良い事ですが、それは「自分による」方法ではなく、私たちが思う熱心さによるのでもありません。主を高く掲げ、すべての事について祈るべきです。

例えば、ウェブサイトの奉仕において、「主よ、どのようにすれば良いのかお命じください。主よ、ダビデ王が『神殿の設計は主が自ら描かれた』と語ったように、私たちのウェブサイトの図面もあなたが描いてくださいますように心からお願いします。」と祈ります。また、伝道に行こうとする時には、「主よ、伝道に出かけたいのですが、わたしの足を導いてください。主がその方に働いてください。私の心を備えてください。……」と祈るのです。

神の契約の箱は、牛が運ぶのではなく、人が担ぐものです(Ⅱサム6:3-7参照)。神へのすべての奉仕を契約の箱にたとえるならば、私たちは、毎日祈りによって担ぎ続け、神が私たちにしてほしいことを担ぐのです。私たちの熱心さで奉仕することはできませんし、また、そうしてはなりません。神の御旨に従って行なわなければなりません。「アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、・・・彼らは主の前で死んだ。(レビ101-2)」これらの出来事が私たちの教訓となりますように。

 

2)神に喜ばれる真の知識とは何でしょうか?(ガラ2:20、ヨハ8:1214:6、ロマ10:8、エペ2:8、へブ4:10-11、ルカ9:23-25

主イエスが完成された救いによって、私たちは新しく造られた人となりました。神に喜ばれる「真の知識」とは、キリストが私たちのいのちであり、私たちのためにすべてを成就してくださり、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と信じて生きることです。それから、「主を認め、主の御名を呼び求める」信仰の道を歩みます。「『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ロマ108-9)」。そして、聖霊によって歩みます。

以前、私は自分がしたいと思うことを何でもしました。イエスのためなら良いことだと思っていました。今では、したいことをするのではなく、必ず神に聞き、どうすればいいのか神を待ち望んでから行動するようになりました。なぜなら、キリストは私のいのちであり、すべてにおいてキリストに私のかしらとなっていただくべきであるからです。

 

3)神があらかじめ備えてくださった良い行いとは何でしょうか?(エペ2:10

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに步むことではないか。(ミカ68)」

この聖句から、神が私たちに備えてくださった良い行いとは何か、はっきりとわかります。私たちが公義を行ない、誠実を愛し、へりくだることを求め続けながら、神とともに歩むということです。神は、一人一人異なる新しいいのちの成長レベルに合わせて、私たちに求められます。神が私たちのいのちの主であることを認め、主を呼び求めて、聖霊によって歩みましょう。

 

神が私たちに望まれる良い行いは、神があらかじめ備えてくださったものです。つまり、私たちは神が求められることをするのです。それは「私がしたいことをし、良いと思うようにする」ことではありません。また、一般的原則や常識によるのでもなく、また、聖書の原則によるのでもありません。皆さん、聞き間違えないでください。聖書の原則に従ってしてならないのではありません。聖書の原則に対する態度はどうであるかということです。前にもお話ししましたが、聖書はみことばを行なうべきだと教えており、これは聖書の原則です。しかし、どのようにみことばを行なうのでしょうか?聖書がこう言っているから、頑張ってその通りに行なうのではありません。みことばを行なうとは、主の教えを頭に入れ(みことばを聞く)、心で受け入れ(みことばを信じる)、聖霊がその都度聖書のことばを通して示してくださり(注ぎの油の教え)、そして、この教えを行なうことです。ですから、必ず「みことばを実行する」べきですが、それは注ぎの油の教えの中で行なうのです。

もし、主が門番をしてほしいと願っておられるのに、あなたは「いいえ、私は掃除をしたいです。掃除は大変で、門番は楽ですから、大変な仕事を選びます。」と言ったとします。しかし、それは神があなたに要求している仕事ではありません。「聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(Ⅰサム15:22)」 神は私たちが何をしているかを気になさらず、私たちが従順であるかどうか、神とともに歩んでいるかどうかを心にかけておられるのです。神は私たちが従い、従い続け、恐れおののいて救いの業を成し遂げることを願っておられます。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ない、非難されるところのない純真な者となり、この曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちの言葉をしっかり握って、世の光として輝くのです(ピリ2:15-16)。

神はあらかじめ良い行いを備えてくださったのですから、主が私たちを祝福して導いてくださるよう求めましょう。すべてにおいて祈り、キリストを主とし、主権を委ね、聖霊によって歩むことこそ、神が私たちに願っておられる良い行いなのです。

 

4)神があらかじめ備えてくださった良い行いの源、方法及び目標とは何ですか?(マタ7:1417-1824-25

「あなたがたは、惠みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エぺ28)」神が人類に備えられた救いは、すべて神がなされたものであり、すべて神の恵みであり、すべて神がくださいました(私たちの信仰も神から賜ったものです)

神は良い行いをする源を備えてくださいました:キリストはわがいのちであり、キリストがわたしの内ですべて成就してくださいます。

神は私たちが良い行いをする方法と目標を備えてくださいました:主の御名を呼び求めることにより、日々、自分の十字架を負って主に従い、キリストが私たちのすべての方法となり、私たちは神に喜んでいただく目標に到達することができるのです。

 

皆さん、神に喜んでいただくには、苦しみを受けとめる意志が必要です。なぜなら、日々の十字架とは自分が望まない、願わないことなので、喜べるものではないからです。理性において、私たちはきっと問いかけるでしょう。「なぜですか。なぜ私はいじめられるのですか?これは理屈に合わないですよ!?」と。ですから、苦しみを受けとめる意志を武器として持ち、「主よ、私は苦しみを受けとめます。なぜだかわかりませんが、このことをあなたに委ねます。」と祈ることはとても大切です。

皆さん、十字架の道を歩むのは、私たちに辛い思いをさせるためではなく、話しをさせないことでもありません。それは、物事に直面する時、自分を主とするのでなく(よく私たちは真っ先にそうしてしまいます)、主を主とするのです。それから、主に従い、主の導きによって話し、行ないます。ですから、私たちの目はただ主を仰ぎ見ましょう。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。(詩123:2)ハレルヤ!私たちは神の作品です。イエス・キリストにあって造られたのです。

    祈りましょう:主よ、感謝します。素晴らしい主よ、あなたはこの汚れた、背信的な人類を新たに造り変え、健やかに成長させてくださいます。そして、アダムが失った神の似姿を回復させ、キリストとともに王権をとらせてくださるのです。主よ、感謝して、御名を賛美します!願わくは、ご聖霊がこの真理を私たちに示してくださり、いのちが健やかに成長する道を歩むことができますように。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして私について来なさい。」と、主イエスのみことばを語りかけてください。主よ、「私たちが救われたのは恵みにより、信仰によること」を、「神がすべてを成し遂げられたこと」を、はっきりわからせてください。そして、私たちが信仰に始まり信仰に進み、聞き従い続け、恐れおののいて、救いのみわざを完成できますように。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行なうことができますように。主イエスの御名により祈ります。アーメン!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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