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二、神によって生かされる(エペソ2:15

 

 

1、死からいのちに移る方法

 

祈りましょう:主よ、私たちは、罪過と罪の中に死んでいた者で、自分自身を救うことはできませんでした。しかし、あなたは私たちを愛して下さり、私たちが罪過と罪の中に死んだままでいることを望まれず、もう一度生かすために、救いまでも用意してくださり、本当にありがとうございます。今日の学びを御手にお委ねします。どうか、守り導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン!

 

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・(神は)この私たちをキリストとともに生かしました。(エペソ2:1、中国語訳では1節の中に5節の内容も含まれる)」

前回の学びでは、私たちが罪過と罪の中に死んでいたことについて話しました。今回は神が私たちをキリストとともに生かしてくださったことについてお話します。

宇宙の中で、唯一の真の神、主なる真の神、父、子、御霊の三位一体の神は、聖く、慈しみ深く、正しいお方です。御名を賛美いたします。義なる神は、罪ある者を無罪にすることは絶対におできになりません。正しくないものを義とすることはできないのです。この唯一の真の神であるお方は、いのちの源でもあり、この方を持つ者はいのちを得て、満たされた喜びと永遠の幸福を得ることができます。しかし、罪のゆえに私たちは神との関係が断たれました。「罪過と罪の中で死んでいる」ことは、つまり、神との関係が断絶しているということです。この私たちにもう一度いのちを得させたい、満たされた喜びと永遠の幸福をもう一度与えたい、と神は望んでおられます。では、神はどのようにして罪人である人間を、聖なるご自身の御元へ引き寄せられるのでしょうか?

 

1、神は、なぜ救いを定められたのでしょうか? (ヨハネ3:16、ローマ58、Ⅱコリント5:14

なぜ、神は私たちを救おうとされるのでしょうか?ヨハネ316節に「神は世(の人)を愛された」とあります。神は私たちを愛し、私たちの罪のために死ぬほどまでに、私たちを愛されたのです。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ57-8)」神の正義は罪ある者を無罪にすることはできません。しかし、その愛のゆえに、また、その聖さのゆえに、人を救わずにはおられません。「聖さ」とは、神が絶対的に不正や間違いがないということを指します。神の絶対的完全なるご性質は、人間を救わざるえないのです。

また、聖なる神は汚れた者をそのまま受け入れることはできません。しかし、その愛のゆえに神は人を救わざるをえないのです。

 

2、神が救いをお定めになった目的は何でしょうか?どのような救いを定められたのでしょうか?

 (マタイ121、ヨハネ316524、使徒410

神がお定めになった救いの目的は、神を信じるすべての者が、誰一人として滅びることなく、永遠のいのちを得ることです。神はすべての人がご自分の御前に来て、いのちの源である神からいのちを得、満たされた喜び、そして、永遠に続く幸福ないのちと生活を得るように願っておられるのです。

神がお定めになった救いとは何でしょうか?前回の学びで、人々が罪のゆえに神の御前に来ることができないことをお話ししました。それは、人類の先祖アダムが罪を犯したため、罪の性質(原罪)が人類の中に入り、人は罪の性質に支配され罪の奴隷となり、罪を犯さないではいられないからです。神の救いは、必ず罪の性質と罪の行いの問題を解決しなければなりません。言い換えれば、神が、私たちの犯す罪の行ないを解決し、そして、罪の性質の支配から私たちを救い出して下さる必要があるのです。それゆえ、神の救いとは、人類を再び造り直すことです。人類を再び造り直すためには、私たちの中にある「古い人」を死なせ、「新しい人」を再び造らねばなりません。人類の罪を贖い、罪の支配から脱け出させ、神との断絶された関係を良き関係に戻して下さらなければならないのです。

 

3、人類の救い主の資格とは何でしょうか?主キリストの受肉の重要性とは?(Ⅰペテロ318、Ⅱコリント521、ピリピ2:7-8

神は救い主を通して救いを完成されました。救い主の資格は、人類を救うことから、まず人間でなければなりません。そして、罪のない完全な人間で、処罰を受けても滅ばない人でなければならないのです(今まで多くの人々が十字架につけられましたが、彼らは自分の罪のゆえにみな死にました。)

主イエスはなぜ受肉しなければならなかったのでしょうか?神は天で私たちを救うことができないのでしょうか?できません!なぜなら、神は天では処罰を受けることができず、死ぬこともできないからです。キリストの救いには必ず死が必要であり、それによって復活できるのです。世界の中で、完全な人を見つけることはできません。なぜなら、アダムにあって生まれた人はみな罪人だからです。ですから、罪のない神の御子、受肉したイエスキリストがこの世に来られ、アダムにある一人の人間となられました。主イエスがしばしばご自分を「人の子」と称されたのは、そのためです。受肉したイエスキリストだけが、義なるお方でありながら不義である私たちと代わることができ、罪のないご自身によって罪深い私たちに代わってくださることができたのです。

 

4、次の4組のことば「アダムにあることとキリストにあること、最初の人アダムと最後のアダム、古い人と新しい人、第一の人と第二の人」とは、どのような意味でしょうか?(Iコリント15:22,45-49、エペソ4:22-24

神の救いを知る前に、まず、この4組のことばについて知る必要があります。

1)アダムにあることとキリストにあること

Iコリント1522節 「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」から、2種類の人を見ることができます。「アダムにある」人と「キリストにある」人です。

 

2)「最初の人アダム」と「最後のアダム」

Iコリント1545節「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」とあります。「最初の人アダム」とは、人類の祖先アダムのことです。彼が罪の性質と罪の行いとを世に持ち込み、すべての人は罪人となりました。それで、神は人類の救い主、つまり「最後のアダム」を用意しなければなりませんでした。この「最後のアダム」は、先祖アダムの持つすべてのものを総括し、またさまざまの情欲や欲望を十字架につけ(ガラテヤ5:24参照)、そして埋葬しました。こうしてアダムにあるものすべてに終止符を打ちました。

 

3)「古い人」と「新しい人」

エペソ422-24節「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり作り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」この聖句は「古い人」、と「新しい人」について語っています。罪の性質に支配された人を「古い人」と呼び、この「古い人」は罪の奴隷であって、罪の性質に支配されているため、罪を犯さずにはいられません。神は「人を再度造りかえ」、「新しい人」に造られます。「新しい人」とは罪の性質の束縛から解放され、キリストと結びあわされた人であり、罪の性質はその新しい人の主になることはできません。

 

4)「第一の人」と「第二の人」

Ⅰコリント1545-49節に「第一の人」と「第二の人」と書かれています。「第一の人」は人類の始祖アダムです。このアダムが失敗したので、神は人類を再創造し、新しく造り変えなければならなくなりました。そのため、第二の人を定めて、新しい人のかしらとされたのです。

以上の4組のことばから、基本的に、神がどのように人間を造り変えられるのかを知ることができます。神は新しい人々のかしらを定め、すべて古いものを取り除き、罪の性質の支配から私たちを自由にし、キリストとつなぎ合わせて、新しい人として下さったのです。

 

 

 

 

5、イエスキリストはどのように「死からいのちに移る」神の救いのご計画を完成されたのでしょうか?また、それがどのように私たちに成就されたのでしょうか(図解二)?(エペソ2:8

 

1) 「神の救いのご計画」——イエスキリストはどのように私たちのために救いを完成されたのでしょうか?イエスキリストは神が用意してくださった救い主であり、彼によって人々が「死からいのちに移る」という救いのご計画を完成されました。ヨハネの福音書とⅠヨハネの手紙の中に、この「死からいのちに移る」という言葉があります。

イエスキリストは神の御子であり、受肉され人の子となりました。主イエスキリストの一生は服従と苦しみの人生であり、特に、律法を完全に守る一生でした。彼は神であり、同時に人でした。彼は完全なる神であり、完全なる人間でもある二つの性質を持たれたのです。さまざまな試練を受けても罪を犯さず、完全に罪のない人生でした。最後に彼は、全人類のアダムにある罪、つまりすべての肉と肉の情欲を背負って、十字架についてくださいました。十字架の上で主イエスキリストは死に、その血潮が私たちの罪の贖いとなり、神との和解のいけにえとして献げられました。彼の血によって、私たちが神の御前で犯したすべての罪の負債を支払い、また、私たちの上にある神の怒りを収めてくださいました。罪を犯したのは私たちなのに、イエスが代わりに神の怒りを受けられました。ローマ兵士に鞭打たれ、頭の上に荊の冠をかぶらされ、顔の上に唾をかけられ、多くの侮辱と罵りを受けられたことは、すべて私たち全人類のためだったのです。真に、彼はのろいを受け、私たちは祝福を得ました。彼は死んで、葬られ、すべて最初の人アダムにあるものを全部葬りました。そして、新しい人のかしらとしてよみがえられました。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ローマ83)」主イエスご自身には罪がありませんが、私たちのために罪深い肉と同じ姿をとられ、彼が復活した時には、第二の人である新しい人々のかしらとなりました。そして、新しい人類、すなわち、キリストにある新しく造られた人々が起こされました。その後、主は昇天され、父なる神の右にお座りになりました。父なる神はそれゆえ聖霊を私たちに遣わし、救いのみわざを行なわれるのです。

 

アダムにあって生まれた主イエスは、どうしてアダムに属していないのでしょうか? なぜなら、主イエスは十字架の死を通して、アダムの中から出られたからです。律法が人の罪を追及するのは、その人が死ぬ時までです。このことはとても大切で、私たちがいのちを得て、そのいのちが成長するための鍵なのです。主イエスは死ぬことによってアダムの中から出られました(主イエスは罪がなく、かつアダムにあって生まれたので、私たち人類を代表することができました)。もし、十字架が真中にあるなら、左側は「アダムにある」状態で、主イエスキリストは死と復活により右側の「キリストにある」状態に移られました。十字架の死を通して、罪と罪過の死の中から出られたのです。そして、復活され、新しく造られた人のかしらとなりました。ですから、キリストの復活に入ることは、「いのち(霊的な新しいいのち)」の内に入ることです。これが「死からいのちに移る」ということです。

ハレルヤ!主に感謝しましょう。すべては恵みにより、神がこの「死からいのちに移る」救いのみわざを成し遂げてくださったのです。

 

 

 

 

2)図解二————主イエスキリストが完成された「死からいのちに移る」救いは、どのように私たちの上に成就されたのでしょうか?

図解二の上の行は、私たちが主を信じる前の、神から断絶された状態を表しています。つまり、「私」は「罪の性質」に支配され「古い人」となり、「自分の体」を「罪の奴隷」とし、「罪」を犯さずにいられなくなり、「死に至る」(神との断絶)。これはすでにお話した図解一です。

その下の行は、「神を信じた時」の神の救いを表しています。「私」は今、主の御名を呼び求め、「義(主キリスト)と結び合わされ」、「古い人」が主とともに十字架につけられ、キリストが私を解放し(罪の性質は死んではいないが、私の主にはなることができない)、「新しい人」になる(新しいいのち――永遠のいのちを得る)。「主よ、私は罪人です。イエスを私の救い主として受け入れます。」と主の御名を呼び求めた瞬間、神は私を主と結び合わせてくださいました。主と結び合わされた私は、「古い人」が主とともに十字架につけられ、罪の奴隷である「古い人」が死に、「私」は解放されました。「私」は解放され、キリストと結び合わされ、新しい人となりました。

 

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8)」主を賛美します。神の恵みによって救いは完成されました。 

では、信仰とは何でしょうか? ヨハネ112節にこうあります。「・・・この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には・・・」。信じることとは、主の御名を求めることです。つまり、「主よ、私は罪人です。あなたを救い主として受け入れます。」このように主を救い主として受け入れた時、「死からいのちに移る」という救いが私の上に成就したのです。私もその「死からいのちに移る」ように、主とともに死に、ともに葬られ、ともに復活し、新しいいのちを得ます。これがイエスを信じてすぐに、永遠のいのちを得ることです。「信じる」とは、イエスが私のためにしてくださったすべてを受け入れ、イエスキリストが完成された「死からいのちに移る」救いを受け入れることです。受け入れたその時、主と結び合わされ、主がなされたことすべては私のためであり、主がなされたことすべてを私も経験します。私は十字架につけられず、葬られませんでしたが、しかし、「恵みのゆえに、信仰によって」、私が主イエス·キリストを個人的に救い主として受け入れた時、主とともに死に、ともに葬られ、ともに復活したのです。

イエスを信じたばかりの方には、「死からいのちに移る」方法を詳しく説明する必要はないでしょう。しかし、主を信じたその瞬間、現実に「私の内側に新しいいのちが芽生え、物事を行う時に私を導く声がするようだ・・・」というような経験をしているのです。実際に、すでに主とともに死んで復活し、「死からいのちに移されて」いるのです。

 

6、「死からいのちに移る」方法を通して、どのように私たちは罪の支配から救われたのでしょうか? (ローマ6:7-11

主イエスキリストが十字架の上で流された血によって、私たちの犯した罪過を清め、その罪の負債を返済してくださいました。主は、どのようにして罪の支配から私たちを解放されたのでしょうか?それは、ご自身の死を通してです。律法が人を追求するのは死ぬまでです。私が生きている間、罪の性質は私を支配しましたが、今すでに、私は死んでいます。「罪」はかつて私という奴隷の主人でしたが、その奴隷が死んだので、主人はどうすることもできません。私たちは信仰によって、主イエス自身の死とつなぎ合わされ、ともに死を経験したので、罪の性質は私を支配することができないのです。

ローマ67-11節に「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」とあります。

前にもお話した通り、罪の性質は私たちを支配しひどく苦しめます。では、どのようにその支配から脱け出すことができるでしょうか? 二つだけ方法があります。罪の性質が死ぬか、それとも、私が死ぬかです。どちらか一方が死ななければ、その束縛から脱け出すことはできません。主イエスが十字架の上で「死からいのちに移る」方法を完成してくださったので、私たちは信仰によって彼の死につながるなら、罪の性質の支配から脱け出すことができるのです。「罪の性質」は死にませんが、「私」が死にました。私の「古い人」がイエスとともに十字架につけられたのです。

 

皆さん、私たちが知る知らないにかかわらず、内側の「私」には主人があり、それは崇拝の対象となります。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」と聖書にあるようにです。これは、崇拝の対象が必ず必要だということです。主イエスが私たちを「死からいのちに移る」ように救ってくださったので、私たちは彼の十字架の死によって彼とともに死に、罪の性質の支配から脱け出すことができました。「私」は解放されたのです。「私」には中立状態はなく、どちらかに属さなければなりません。神が私を主に結び合わせてくださったので、私は新しい人となり、キリストは私のいのち、私の主となりました。

 

イエスキリストは最後のアダムです。私が主とともに死に、ともに葬られ、復活した時、「私」とアダムとの関係は切れました。すべてはすでに死んで葬られているため、今生きているのは新しい人なのですから。「罪」は「私」の主になることができません。では、私の主はどなたでしょうか?義(キリスト)が私のいのちの中で主となられました。「私」はキリストに属するものとなったので、アダムにあるすべてが断ち切られたからです。そのため、私たちは「アダム、どうしてそんなに弱いのですか?」と責める必要もありません。実際に、アダムの目の前に立つあの2本の木が、今日もクリスチャンの前に立っています。イエスを信じた後、私たちは何を選ぶのでしょうか? 主を崇め、主により頼み、主とより親しくつながることか、それとも、「自分」の理性による考えに頼るか、どちらを選ぶのでしょうか?

私たちのために、「死からいのちに移る」「恵みによる」救いを完成してくださった主を賛美します。信仰により、主とともに死んで葬られよみがえることを受け入れたので、「死からいのちに移る」救いが私たちの上に成就しました。私たちは新しいいのちを得、罪から解放され、罪の性質はもう再び私の主人になることはできないのです。

 

7、「私たちが救われ生まれ変わった後、罪の性質は内側にまだ生きていますが、もはや私たちの主人にはなることができず、キリストが私たちのいのちであり、義が私たちのいのちの主、王となられました。」とは、どのような意味でしょうか?(ローマ517-19614

図解二で見ることができるように、生まれ変わった私たちの内側で、罪の性質は死なず、まだ生きています。しかし、それは私たちの主人になることができず、キリストが私たちのいのちの主となりました。私たちが罪の束縛から解放されたのは、私の古い人がイエスとともに十字架につけられたためです。「私」が罪の束縛から解放され、その解放された「私」がイエスと結び合わされ、新しい人となりました。イエスは私のいのちの主なので、いつも主を崇め、主を私の主としなければなりません。もはや、自分を主にしてはなりません。自分を主にする時にはいつでも、罪の性質がこっそりと、再び私を支配することになるでしょう。

続いて、神が与えてくださった私たちへの素晴らしい救いと私たちの自由意志の選択との関係についてお話していきます。

 

8、十字架はどのように私たちをアダムからキリストへと移したのでしょうか。

私たちはどのようにしてアダムからキリストへと移されたのでしょうか?それは、主イエスが十字架の上で血を流し、その死によって完成された救いによります。十字架の死はとても重要です。死ななければ生きることができないからです。アダムの中で罪の性質に支配されていた人は、死を通さなければ、そこから出ることはできません。主イエスの十字架の死とよみがえりによって、私たちは信仰により、彼の死とつなぎ合わされ、罪の中から出ることができ、新しい人として生きかえります。十字架の死が、新しいいのちの成長のための根本的な鍵であり、アダムからキリストに移される分岐点です。救われて生まれ変わった時、霊的な身分としては、私たちはアダムからキリストへと移されましたが、しかし、心と思いはまだアダムにあるため、日々自分に死に続ける必要があります。そうすることで、私たちは、実生活においても徐々にキリストにあるものとされていきます。続いて、日々自分に死ぬことと、自分の十字架を背負って主の十字架の道に従うことについてお話します。

 

祈りましょう:主よ、私たちがまだあなたの敵であった時に、また、罪過と罪の中に死んでいた私たちのために、御子をこの地上に送ってくださり、救いを完成してくださったことを本当に感謝します。ハレルヤ、このような大きな恵み、素晴らしい恵みを賛美し、主に栄光を帰します。主よ!ただイエスの十字架の死を通して、また、私たちが主を受け入れる「信仰」を通し、イエスと結び合わされ、ともに死ぬことによってのみ、罪の支配から脱け出し、アダムとの関係を断つことができることを、どうか、絶えず私たちにお語りください。どうか、続けて、次の学びも導いてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン!

 

    


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