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二、神によって生かされる(エペソ2:1、5)

 

2、信仰によって義と認められる

 

すでにお話ししましたが、すべての人は神の御前で罪人であり、自力で救われて神の御前に行くことはできません。しかし、感謝なことに、神は御子を人類の救い主としてお立てになり、私たちをお救いになりました。「イエス」と言う名は、神の民を罪の中から救い出すという意味です。神は、イエス・キリストが十字架の上で流された血潮を通し、私たちの罪過を贖い、イエスの死によって、罪の支配から解放してくださいました。

 

神がイエス·キリストによって完成された救い―――「死からいのちに移る」救いは、完全に信仰によるもので、少しも人の努力によるものではありません。では、「死からいのちに移る」ことは、どのように私たちの上に成就したのでしょうか?それは「信仰によって」、その救いを受け入れたことによります。私たちはそれを受け入れる以外に何もすることができません。受け入れることによって、主と結び合わされ、主とともに死に、ともに埋葬され、ともに復活するのです。

「死からいのちに移る」ことをお話するのは、私たちの霊的ないのちについて語ることが重要だと思うからです。以前、アダムにおいて死に、罪過と罪の中に死んでいた私たちは「死からいのちに移る」ことを通して、イエス・キリストにつながれ、生まれ変わり、新たないのちを受けました。霊的ないのちの身分から話しますと、イエスが完成した「死からいのちに移る」救いを受け入れた時、私たちは彼とともに死に、罪人の側から義人の側へと身分を移されたことになります。では、これから「信仰によって義と認められる」ことについてお話しましょう。

 

1、ローマ320-22節はどのような意味でしょうか?

「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(ローマ3:20-22)」

私たちが罪人である以上、誰一人として自分の力で神の要求を満たすことができないため、神は「信仰によって義と認められる」方法で人々を救ってくださいました。では、「信仰によって義と認められる」こととは何でしょうか?上記の聖句から見ると、誰一人として義を行なうことができないため、神は御自分の義を私たちに与えてくださいました。つまり、私たちが自分を罪人と認め、イエスを救い主として受け入れた時、主とともに死に、ともに埋葬され(主イエスは十字架で律法の要求を全うされ、私たちがイエスを救い主として受け入れた時、私たちの債務は支払われました)、主とともに復活したので、神は御自分の義を私たちにお与えくださいました。私たちには義はありませんし、義と認められることもできません。人はどんなことをしても義と認められないので、神は御自分の義を私たちに与えてくださったのです。

 

2、「信仰によって義と認められる」とは?(ローマ3:21-26、エゼ18:420、イザ53:11、使13:38-39

ガラ2:16

 

1)「信仰によって義と認められる」とはどういうことでしょうか?

全人類は罪人であり、誰一人として義を行なうことはできません。イエス・キリストの贖いにより、神の恵みを受け、すべてイエスを信じる人に神は御自分の義を無償でお与えになりました。これが「信仰によって義と認められる」ことです。

 

2)「義と認められる」とはどういうことでしょうか?

ローマ321-26節「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

 

ローマ42-8節「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。』とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』」

上記の聖句に、「不敬虔な者を義と認めてくださる」、「義とみなされる」、「主が罪を認めない人」とあるので、義と認められるとはどういうことなのかがわかります。つまり、義人ではない人を神が義人とみなされた、これが義と認められることです。義と認められることには、二つのことが含まれます。一つ目は、主イエスの血潮で私たちの罪が赦され、清められたこと。二つ目は、神がキリストイエスの義を私たちに与えられたことです。私たちは神の義のしもべを知ることにより、義と認められました(イザ53:11)。イエス様を賛美します!「死からいのちに移る」という方法は、私たちにいのちを与えるだけではなく、罪人の立場から義人の立場へと移らせるのです。そして、感謝なことに、私たちは神に義とみなされ、義と認められるのです!

 

3)どのように義と認められるのでしょうか?

▲律法によっては義と認められません。

ローマ320節「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」

ガラテヤ216節「・・・・・・律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」

ローマ328節は、人が義と認められるのは行ない以外であり、律法の行ないによるのではない、と語っています。

▲義と認められることは、完全に神の恵みによります。

ローマ324節で、神の恵みにより価なしに義と認められることとは、律法や行ないによらず、完全に神の恵みであり、完全にイエス・キリストによる贖いによる、と語っています。

▲正しいしもべ(イエス・キリスト)を知ることにより、義と認められ、イエスの血により義と認められます。すなわち、イエスを信じることにより義と認められるのです。

 

イザヤ5311節「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」

この正しいしもべとは誰でしょうか?それは主イエス·キリストです。ハレルヤ!彼は正しいしもべ、正義のしもべです。「多くの人は正しいしもべを知ることにより、義と認められた(中国語訳より)」イエスを信じることとは、イエスが私たちの罪を担われたことを知ることです。

ローマ59節「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」

イエス·キリストの血により私たちの罪は赦されました。義と認められるとは、罪が赦されることです。私たちの罪を赦し義と認めるのは、神ご自身がなさることです。私たち個人においては、ただ信仰によりそれを受け入れるのみです。

使徒133839節「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」

私たちはどのように義と認められるのでしょうか?私たちが義と認められたのは、律法によらず、行ないによらず、完全に神の恵みによります。イエスの血潮により、私たちは信じて義と認められます。神はイエスの義を私たちに与えられました。なぜならイエスは完全に義である救い主だからです。彼は罪がなく、世の人の罪を取り除き、傷も汚れもない神の小羊です。その彼の義が私たちに与えられたのです。これが、「信仰によって義と認められる」ことです。

 

4)信仰によって義と認められるとは、「恵みのゆえに、信仰による」ことです。私たちが救われたのは「恵みのゆえに、信仰によります」。神が完成された救いとは、私たちが信仰により、主とつながることです。主イエスは完全なる人であり、律法を完全に守られます。私たちは信仰により、義と認められたのです。(ローマ3264551

 

3なぜ「信仰によって義と認められる」方法は、律法を無効にするのではなく、かえって、律法を確立することになるのでしょうか?

    すでにお話しした通り、律法は私たちにさまざまな要求をしますが、誰一人として、それを全うすることはできません。誰も完全に律法を守ることができないので、私たちは神の御前でみな罪人となりました(律法を破りました)。すべての律法は、その一つでも犯したならば、すべてを犯したことになります。それゆえ、誰一人として律法によっては義と認められません。では、律法の基準は達成すべきでしょうか?はい、達成すべきです!信仰によって義と認められ、律法の要求を全うできたのはイエス・キリストです。彼は律法を完全に守り、罪を犯しませんでした。私たちが自分を罪人と認め、イエスを救い主として受け入れる時、義のない私たちは枝がぶどうの木につながれるようになります。「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(Iコリ1:30)」イエス·キリストとつながることによって、イエス・キリストの恵みをいただき、イエス・キリストの義が増し加えられ、私たちは義人になり、義とされます。

    救われた後、聖霊の導きにより(後の学びにてお話しします)「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされ(ローマ8:4)」、徐々に実際の生活においても義とされていきます。このことから、律法は廃止されずに、必ず全うされなければならないことがわかります。ですから「信仰によって義と認められる」とは、かえって律法を確立させることであり、律法を廃止するものではないのです。私たちが律法を全うすることができないため、神は別の方法をお用いになり、神の義が律法によらずに現わされました。それは、すべての信じる人に与えられ、その信じる人、つまり、キリストに結び合わされた人が、キリストの義を自分の義とさせていただけます。私たちは何も持っていませんが、Ⅰコリント130節にあるように、神は私たちをキリストの内に置かれ、キリストと結び合わせ、キリストのすべてを私たちのすべてとしてくださいました。

 

4、「信仰によって義と認められることは、神がかねてから約束されていた神に喜ばれる道である」とはどのようなことでしょうか?(ローマ4章)

 

1)信仰によって義と認められることは、新約の時代から始まったのではありません。旧約時代のアブラハムは神から約束をいただいた時に、神の言葉を信じたため、それが彼の義とみなされていました。「それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。』とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ4:1-5)」

    「 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』のだからです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。約束のみことばはこうです。『私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。(ローマ9:6-9)

    これらの聖句は、アブラハムのすべての子孫がアブラハムの子供なのではないと言っています。それは「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」からです。神の約束は非常に綿密であり、漠然としたものではありません。アブラハムは神の約束を信じたため、それが彼の義とされました。旧約から新約に至るまで神の原則は常に一致しています。神が約束を与え、人がそれを受け入れ、義人が「義と認められる」のです。

2)へブル1217節にイサクの長男エサウと次男ヤコブの話があります。エサウは長子の権利を軽んじたため、「涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」神はアブラハムにこのように約束されました。「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。(22:18)」それゆえ、イスラエルの長男は祝福されます(ユダヤの伝統では、世襲は長男により継承されます)。エサウが長子の権利を軽んじたのは、神の約束を軽く見たのと同じことです。しかし、ヤコブはこのこと(長子の祝福)をたいへん重んじており、神の祝福は長子によって伝わることを知っていたので、どんなことをしてでもこの長子の権利を得ようとしました。人から見るとヤコブは非常に狡猾で、悪い人なのに、神はなぜ彼を愛したのでしょうか?それは、彼が神の約束を重んじたからだったのです(ヤコブの狡猾さは、のちに神によりきつく懲らしめられましたが)。

3)へブル11章にあるように、信仰の先人たちは信仰により、「義人であることの証明を得ました。(4)」そして「信仰による義を相続する者となりました。(7)

旧約時代、神がアブラハムに語ることを、アブラハムはそのまま信じました。神がノアに箱舟を造るようにと語ると、ノアはそのようにしました。神がエノクにメトシェラが死ぬ時災害が来ることを啓示されると、エノクは神とともに歩みました。神は人に何を要求しておられるのでしょうか?神の約束を重んじる人を神は義と認められるのです。

 

4)ローマ46-16節「ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、『アブラハムには、その信仰が義とみなされた。』と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼をうけていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。律法は怒りを招く(あるいは人を罰する)ものであり、律法のないところには違反もありません。そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。」

    この聖句は、「義と認められる」ことは決して律法によるのではなく、割礼を受けたかどうかは関係がないことをはっきりと語っています。割礼が義と認められる証印にはなりません。「義と認められる」ことは、アブラハムの信仰をならうことであり、神の言葉をそのまま受け取ることです。

    旧約から新約において、神が重んじられる人、探される人、選ばれる人の基準は、すべて神御自身の約束を受け入れるかどうかにかかっています。それと同じように、今日、ヨハネ316節に 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と約束されています。このみことばの約束を受け入れるだけで、あなたは義と認められるのです。これは、外側の行為とは関係がないのです。

 

5、恵みとは何でしょうか? (ローマ44116

働く人が賃金を得ることは恵みでありません。ローマ116節では、働かない人が賃金を得ることが恵みなのだと言っています。今日、私たちが信仰によって義と認められたこと、神が私たちを義と呼ばれることは、すべて恵みです。私たちは何もせず、すべてイエスがなされました。大切なことは、この恵みをあなたが受け入れるかどうかです。受け入れるなら、この恵みはあなたのものとなります。これは完全なる恵みであり、人が何かをする必要はないのです。

 

6、アブラハムの信仰とは?(ローマ4:316-25

    ローマ416-25節「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。『わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。』と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、『彼の義とみなされた。』と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」

    アブラハムの信仰を見てみましょう。人の目からみれば、サラは子供を生むことができず、彼らは子供を持てるはずがありません。しかし、アブラハムは、神が言われることはすべてそのようになると信じていました。神が約束されたので、アブラハムは望みえないときも、信仰により望みを抱き、神が無いものを有るようにされることを信じ、神には人を死者の中からよみがえらせることもおできになると信じました。彼のこのような信仰は私たちの信仰の模範となりました。私たちが信じるのは、神が言われることは必ずその通りになるということです。神は約束されたならば、必ず成就されます。しかし、どうして私たちはよく信仰が弱くなるのでしょうか?それは、見えないからです。神が言われたことと状況がまったく合わないからではないでしょうか?アブラハムは人を見ず、状況も見ず、神が何を言われたかに注目しました。これがアブラハムの信仰なのです。

今日アブラハムの信仰にならうこととは、人を見ず、状況も見ず、神が言われたことのみを大切にし、神が約束したならば、たとえ死んでも生きかえり、無いものも有るようになると信じることです。アブラハムには子供が生まれるはずがありませんが、神は無いものを有るものへと変えることがおできになります。彼がイサクを捧げたのは、イサクが死者の中からよみがえることを信じたからです。彼はまるで死者の中から子供を取り戻したようだ、と聖書に書いてあります。「神さま、ただイサクから生まれた子孫によって、地のすべての国々は祝福されるとあなたがおっしゃったのではないですか。どうして、彼をいけにえとしてささげなければならないのですか?」とアブラハムは言うことができたのに、言いませんでした。彼が最も関心を持っていたのは、神が何をおっしゃったのかということです。「神が言われたのなら、イサクはたとえ死んでも必ず生き返ります。かつて私には子供がいませんでしたが、今はいます。今、子供が死んでも、必ず生き返ります。」これがアブラハムの信仰です。願わくは、神が言われることには何でも聞き従う、という信仰が私たちにも与えられますように!アーメン。

7、アブラハムが「義と認められた」ことと、後に「義と認められる」イエスを信じる私たちとの関係とは何でしょうか?(ローマ416、ガラ39

ローマ416節「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。」

アブラハムは神の約束を信じたので義と認められました。彼は神が言われたとおりに信じたのです。私たちはアブラハムから何を学ぶべきでしょうか。もちろん、百歳で息子を持つことではなく、彼の信仰です。神が言われるとおりに受け入れることです。

    ガラテヤ39節「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」

    新約時代の私たちは何を信じればよいのでしょうか?どのような祝福を受けるのでしょうか?それは、アブラハムの信仰にならうことです。たとえば、神は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハ3:16)」と約束されました。また、「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にある(30:14)」と約束されました。

    私たちが神の約束された「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる(ローマ10:10)」ことを信じるならば、それはアブラハムの信仰にならうことです。アブラハムは神がおっしゃることをそのまま信じました。今日、私たちも神が聖書を通して語られるみことばを信じるなら、義と認められるのです。

 

8信仰によって義と認められる祝福には、どんなことがありますか?(ローマ5:6-11

ローマ56-11節「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」

    ここで、私たちは、義と認められることについて三つの祝福があることがわかります。第一に、イエスの血によって義と認められ、神と和解し、神の怒りから救われます。第二に、それだけでなく、イエス・キリストが生きることによって私たちは救われます。つまりイエス・キリストの復活によって、私たちは神の国の人となり、神の子供と呼ばれ、罪人の側から義人の側へと身分を移し変えられました・・・・・・。第三に、私たちはイエス・キリストによって神を喜びます!私たちは義と認められた義人です。いつも、主を私たちの前に置き、平安と喜びに満たされ、神を喜ぶ生活をすることができるのです。

主が私たちを生かしてくださり、いのちを得させただけでなく、罪人の側から義人の側に移し変えてくださったことを感謝しましょう。義となれない私たち、また、自分の力によって義人にはなれない私たちですが、律法によらす、行ないによらず、神はその義をすべての信じる人にお与えになりました。これが、「信仰によって義と認められる」ということです。「信仰によって義と認められる」ことは、今日だけのことではありません。アブラハムや旧約の先人たちも、神の約束を信じて、「信仰によって義と認められた」のです。同様に、今日私たちも神の約束を受け入れるなら、神は私たちを義と認められ、私たちを義とされるのです。

祈りましょう:主よ、罪過と罪の中で死んでいた私たちを、もう一度生かしてくださったことに心から感謝します!主よ、イエス・キリストが十字架の上で完成された「死からいのちに移る」救いによって、私たちはいのちを得ただけでなく、罪人の側から義人の側へと身分を変えられ、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の義が私たちの上に与えられました。イエスを賛美し、すべての栄光を主に帰します!願わくは、ご聖霊の啓示がいつも私たちの上にあり、この真理を私たちのうちに置いてくださり、信仰が増し加えられますように。どうか、私たちの祈りを聞いてください。主の御名によって祈ります。アーメン!


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