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二、神によって生かされる(エペソ2:1、5)

 

4、彼らの中から出て来なさい

 

私たちはみな自分の罪過と罪との中に死んでいた者でした。しかし、神は私たちを愛して、御子をこの世に送ってくださり、救いを完成されました。すべてイエスを信じる人、つまり罪過の中で死んでいた人を生かしてくださったのです。主に感謝しましょう。

これまでお話したように、主イエス・キリストが死からいのちに移る救いを完成されたのは、神の恵みです。しかしそれと同時に、信仰によって、私たちは主とともに死に、ともに葬られ、ともによみがえり、死からいのちへ移ったのです。また、アダムからキリストのうちへと移りました。罪過の中に死んでいた私たちは、すでに生き返り、新しいいのちを得ました。そして、本来は罪人の身分でしたが、イエス・キリストの贖いによって義人となり、信仰によって義とされました。かつて悪魔の支配下にあった私たちは、イエスキリストの贖いにより、御子の国へと移ることができたのです。

「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ22-3)」これは、自分の罪過と罪の中に死んでいた私たちは、サタンの支配下におり、悪魔の国にいたという意味です。この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者に従っていました。空中の支配者とは誰のことですか?それはサタンです。「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」のことです。悪魔は空中の支配者であるだけでなく、人の心の中にも働いて、肉の欲望や自分の心の思うままに行なうようにさせました。しかし、私たちはすでに救われ、サタンの支配下から御子の国へと移されたのですから、以前、悪魔の支配下で従っていたこの世の流れや心の思い等すべてに終止符を打ち、そこから出て来なければなりません。

祈りましょう。

主よ、感謝します。あなたがこんなに私たちを愛し、私たちを救うために人となって、この地上に来られたことを感謝します。私たちのために救いを完成し、サタンの支配から御子の国へと移してくださいました。主よ、今日、私たちはともにこれらのことを考えます。サタンの支配下にいる時、私たちは多くの好き勝手な思いの中で生きていました。願わくはご聖霊により、何が自分の心の望むままのことで、また何がこの世の流れに従うことなのかを教えてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン!

 

皆さん、私たちは、主イエス・キリストのゴルゴダでの勝利をはっきりと理解しなければなりません。なぜなら、今日悪魔に打ち勝つのは私たちではなく、私たちとつながる主イエスだからです。イエスが勝利を取られたので、私たちがイエスとつながるなら、私たちも勝利できるのです。このことは、これからの学びの内容と深く関わりがあります。時々私たちはわけもなく悪魔を怖がり、恐れます。私たちは次のことをよく理解しなければなりません。主イエスはゴルゴダで悪魔の武装を解除し公に辱め、また、死によって悪魔の領域に入り、悪魔に打ち勝ちました。ですから、悪魔は私たちの死をつかさどる権利を持つことができなくなったのです。

主イエスは死からよみがえられたとき、このように言われました。「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。(1:18)」ハレルヤ、主に感謝します!主イエスは死とハデスとのかぎを持っておられます。聖書にこのように書いてあります。「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。(116:15)」これは、すべてイエスを信じる人に対しては、悪魔はもはや死の権威を持つことができず、すべて主イエスの御手の中にあることを意味します。主イエス・キリストは十字架の上で悪魔に打ち勝っただけでなく、死によりハデスにくだって悪魔を打ち負かし、復活して天に昇られました。悪魔は空中の支配者であり、旧約聖書のダニエル書10章には、天使長のミカエルがペルシアの王たちに留められたとありますが、しかし、悪魔はイエスが天に昇ることを阻止することはできませんでした。なぜなら、主イエスは大いなる勝利を収められ、天と地のすべての権威が復活の主イエスの御手にあるからです。皆さん、この課の学びにおいて、主イエスの勝利について理解することができ、私たちは勝利されたイエスとつながれているというポイントをしっかりととらえることができますように。

Ⅱコリント614-71節「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとべリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」

この聖句から、私たちが救われて新生した後の状態とくらべてみてください。私たちの多くは、かつて偶像礼拝をしていたと思います。私たちが救われて新生した後、教会や兄弟姉妹たちは、イエスを信じたなら、真の神と相反する偶像(偽りの神)や偶像と関わりのある位牌、祭壇、お守り、飾りなどすべての物を捨てるよう勧めます。これは、正しいことであり、必要なことです。

本当に恥ずかしいことですが、私は伝道者として長年勤めていながらこの真理を理解できていませんでした。2005年のある特別集会で初めてこの真理がわかったのです。私たちは外側の目に見える悪魔と関わるすべての物を捨てるだけでなく、心の内側もきよめられなければなりません。この聖書箇所には、不信仰の人と交わってはならないと書いてあるのではありません。神を信じた私たちの心の中に信仰と不信仰の二つの状態があることを語っているのです。私たちはすでにイエスを信じましたが、往々にして心の中にまだ不信仰の悪い心があるでしょう。その不信仰の心を取り除いてくださいと、主に求める必要があるのです。

1、私たちは「罪過と罪との中に死んでいた」時、どのような支配のもとで生活していたのでしょうか? それは具体的にはどういうことでしょうか?(エペソ22-3

私たちが「自分の罪過と罪との中に死んでいた」とは、空中の権威を持つ支配者、つまり悪魔の支配下で生活していたことです。それはどういうことでしょうか?私たちは、この世の流れに従い、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行って、ほかの人達と同じように生きていました。生活の目標は世の人々と同じで、人々の目標が自分の目標でした。一方、ある人たちは肉の欲にしたがい、好き勝手に自分のやりたいことをやり、心の望むままを行い、伝統的な考えに反して人と違うことをやりたがります。では一体誰が私たちの主なのでしょうか?私たちはあまり気づきませんが、実際は、悪霊が私たちの内側をコントロールし、自己中心を目標にさせているのです。

2、救われた後、誰が私たちの主となるのでしょうか?

心で信じ、口で告白し、主イエス・キリストは私たちの主であり、私たちのいのちの主であると認めるなら、私たちは救われて生まれ変わり、主イエスが私たちのいのちの主となられます。主をまだ信じていない時、救われる前は、誰が私たちの主だったでしょうか? この世の流れが私たちの主だったかもしれません。また、私たちの内にある、好き勝手な自己中心が主だったかもしれません。実際のところは、私たち自身が自分の主なのではなく、悪魔が悪霊を用い、私たちの罪の性質によって主となっていたのです。

3、Ⅱコリント614-71節の箇所をどのように受けとめますか?

1)私たちの内にどんな不義があるでしょうか? また、どのような暗やみがあるでしょうか?(エペ425-514

Ⅱコリント6章の中に、正義と不法、また光と暗やみについて語られています。私たちが救われて新生する前は不義の状態であり、多くの正しくないことを行なっていました。しかし、今はどうでしょうか? キリストによって義とされ、信仰によってキリストとつながり、キリストが私たちの義、私たちのいのちとなられたのですから、私たちの内側は義であるはずですし、すべての不義を捨て去るべきです。光と暗やみについて言いますと、キリストは光であり、イエス・キリストのいのちは光ですから、私たちは暗やみの中に生きていいわけがありません。「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』(エペ425-514)」これらの聖句から、私たちは義とは何か、不義とは何か、暗やみとは何か、光とは何かをある程度知ることができます。不義とは、神に喜ばれないことです。暗やみと光は、ここに書かれてあるとおり、特に隠されていることについて指しています。

(2)私たちはかつて悪魔や偶像との関わりがなかったでしょうか? 

皆さん、「全世界(すべての国)は悪い者の支配下にあります(Ⅰヨハネ519)」。主を信じる前、私たちはみな悪魔の支配下で生きていました。ですから、過去において私たちは何らかの形で悪魔と偶像とに関わっていました。例えば、偶像崇拝、霊媒師に病気を見てもらったり、家を買うために風水を見たり、いろんな占いをしたり、人相で金運、恋愛運、そして寿命、運勢を見たり等、いろいろとあったのではないでしょうか。

3)上記の事柄に関して、神は信仰をもった私たちにどのように命令されていますか?

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとべリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』(Ⅱコリント6:14-18)」

これらの聖句は、私たちにはっきりと語っています。私たちはすでに主を信じたのですから、もはや内側にある不信仰な物、暗やみの物、不義のもの等と再び関わらずに、私たちの内から排除すべきです。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。(15)」 主を信じた後、私たちの内側にイエスがおられ、また同時に悪魔もいていいのでしょうか?過去に霊媒師によって悪霊を追い出したり、霊媒師に病気を見てもらったり、占いをしたりしたこと等があるかもしれません。しかし、今、私たちの内側は、イエスが主であり、完全にイエスに支配されるべきです。これらの悪霊的なものの影響を受け入れてはなりません。「信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」過去の多くの出来事は信仰を持つ前に行なったことですが、今、私たちは主を信じているので、過去の事と何か関わりがあるでしょうか?「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。 私たちは生ける神の宮なのです。(16)」そうです。今、主イエスは私たちのうちに住んでおられ、私たちは神の宮です。いかなる偶像と関わる物をも内側に置いてはなりません。私たちに対する神のご命令は次の通りです。「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れる。(17)」「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(71)

皆さん、主を信じる前、私たちの内側には多くの暗やみ、不義、不信仰、悪魔との関わり、また偶像との関わりがありました。主を信じた後、外側の見える物をすべて捨て去り、また、これらの事を一切行なわないようになりました。しかし、これらの事を「再度行なわない」ことと「きよめる」こととは同じではありません。

私自身の例をお話ししましょう。2005年のある集会で、神は私に20数年前のある伝道者の不適切な言葉を思い出させました。この20年来、その言葉は時々私の中によみがえり、1、2年に一度、または2、3年に一度思い出すのです。毎回思い出す度に私は無視していました。それを思い起こしても意味がないからです。しかし、私が考えようとしなくても、それはまだ私のうちにあり、思い出してしまうのです。特に、誰かが彼のことを本当に主を愛する人だ、と言って褒めているとき、私の内側はつぶやきます。「あんな言葉を言いながら、愛があるわけがない。」と。その人に対する不満がすでに私のうちで根をはり、苦い思いとなってしまっていました。そのことを考えることはなくても、やはり自分の内にあるのです。これは、きよめられた状態とは完全に違います。

さらに、私たちの心を一つの部屋にたとえて例を挙げましょう。以前は悪魔がその部屋の主人でした。悪魔はそこに、たくさんのゴミを積みあげました。しかし、今は、主人が変わり、悪魔の敵であるキリストとなられました。悪魔のものであるごみを出し、きれいに掃除すべきではないでしょうか?

以前に私たちは、外面的なもの、つまり目に見える仏像や観音、お守りなどを取り除くことを強調しました。もちろん、それもとても大切ですが、悪魔の支配は外面的なものだけでなく、私たちの心と思い(霊性)にも影響しています。そのため、神はこのように命令しています。「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ(Ⅱコリ6:17)」と。また、私たちはそれらを追い出し、完全に自分の中から出さなければなりません。「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(コリ7:1)」「きよめる」ということは、考えなかったり、無視したりする意味ではありません。考えなくても、無視しても、ゴミはまだそこにあるのです。きよめられなければなりません。

2005年に神が私に示し、そして憐れみ、苦い思いから解放してくださった時に、私は初めて大掃除の大切さがわかりました。恥ずかしながら、神がすでにお命じになっており、また歴代の聖徒たちも「過去のことを終わらせる」ことをいち早く重んじていたのに、私は今になってやっと「大掃除」の大切さがわかったのです。

4)聖潔と清潔との違いは何でしょうか?                           

「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(Ⅱコリント7章1節)」

聖きを全うするとは、聖くなる(聖化)ということです。汚れを取り除くことが清潔です。清潔であることを土台として、聖霊の導きに従って、神が私たちにするように望んでおられることを行なうこと、それが聖潔です。私たちはよくこのように考えます。「この事をしても、罪を犯すのではないから間違いではありません。」皆さん、罪を犯さないことは清潔であるだけです。聖さこそが神に喜ばれることであり、神が私たちにするように望んでおられることをそのまま行なうべきなのです。

例えば、誰かがあなたをののしっても怒らなければ罪を犯していません。心でその事を考えず、話さなければ、それは清潔です。しかし、聖潔とは何でしょうか? 神があなたにそれでも人の徳を高める言葉を話すよう求める時に、「わかりました、主よ、すべてが恵みですから感謝します。主よ、ありがとうございます!」と、その導きに従うことです。これこそが聖潔です。

以前徐さんのことをお話ししましたが、ある兄弟が徐さんを教会へ連れていくのを忘れた時、彼は怒りませんでした。怒らないことは清潔であることですが、徐さんは更にまた、「イエス様を賛美します。イエス様を賛美します。神様が彼に忘れさせたのです。私の兄弟はいい兄弟です。主に感謝します!」と言ったのです。これは清潔であるにとどまらず、聖潔です。なぜなら、徐さんは主の導きに従い、主の御名を崇めているからです。

では、どのように大掃除をすればよいでしょうか。また、何を掃除するのでしょうか。

4、もし、上記のこと(暗やみとの関わり)が私たちのうちに留まり続けるなら、どうなるのでしょうか?

「悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:7」神は私たちにこれらのことを取り除くように願っておられます。しかし、もしこれらが私たちのうちに留まっているなら、悪魔に機会を与えてしまい、悪魔がそれを用いて私たちの中で働くようになります。皆さん、私は各地のさまざまな集会で、たくさんの人がうつ病にかかり、とても落ち込んでいることに気付きました。これらの人たちの多くは主を信じる前に悪霊と関わっており、悪魔に機会を与えています。霊媒師の悪霊払いは、強い悪霊が弱い悪霊を追い払い、悪霊の力によって行なわれているのです。もし、この霊媒師が主を信じたなら、霊媒の仕事はやめるでしょうが、その悪霊はまだその人の中に潜んでいます。ですから、この人は必ず「霊媒をする悪霊払いの霊よ、私から出ていけ!」と宣言しなければなりません。そうすれば、完全に断ち切られます。さもなければ、その霊はまだ内側にとどまっているのです。

ある伝道者の姉妹は、ある時、ひとりの人の悪霊払いをしました。すると、その悪霊が彼女自身に乗り移ったのです。私は彼女にこう尋ねました。「悪霊払いをして、その悪霊が自分につくのは、これはあくまでも引き金にすぎません。根本的な原因は、あなたが悪魔に機会を与えていることだと思います。過去に占い等をしたことはなかったですか?」彼女は答えました。「今もしています。」それで、私はこのように言いました。「それが悪魔に機会を与えていることです。悪霊と関わりがあるのです。キリストとベリアル、神の宮と偶像とは調和も一致もありません。もし、あなたがこれらの事を今日追い出さなければ、悪霊はあなたの内に居座ります。あなたが悪魔に機会を与え、悪魔のすみかとなっているようなものなのです。悪魔が機会を得て、あなた自身についたのは、あなたがまだ悪魔と関わっていて、占いをしているからです。

別の姉妹はこのように聞きました。「なぜ毎回奉仕に出かける時に、息子がいつも発熱するのでしょうか?」ある人がこう答えました。「悪魔に機会を与えているかどうかを見てみましょう。もちろん私は発熱がいつも悪霊と関わりがあるとは言いません。たまに一回だけなら関係ないと思いますが、毎回出かける時に発熱するとは、何か問題があります。もし、きよめなければ、悪魔に機会を与えてしまうでしょう。」聖書に書いてあるとおり、すべての無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり(エペ4:31)等もすべて悪魔に機会を与えるため、私たちの内から追い出さなければなりません。

また、ある姉妹が他の人とけんかをした後、悪魔に支配されました。彼女はどうしてこうなってしまったのかわからなかったのですが、彼女の心の中は苦い思いで一杯で、それが悪魔に機会を与えていたのでした。また悪魔は「理由のない恐れ」を私たちの内に置くこともあります。わけもなく「暗やみ」を恐れたり、「虫」を怖がったりする等です。私がわけもなく死んだねずみを怖がるようにです。これも悪魔に機会を与えています。これらの「恐れ」を取り除かなければなりません。悪魔に機会を与えてはなりません。悪魔はこの世の習わしをも利用して自分の足場にします。例えば、まぶたがぴくぴく動くと不吉な事が起こり、カラスが鳴くと人が死ぬ等の言い伝えなどです。これらを私たちが気にすることで悪魔に隙を与えることになります。

申命記189-14節「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、主は、そうすることを許されない。」

私たちが悪魔の支配から御子の国に移された後、再びこれらを行なうことを神は厳しく禁じられます。ですから、私たちは悪魔と完全に決別しなければなりません。くれぐれも注意して、外側の見える物だけでなく、内側にあるものをも取り除かなければなりません。

ある姉妹は主を信じてから、迷信に関することを自分では一切行なわないと決意しました。しかし、人から聞かれると、どのようにすればよいのか詳しく教えていたのです。彼女はクリスチャンがこれらのことを行なわないことを知っていますが、これらのものと決別すべきことを理解していませんでした。それらを行なわないだけでなく、心の内側からすべて取り除かなければならないのです。

5、イエスを信じた後、上記のことを再び行なわず考えないことと、取り除くこととの違いはどこにあるのでしょうか? 

すでに上記で述べましたが、私たちが主を信じた人々に偶像を拝まないように勧めれば、皆しなくなると思います。しかし、拝まないだけでは足りません。心と思いからも取り除かなければならないのです。過去に行なったことを、聖霊に示されるまま、ひとつひとつ固い信仰と決心をもってこう宣言してください。「断ち切ります!断ち切ります!イエスの血によって勝利し、完全に断ち切ります。」例えば、心の内側に苦い思いがあるなら、それを考えないだけではだめです。考えないことと取り除くこととは違います。考えないという態度は、ゴミがまだ部屋のすみにあることで、取り除くとはゴミを外に捨てることです。

皆さん、私たちは救われて新生し、キリストがすでに私たちを罪の束縛から解放してくださり、すでにキリストにつぎ合わされて、主のものとなりました。キリストは私たちのいのちの主です。悪魔と関わるすべてのものを自分の内側から取り除くことは、私たちに権利があります。もし、イエスを個人的ないのちの主として受け入れるなら、これらの物との関係を完全に断ち切るべきです。私たちがこれらの物を追い出す決心をする時、自分の力で取り除くのではなく、聖霊が私たちを助けて取り除かせてくださるのです。

例えば、誰かを憎んでいるとします。あなたは、「主よ、考えたくありません。私に愛を与えてください。」と祈りますが、すでに悪魔を受け入れ、機会を与えているため、このような祈りには良い効果がありません。聖霊の導きにより、このように祈ることができますように。「主よ、この姉妹を憎みたくありません。姉妹を憎む思いを私の内側から追い出します。取り除きます。主の血潮の勝利により、完全に断ち切ります。」アンドリュー・マーレイはこのように言いました。「罪を認める時は、必ず罪をあけ渡す決心をするべきです。できる、できないはあなたの問題ではなく、それは神がなさることです。あなたがすべきことは決心なのです。」

6、大掃除とは:主が私たちに確かな信仰を与えられ、主イエス・キリストに従い、イエスをいのちの主であると認めることができることを感謝します。「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。(Ⅱコリ6:17)」この「彼らの中から出て行き、彼らと分離する」ことを私たちは大掃除とよびます。

1)どのようにして、聖さを求める心を献げたらよいのでしょうか?

私たちがきよめられるために、まず、第一に心の思いが大切です。あなたはこう望みますか。「主よ、私はきよくなりたいです。私の体と心のすべての汚れが取り除かれて、神を敬うようになり、聖くなりたいのです。」と、ただ願うだけでよいのです。他に何かをする必要はありません。ただ、きよめられたいと願う心を次のような祈りによって神にお献げしましょう(神の救いは、恵みと信仰によります。信仰とは主の御名を呼び求めることです)。「主よ、私の内側の汚れがすべて取り除かれることを切に望みます。聖霊様、私の内に働いて、私に示してください。すべての汚れを私の内側から追い出します。すべて取り除きます。主の血潮の勝利によって、完全に断ち切ります。」

2詩篇13923-24節の聖句や他の聖句、賛美の歌をもって、神が私たちの内側を照らしてくださるように求めましょう。

次の賛美を歌いましょう。「神よ。私を探り、心を知ってください。私のなかに、傷ついたところがあるかないかを見て導きたまえ、とこしえの義の道に。」心を静め、心からこの歌を歌い(もしご存知でなければ、歌詞を読みながら)、このように祈りましょう。「主よ、どうか私の心と体のすべての汚れを取り除いてください。神を敬い聖くなれるように助けてください。」このように神の御前で静かにゆっくりと祈るなら、聖霊が私たちの心を照らしてくださり、悪魔に機会を与えた事柄を私たちに示してくださいます。もし、子どもの頃、両親とお寺に行ったことを思い起こしたなら、はっきりと、「これらのことを私の内側から追い出します。取り除きます。主の血潮の勝利によって、完全に断ち切ります。」とだけ宣言すればよいのです。たくさんのことばを付け加える必要はありません。もし、誰かが行なった悪い事を思い出し、その人に対して苦い思いがあるならば、それも同じように取り除くことを宣言しましょう。聖霊の示しにより思い出した事柄すべてを断ち切ればよいのです。ぜひ、常に大掃除をしてください。聖霊が具体的に示されたことを他人に話す必要はありません。証をしたいと思われるなら、それはあなたの判断におまかせします。要は、神の御前に静まって祈り、聖霊の示しにより思い出した事に対してこう宣言するのです。「追い出します。取り除きます。主の血潮の勝利によって、完全に断ち切ります。

3)聖霊に示され、何か不義や、暗やみ、または偶像との関わりを思い出したなら、どのように祈り、また宣言すればよいでしょうか?

とても大切なことですが、もし、聖霊の示しにより、何か不義、暗やみ、または偶像との関わりを思い出したなら、一つずつ告白してください。全部まとめて、このように祈らないでください。「主よ、私は罪人です。どうぞ、私のすべての罪を赦してください。すべての罪を取り除いてください。」これは大掃除ではなく、理論です。大掃除のことについて教えてくださった兄弟が次のように言ったのですが、これはとても大切なことだと思います。もし、私たちが一つずつ宣言しないなら、何が暗やみで、何が不義なのか、また何が悪魔に関することなのかわかりません。すると問題がどこから起こったのかがわからなくなり、何が悪魔に機会を与えたのかもわかりません。聖霊の示しには、神ご自身の時と方法があります。今日祈っても、神は一つか二つしか示されないかもしれませんが、それでもかまいません。もしかすると、教会から家へ帰る途中で突然、○○さんがあなたに悪いことをした、と示されるかもしれません。主に感謝しつつ、その時に取り除けばいいのです。例えば、嫁姑関係で思い煩う姉妹によく出会います。今回はこんな理由で、前回はあんな理由でとありますが、すべてをはっきりと明らかにするのが一番いいのです(他人に話す必要はありません)。それらが明らかになった時にすぐ祈ります。「これらのことを私の内側から追い出します。完全に取り除きます。主の血潮の勝利によって、完全に断ち切ります。主を賛美し、栄光を主に帰します。」くれぐれもすべてをまとめて処理しないでください。聖霊の示されるとおりに、一つずつ取り除くようにしましょう。

4)注意してください。主イエスが祈りについて特に強調されていることは、「もし・・・、思い出したなら・・・そうしなさいマタ5:23)」ということです。「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし・・・思い出したなら・・・そうしなさい。(マタ5:23-24)」これは、罪の告白は聖霊に示されて「もし、思い出したなら」するということです。つまり、示されれば罪を認め、もし、示しがなければ、無理に罪を認めなくてよいのです。「もし、思い出したなら」はっきりと「追い出します。取り除きます。主の血潮の勝利によって、完全に断ち切ります。」と宣言しましょう。これは、私たちの内側の悪魔の住みか(足がかり)を取り除くことですが、罪を無理に堀り出さないでください。しっかりと、追い出します、取り除きますと宣言すれば、解放されるのです。

もし、悪魔が再び同じ思いを用いて邪魔をしに来たなら、無視をしましょう(賛美をしたり次のような聖句を暗誦してください。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」等、どんな聖句でもいいですから暗誦して、悪魔とその邪魔を気にせずに無視しましょう)。ある人は悪魔のことを理解せず、イエスがすでに悪魔に打ち勝ったこともわかっていないので、祈る時に暗闇の影響が及ぶと恐れてしまい、祈りをやめてしまいます。これはイエスの勝利を理解していないからです。イエスを崇めれば、悪魔はすぐに逃げてしまいます。悪魔は私たちがイエスとつながっていることを理解しているかどうかを試してくるのです。

皆さん、きれいに大掃除をすれば、私たちは解放されるのです。もし、いつも悲しかったり、苦い思いまたは不平不満、思い煩い、憤り、恨み等の思いがあるなら、主に解放してくださるよう祈りましょう。私たちがきっぱりと、きよめられたいという心を捧げるなら、これらのものが取り除かれ、悪魔に機会を与えることはありません。私たちをサタンの支配下から御子の国へ移してくださった主に感謝します。願わくは、外側のきよめだけではなく、内側の心と思いをも大掃除でき、「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(Ⅱコリ7:1)

祈りましょう。主よ、私たちを召してくださり感謝します。「彼らの中から出て行きなさい」とおっしゃるように、主よ、私もその通りにいたします。不法の中から、暗やみの中から、悪魔との関わりの中から出て行くことができますように。霊肉のすべての汚れを取り除き、神を敬い、聖められることを切に願います。ハレルヤ!主を賛美します。主イエス・キリストの勝利の御名によって祈ります。アーメン

 


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