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一、
あなたがたは自分の罪過と罪の中で死んでいた
2、あなたがたは自分の罪過と罪の中で死んでいた(エペソ2:1)
お祈りします:親愛なる天のお父様!感謝します。あなたは、この広く大きな宇宙で人を捜しておられます。ああ、偉大な真の神様、あなたが私たちを捜しだしてくださったことを心から感謝します。今日、私たちは一緒に、私たちがどのように罪過と罪の中に死んでいたのか、思いめぐらします。どうか、ご聖霊が私たちの心にあなたの真理をあらわしてくださいますように。感謝して、主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン!
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいたものであって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、——あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。——キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:1-10)」
前回、私たち一人一人はみな罪人であるとお話しました。人から見える道徳的行為または偶像崇拝にかかわらず、たとえ私たち自身が道徳的であり良心に従って行動していると思っていても、結論としてはみな罪人です。なぜでしょうか?それは誰一人として律法を完全に守ることができないからです。あるいは、永遠に自分の良心によって行動することはできないからです。もし、それを完全に行なうことができるなら、「それ(律法)を行なう人は、それによって生きる(レビ18:5)」ことができ、義と認められるでしょう。
エペソ2章1-10節はこの学びの中心聖句です。私たちは罪人であるため、「罪過と罪の中に死んで」いました。しかし、神は私たちを愛し、「罪過と罪の中で死んでいた私たちを生かし、新しい人として造りかえ」られました。そして、私たちは日々自分の十字架を背負って主に従い、絶えず主とともによみがえり、新しい人が徐々に成長し、神が私たちにあらかじめ用意された良いことをさせていただけるのです。
今回は、エペソ2章1節の前半「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた」について共に学びましょう。
1.ローマ5章12節と図解一について
エペソ2章1節は「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた」、つまり、すべての人には罪があることを指しています。なぜすべての人が罪人なのでしょうか?
愛する皆さん、もし、未信者に伝道しているなら、私はこのような説明をする必要はありません。私たちがみな罪人であって、キリストの救いが必要であると話せばいいだけです。しかし、今日はいのちの成長についてお話するので、神が私たちをどのようにお救いになったのかを確認しなければなりません。そのために、私たちがどのように罪を犯し、またどのように罪を解決できるのかを知る必要があります。そうすれば、いのちがどのように成長するのかを理解することができるのです。ここで、ローマ5章12節と図解一とを合わせて、人の罪の根源について見てみましょう。
ローマ5章12節には、「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、——それというのも全人類が罪を犯したからです」とあります。この聖句から私たちは「どうして私たちは罪を犯すのか?」という問題について知ることができます。
神はアダムをお造りになった後、このように命令されました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創2:16-17)」ホセア6章7節から、神がエデンの園でアダムに与えられた命令は、彼との契約だったということがわかります。アダムがその善悪の知識の木の実を食べた後、彼は自分が間違っていたことを知りました。しかし、神が問われた時に、彼は「あなたがくださったあの女」のせいにして、責任を逃れようとしました。なぜなら、彼は事の重大さをよく知っていたからです。神との契約を破っただけでなく、裏切ったのです。「彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。(ホセア6:7)」「ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた・・・(ローマ5:19)」とあるように、アダムの不従順(神中心ではなく、自分中心であり、神のご命令を自分の思うままに変える)により、不従順の罪が世界に入り、アダムの子孫はみな罪人になり、自己中心で反抗的な人類となりました。神の御前で最大の罪は「自己中心」です。
アダムが罪を犯す前の「私」は中立的な立場にいました。アダムは善悪の知識の木の実を食べた後、罪の性質に支配され、聖書によると、「古い人」と呼ばれるようになりました。不従順の罪が彼の中で王となり、その権力によって彼を支配したのです。この不従順が罪の源(罪の根、罪の性質、罪の権力、罪の王とも呼ばれる)であり、これこそが人が罪を犯す根源です。
「古い人」は罪の性質の奴隷です。人の主権と内側のいのちは罪の性質に支配されており、罪の性質は「古い人」の主人です。「古い人」とは神が私たちを救い、造りかえられた「新しい人」と対比する言葉です。罪の性質に支配された私たちの体は「罪の奴隷」であり、「罪」を犯さずにいられません。その結果が死(神との断絶)です。体が罪の性質に支配され、罪を犯さずにいられないのです。罪の性質に支配された人は体をも支配され、意思とは関わらず、自然に罪を犯します。その結果が死です。ここで話している「死」とは、神と交わる霊的ないのちが死に、神との関係が断絶されたことです。
図解一より、人は罪の性質に支配された後、罪を犯さずにはいられません。つまり、人には選択する余地がないのです。罪を犯す前のアダムには選択権がありましたが、しかし、彼はいのちの木を選ばす、それとは逆に、善悪の知識の木を選びました。多くの聖書学者たちは、神がいのちの木を造ったのはアダムに選択するように願っていたからだ、と言います。聖書はまた、いのちの木の実を食べれば永遠に生きることを記載しています。しかし、アダムは神に対する反逆を選び、彼と神との関係が断絶されただけでなく、全世界の人類も神と断絶されて、後に肉体の死までもたらされました。
しかし、神の御子がこの世に来られ、ご自分の血で罪ある人間を覆い、私たちのような恵まれた罪人が神の御前に出て許しをいただけるようにしてくださり、永遠のいのちを得させてくださいました。やがて、世の終わりの時、世界中の人々は神の正義の法廷で裁かれます。その時までに、主を信じて真摯に悔い改めた神の子らは永遠のいのちを受けます。神の救いの恵みを受け入れない人は、神から断絶され、火の池の中に投げ込まれます。その断絶は神との永遠の断絶であり、その死とは永遠の滅びです。
2、人類の祖先が罪を犯した後、なぜすべての人が罪人になったのでしょうか?(ローマ7:14)
アダムは罪を犯して罪人となりましたが、なぜ私たちも罪人になるのでしょうか?それは、私たち皆
が、アダムの中に生まれたからであり、アダムの子孫であるからです。ローマ7章14節は、「私は・・・売
られて罪の下にある者です」と言っています。私たちは、いつ売られたのでしょうか?
それは、私たち
の先祖が善悪の知識の木の実を食べた時です。彼は罪の性質と死と契約をし、その代価は死です。それ
ゆえ、彼の子孫である私達はみな罪の性質に支配され、罪を犯さずにはいられない罪人となったのです。
3、祖先の犯した罪とは何でしょうか?(ホセア6:7、ローマ5:19)
祖先の犯した罪は、「背信と不従順」です。結果として、イザヤ53章6節にあるように「私たちはみな、
羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」のです。自分勝手な道とは何でしょうか?それは、一定の基準から離れたことです。その基準とは何でしょうか?それは、絶対に誤りのない、聖であり、義である、愛の神、真実の神です。神を離れることは、「不従順」であり、「背信」です。祖先の罪の本質を現在の言葉にすると、「自己中心」、「ヒューマニズム」になります。この世界の本質は人を崇め、人を最終目標にすることです。世界が人を崇拝し、人を最終目標にするなら、世界は混乱に陥ります。今日の世界は、善悪の知識の木の実であり、国々は自分の基準で善悪を判断し、自分が賢く、智慧あるものだと考えています。その結果、全世界に平安がないのです。
4、どうして人は罪を犯さないはずがないのでしょうか?なぜ自分自身を救うことができないのでしょうか?
人はなぜ罪を犯すのでしょうか?それは、罪の性質に支配されているからです。私たちはしばしばこ
のようにため息をつきます。「しかたがない…、どうしようもない…」と嘆きます。「どうしようもな
い」とは自分自身がコントロールできないことを意味し、怒りたくないのに、怒ってしまいます。何か
私たちを怒らせる力がそこにあるのです。これが罪の性質です。人が罪を犯すのは罪の性質に支配され
ているからであり、罪の性質は人の内にあるのですから、それ故に、人は罪を犯かさずにはいられず、
また自分自身を救うこともできないのです。
なぜ自分自身を救うことができないのでしょうか?それは、私たちがみな罪の性質に支配されているためです。すべての宗教は自分自身を救いたいと願い、自分の力で天の神と和解をしたいと思いますが、しかし、それは不可能です。なぜなら、罪の性質に支配された結果として、自分のためなら平気で他人を犠牲にするほどなのですから。人はいつも「自我」の中で生きており、その結果、罪を犯さないではいられないのです。
5、ある人はこのように言いました。「○○さんはクリスチャンではないですが、クリスチャンよりも行ないが良いです。彼は、天国に行けないのでしょうか?」あなたは、どう思いますか?
ここに、根本的な問題があります。天国へ行くことと行ないとは関係がないのです。なぜなら、私たちは誰でも罪の性質に支配されているので、その結果として、みな自己中心の行ないになるからです。誰も神の基準に達する事などできないのです。
私たちが「罪」について語る時には、神の視点からお話しします。私たちが「この人は良い人だ」と言うのは、人間の基準ではかったものです。ある未信者の人たちの行動はクリスチャンより良いことを認めますが、しかし、素晴らしい行ないのあるクリスチャンでさえ、自分の力で天国へ行くことはできません。天国に行くことは、完全にイエスキリストの血潮によるのであり、キリストの十字架の救いによります。結論として、イエスを信じなければ、いくら行動がクリスチャンより良くても、天国に行くことができないのです。天国に行くことは、すべてイエスキリストの血潮とイエスキリストの救いによるものであり、私たちの良さとは関係ないのです。しかし、これはクリスチャンが良い行ないを求めてはいけないということではありません。救われて生まれ変わったクリスチャンはみな、新しいいのちが成長し、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着て、人々が私たちの良い行ないを見て、神の栄光が現わされることを願うべきです。
6、祖先が罪を犯した結果、人間と神との関係はどのようになったのでしょうか?それはなぜでしょうか?(エペソ2:1、コロサイ1:21)
罪過と罪との中に死に、神と完全に断絶された状態になりました。なぜ神から断絶されたのですか?それは、罪から来る報酬は死であり、「あなたがたもかつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあった(コロサイ1:21)」のは、私たちの中の悪い行ないが神と敵対したからです。心の中で、必ずしも神と敵対したいと願わなくとも、私たちの内側に「自己中心」の思いがあるのならば、すでに神と敵対しているのです。ある人々は故意に神と敵対しますが、またある人々はわからないで、求めずにいることで、神と敵対しています。
7、人が神の御前で罪に定められた直接的原因は何でしょうか?
(ローマ3:24-26、5:12)
すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできません。「ただ、神の恵みにより、
キリスト·イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。神は、キリスト•イエスをその
血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ3:24-26)」私たちは罪の性質の支配により、罪を犯さざるをえないのですが、ローマ3章25節に、「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがしてこられたからです。」とあるように、私たちが罪に定められたのは、自分が犯した罪のためだと言っています。ローマ5章12節もこのように言っています。「こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」すべての人は罪の性質をもっているため、罪を犯さずにはいられません。しかし、私たちが神の御前で直接罪に定められるのは、自分自身の犯した罪によるのです。
8、罪の性質と罪の行ないとの関係と違い(ローマ5:12)
「罪の性質」と「罪の行ない」との関係は深いのですが、しかし、別のものです。罪の性質とは、「不
従順」の本質であり、人の内側で王となり、人を支配しています。罪の行ないとは、人が罪の性質に支
配され、犯してしまった行為です。罪の性質は、根源であり、罪の行ないは行為です。アダムの不従順
により、すべての人が罪の性質に支配され、罪を犯さざるを得ないのです。まとめると、「罪の性質」
と「罪の行ない」との関係は、私たちが「罪の性質」に支配され、「罪の行ない」をしてしまうという
ことになります。「罪の性質」と「罪の行ない」の神学的用語は、「原罪」と「自罪」です。「原罪」
とは罪の性質(または「罪の根」、「罪が王となる」と「罪の権力」)を指し、アダムがこれを世に持
ち込み、継承され、すべての人が「原罪」を持つようになりました。「自罪」は自分が犯す罪の行ない
です。
前回の学びで、人々には罪があり、それは、外側から見えるもの、または内側の思いに関わらず、私たちはみな罪人であることをお話しました。今回は、人がなぜ罪を犯し、その原因はどこにあるかについて学ぶことができて、感謝します。アダムが罪を犯したのは、罪の性質によって支配されたからではなく、罪の性質に支配される前に、罪を選んでしまったからです。アダムの子孫である私たちひとりひとりも、祖先であるアダムによって売られ、罪の性質のあるものとなりました。ですから、アダムの後の子孫たちは皆、罪の性質に支配され、そのため、罪を犯さずにはいられなくなり、神と断絶され、死に至りました。ですから、人は罪を犯してしまい、また、自分を救うこともできないのです。信仰をもったばかりの方やまだ求めている人には、私たちはみな罪人であり、イエスを救い主として受け入れる必要があると話すだけでもかまいません。しかし、いのちの成長のためには、罪の起源と人類の歴史に対する影響を理解できないと、多くの問題についてはっきりとわかることができないのです。
お祈りしましょう:主よ、あなたのみことばを通して、私たちがなぜ罪を犯してしまうのかをはっきりと語ってくださり感謝します。アダムが罪を選んだために、罪が彼を通して世界に入り、私たち一人一人を支配し、私たちは罪を犯さずにはいられなくなってしまいました。罪過の中に死んでいた私たちは、神と断絶していました。どうか、この真理を私の内においてくださり、絶えず教え続け、戒めとさせてくださいますように、お願いします。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン