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二、神によって生かされる(エペソ2:1、5)

 

5、主を信じた時の素晴らしい変化

 

祈りましょう:主よ、私たちの上に成就された救いについて学ぶ機会を与えてくださり、感謝します。また私たちへのご計画と目的を感謝します。願わくは、ご聖霊が引き続き私たちをすべての真理へと導いてくださり、義人の道があけぼのの光のようであり、いよいよ輝きを増して真昼となることをお示しください(箴4:18)。感謝しつつ、イエスの御名によって祈ります。アーメン!

神の恵みを感謝します。神はひとり子を人としてこの世に送られ、そして救いを完成し、罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。では、主を信じた時、私たちの中でどのような素晴らしい変化が起こったのでしょうか? 救われて新生したその日、喜びで満たされ、本当にすばらしかったと、どれほど多くの兄弟姉妹たちが証していることでしょう。主を信じる前は、人生の目標がなく、生活にも目標がなく、心の中に言葉にならない虚しさと不満があり、何か物足りなく感じていました。しかし、主を信じると、キリストにつぎ合わされて、永遠の神との関係を回復し、いのちの中に大きな変化が起こります。神の子どもとなり新しいいのちを得て心が満たされ、本当に感謝の思いでいっぱいになるのです。

ローマ5章12-21節「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」

1、キリストにつぎ合わされるとはどういうことでしょうか? キリストとつぎ合わされた結果は何でしょうか? 私たちはどうすれば「自我」に死ぬことができるのでしょうか? (1)キリストにつぎ合わされるとはどういうことでしょうか?

「イエスを信じる」とはどういう意味でしょうか?イエスを信じるとは、「恵みのゆえに」、すでに神が用意された救いを「信仰によって」受け取り、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れることです。イエス・キリストを私たちの救い主として受け入れた時、私たちはキリストとつぎ合わされ、神は私たちをキリストのうちに入れてくださいます。ではキリストを信じると、どうしてすぐにキリストのうちにあるようになるのでしょうか?私はどのようにキリストとつぎ合わされたのでしょうか?

これは神によって私たちのうちでなされたことで、私たちが何かしたのではありません。「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(Ⅰコリ1:30)」「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ロマ6:1-5)」これらの聖句は、洗礼をもって私たちがキリストとつぎ合わされる事実を示しています。

(2)外面上の信仰生活は、本当に「主につぎ合わされている」ことを表しているとは限りません。 キリストと関係を持つには、真剣に心の扉を開き、キリストを救い主として受け入れなければなりません。表面上の敬虔な信仰生活は、救われていることを意味するとは限らないのです。多くの親たちは自分の子どもにイエスを信じてほしいのです(またそうであるべきです)が、「お祈りしましたか?聖書を読みましたか?礼拝に行きましたか?」と、たいてい外側の形式だけを重んじて、子どもの心が開かれているかどうかにはあまり注目していません。子どもが親と一緒に祈っても、心を開いているとは限らないのです。私も子どもの頃、祖母と一緒に数え切れないほど祈りましたが、主と個人的な関係を持っていたわけではありませんでした。

(3)キリストとつぎ合わされることの結果は何でしょうか?

主イエスは言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハ15:5)」キリストとつぎ合わされるとは、枝がぶどうの木につながっているのと同じです。主イエスはぶどうの木で、私たちは枝です。イエスは私たちのいのちの源です。皆さん、私たちはどんなに多くの実を結びたいと願うことでしょうか。実をたくさん結びたいのなら、キリストにしっかりとつながらなければなりません。しっかりとつながればつながるほど多くの実を結びます。イエスを信じた時から、キリストとつぎ合わされ、イエスと永遠につながる関係に入ります。しかし、その関係が親密かどうかが、私たちのいのちの成長にそのまま影響をあたえるのです。

(4)いかにして「自我」に死ぬことができるでしょうか?

どのようにすれば「自我」に死ぬことができるでしょうか?たくさんの人はこう嘆いています。「まったく、この『自我』がいやだ。どうしてこの『自我』は死なないんだ?!」神は私たちに自分の力で「自我」に死ぬようにとはおっしゃっていません。むしろ、主の御名を呼び求めることにより、つまり「キリストにつぎ合わされる」ことにより、主とともに死に、ともに葬られるのです。それは主とともに死ぬことによってのみ「自我」に死ぬことができるからです。

私たちがはじめて心から主の御名を呼び求めて救われた時、「罪過と罪との中に死んでいた」私たちは生きかえりました(新しいいのちを持って生まれた幼子となりました)。これは「わたしが主とともに死に、ともに生きた」からです。霊的ないのちの成長の過程は、常に死ぬということです。では、どのように死ぬのでしょうか?それは、やはり主の御名を呼び求め、「キリストにつぎ合わされ」、しっかりとつながれて、キリストとともに死に、ともに葬られ、ともに生き返ることを通してなのです(こうして新しいいのちが成長していきます)。

2、この世の人たちが「罪過と罪との中に死んでいる」とは、まとめるとどういうことなのでしょうか?

最初の人アダムは神への不従順のゆえに、古い人の頭(第一の人)となりました。そのため、罪の性質が世界に入り、人類を支配して古い人、罪人にし、神との関係を断ち切り、罪の行ないにより心が神と敵対するようになりました。

主を信じる前、私たちは唯一の真の神を知らず、求めもせず、神と敵対していました。生活の目標がなく、海の上で漂う小船のように、風に吹かれて流されるままでした。しばしば「どうにもできない」感じがし、良いことをしたくてもできません。また物事はいつも願うように進まず、自分の将来も定まらず、私たちの生活には方向性がありませんでした。このような「罪過と罪との中に死んでいる」状況を個人から家庭、そして国までの視点でまとめて見てみましょう。

 

(1) イエスを信じる前にはみな古い人である。

図一でお話ししたように、アダムは罪を犯し、罪の性質に支配されて古い人となりました。それは子孫にも及び、人はみな罪の性質に支配されていて古い人なのです。

(2) 古い人は罪の性質に支配された奴隷であり、罪に対して生き、神に対しては死んでいる。

古い人は罪の性質に支配された奴隷であるゆえに、罪に対して生き、罪がその主となり、神との関係においては死んでいるのです。

(3) 律法の下に生きている。

「律法の下」とは何でしょうか? それは自分の努力に頼り、できるだけ良いことをし、ある程度までの要求に達することです(良心による行ないも含みます)。しかし、私たちは罪の性質に支配されているため、罪を犯さずにいられません(最大の罪とは何でしょうか。それは自己中心です)。表面的には良いことをしても、内的には全くできません。ですから、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。(ガラ3:10)」のです。

(4) 肉に従って歩む

罪の性質に支配された人は、いつも「私」の中で生きています。「自分に頼って」生きることは、「肉に従って歩む(ロマ8:4)」ことです。主を信じる前、すべての人は自分に頼っていましたから、肉に従って歩んでいたのです。

(5) 神の家から遠く離れた放蕩息子

神の家から見て、放蕩息子とは何でしょうか?放蕩息子とは、明日の保証がなく自分の将来を把握できない状態にある人です。実際に、私たちはみな家庭があるとは言っても、生活に基盤がなく、方向性もなく、価値もありません。もし価値があるとしても、自分の家庭に対してだけでしょう。よく考えてみると、私たちも放蕩息子のようではありませんか?明日がどうなるか保証できるでしょうか?食べられることを保証できるでしょうか?病気しないことを保証できるでしょうか?保証することはできないでしょう。放蕩息子には何ひとつ把握できず、確実に生きることができないのです。

(6) 神の家から離れた人

神と関係がなく、神の家族ではありません。

(7) 悪の支配下、サタンの暗やみの勢力の下にある人

全世界のすべての人(どんな国でも)はイエスを信じる前には、悪魔の支配下にいます。

それゆえ、私たちは主を信じる前には、誰一人として自分の力で神の御前に出ることができないのです。

3、「私たちを生かしてくださった」ことを含め、主を信じた時の素晴らしい変化とはどのようなものでしょうか?

罪過と罪の中に死んでいた私たちを生かしてくださった神を賛美します。アダムからキリストのうちへと移ったキリストにある状態とはどのようでしょうか? 

最後のアダムであるイエスキリストは、従うことによって、新しい人の頭である第二の人となりました。それゆえに、主を信じる者(すべて主の御名を呼び求める者)はキリストとつぎ合わされ、信仰によって義と認められます。キリストの血潮により罪が聖められ、神と和解することができます。また、主とともに死ぬことにより、罪の支配から解放され、主とともに生きることにより、新しい人とされて、神の御前に行くことができるようになります。主イエス・キリストが十字架の上で救いを完成されたことを感謝します! 私たちは信仰により、ともに死に、ともに葬られ、ともに復活するのです。

死ぬことだけが私たちをサタンの支配から抜け出させ、罪の支配から解放します。この事をくり返し強調していきますが、聖霊が続けて私たちのうちで語って下さいますように。 死ぬことによって「死からいのちに移る」のです。私たちは信仰によってすでに死からいのちに移されていますが、更に絶えず信じ続け、日々自我に死に、その身分だけでなく実際の生活においても死からいのちに移り続けるなら、新しいいのちは徐々に成長していくことができます。ここで、主を信じた時の素晴らしい変化をまとめてみたいと思います。

(1) 古い人から新しい人へ。

かつて私たちは古い人であり、罪の性質に支配されていました。しかし、主の御名を呼び求めた時、主とつながり、主とともに死に、古い人が主とともに十字架につけられて死にました。そして主とともに生き、今生きているのは私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる新しい人(新しいいのち)となりました。

(2) 罪に支配された奴隷、罪に生きる状態から、主の人、義人となり、神に生き、主のものとなる。

「古い人」とは罪の性質に支配された「私」です。私たちは主の御名を呼び求めて主とつながり、古い人が主とともに十字架につけられて死んだので、「私」が解放されました。「私」が解放された瞬間、 キリストとつなぎ合わされ、罪に対して死に、神に対して生き、主とともに生きるようになります。心 から主の御名を呼び求め、新しいいのちを得て新しい人となるのは、瞬間的な出来事です(もちろん、神 の側では、これまで身ごもりの期間のように長い準備をしていて下さったのですが)。霊的いのちの成長 の歩みは、いつも主とともに死に、罪に対して死に、主とともに生き、神に対して生きることです。この歩みを一生続けていくのです。

(3) 律法の下に生きる状態から恵みの下へ。

私たちは主を信じる前には、「律法の下に」いて、自分の努力で物事を行なっていました。しかし今はすでに主とともに死に、私たちを捕らえていた律法に対して死にました。律法から解放されたので、もう律法の下にはおらず、古い文字にはよらずに主に仕えます。

特に、神に喜ばれる者になりたいと願っておられる皆さんにお話したいのですが、一番難しい問題は律法の問題で、それは私たちが常にある基準によって人(自分または他人)を評価してしまうことが原因なのです。私たちは主とともに「自分を捕らえていた律法に対して死んだ」のですから、もはや律法の下にはなく、自分の努力によって律法の要求を全うする必要がないし、またそうしてはならないのです。主とともに自由の律法(ヤコ1:25)の中に生き、恵みの下で、新しく変えられた心と霊とによって主に仕えるべきなのです。

神は私たちが律法に対して死ぬことを救いとして用意してくださり、主イエスもまた新しい律法、つまり人を自由にする律法を与えてくださいました。ですから、もはや自分の力で律法の要求を守る必要がなく、聖霊が私たち個人の状況に応じて心の中で導いて下さることに従うのです。聖霊の大いなる力による導きによって、私たちは徐々に律法の要求に達していきます。

もう一度言いますが、「律法の下」とは何でしょうか? それは自分の努力で神の要求に達しようとすることです。「律法の下にはなく(ロマ6:14)」とは、すでに主とともに死んで、自分の努力によらずに律法の要求に達することです。主とともに生きることとは、神の恵みにより頼み、一歩一歩律法の要求に達していくことなのです。

(4) 肉に従って歩むのではなく、主とともに死に、ともに生き、聖霊に従って歩むようになる。

私たちは主とともに死んで、すでに自分の肉をさまざまの情欲や欲望とともに十字架につけたので、もう肉に従って歩みません。主とともに生き、聖霊に従って歩みます。以前私はそのことを半分しか理解できていませんでした。死んだなら、自分に頼らないので律法の下にいないと思っていました。しかし、私たちは主とともに死んだだけでなく、更に主とともに生きるようになります。そうです!私たちは自分に頼らず、聖霊に頼り、聖霊に従って生きるのです。

(5) 神の家から遠く離れた放蕩息子から、神の子ども、神の後継ぎとなる。

罪過と罪との中に死んでいた私たちは、死を通して過去の身分(放蕩息子の身分)から解放されました。主とともに生きることによって、主とつぎ合わされ、神の子どもになりました。

(6) 神の家から離れた立場から神の家族となる。

私たちはまず「死」を通して、法律上において死に、古い関係から解放されなければなりません。そして、生きかえったので新しい関係に入ることができます。

(7) 悪の支配下、サタンの暗やみの権威の下から、主とともに死に、サタンの支配からの解放へ。

主とともに生き、輝かしい御子の光の国に入って天国の民となります。

皆さん、この事実をはっきりさせたいと思います。私たちは罪過と罪の中に死んでいましたが、キリストとともに死に、ともに生きることにより、生きかえりました。神は正義の神であり、正しい裁き主であり、あやふやな事をされず、物事をいいかげんになさらず、不正なことを行なわれません。私たちは一瞬の内に罪過と罪の中からいきなり生きかえったのではなく、イエスの死によって私たちがイエスとともに死に、すべての古い身分から解放され、主とともに生きかえって、新しい地位と身分につくことができたのです。忘れてならないのは、主イエスは十字架の死を通して「死からいのちに移る」ことができ、アダムから出て、キリストのうちへ移ることができたことです。十字架の死がなければ、何も成り立たないのです。

私は今までずっとわかっていなかったことがあります。それは、私はすでにイエス・キリストの十字架でともに死んで、ともに生きかえり、新生して今はクリスチャンになったのだから、主のために一生懸命努力して、生きるべきだと思っていたことです。しかし、それは間違っていました!主のために生きるのは間違っていませんが、一生懸命努力するのが間違っていました。新しいいのちは一生懸命頑張ってできるものでなく、それは「恵みのゆえに、信仰による」からです。霊的な新しいいのちの成長も努力によってなされるのではなく、「恵みのゆえに、信仰による」のです。「信仰により」キリストとしっかりとつながり続け、毎日主とともに死んでともに生きることを通して、霊的いのちが自然に成長していくのです。

4、古い人とは何ですか?新しい人とは何でしょうか?

「古い人」とは、罪の性質に支配された私です。「新しい人」とは、キリストとつながった私です。 では、私たちの内側に何人の「私」がいるのでしょうか?実際には一人だけです。この「私」には属する地位と身分がいろいろとあります。では、この「私」は誰に属しているのでしょうか?救われる前の「私」は罪の性質に属していました。救われた後、

「私」は罪の性質から解放されてキリストとつながり、キリストに属するようになりました。キリストは私たちのいのちの主です。罪の性質は私たちの主になれません。しかし、救われた後も、私たちが再び自分の意思で物事を行なうなら、罪の性質が再び非合法的にひそかに私たちを支配してしまいます。その様な時、もとの正しい状態にもどるためには、主の御名を呼び求めることです。キリストは永遠に私たちのいのちの主なのですから。

5、古い人と罪の性質、そして神との関係とは? 古い人は罪の性質の奴隷です。古い人と神との関係は、神に対して死んでおり(神との断絶)、罪に対して生きています。

6、新しい人と罪の性質、そして神との関係とは? 新しい人は罪の性質の支配から解放され、主イエス・キリストのいのちとつながりました。新しい人は神に対して生きており、罪に対して死んでいます。

7、私たちは律法の下にいないなら、どのようにして神に仕えるのでしょうか?

律法の下にいないのなら、私たちは律法を守らなくてもよいでしょうか? いいえ、ちがいます!私たちは、「律法の下」にいませんが、「恵みの下」にいます。「恵みの下」にいるという意味は、キリストが十字架の上で私たちのために新しい律法の道を開いてくださったということです。そして自由の律法とは、「いのちの御霊の原理(ロマ8:2)」のことです。主に仕えるには、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えるのです。つまり、もう自分の努力によらず、聖霊の大いなる力によって聖霊に従うのです。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ロマ8:4)」どのように聖霊に従って歩むのかについては、後の課でお話ししましょう。

8、「アダムにあって生きる」と「キリストのうちに生きる」二つの異なる力の源は何でしょうか?

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。(ロマ8:5)」この聖句は、二つの違う能力の源について語っています。アダムにおいては肉に従い、肉的なことをいつも思い、肉の力によって行ないます。キリストにあっては聖霊に従い、聖霊を重んじ、聖霊に頼って行なうのです。

祈りましょう:主よ、私たちは罪過と罪の中に死んでいましたが、あなたが私たちを生かしてくださったことを感謝します。ハレルヤ! 私たちの上になんと素晴らしい変化が起こったことでしょう!かつては罪が私たちの主で、私たちは律法の下に生き、自由がなく、いつも奴隷のような生活をしていました。しかし、あなたの御名を呼び求めた時、私たちはあなたとつぎ合わされ、ともに死んで、罪の支配から解放されたので、感謝します。あなたとともに生き、キリストの復活に入り、キリストが私のいのちとなり、キリストが私のうちで主権を取られ、私たちは聖霊に従って歩みます。主イエスを賛美します。あなたは私たちの生活の力の源であり、生活の道しるべ、そして生活の目標です。あなたこそが私たちの生活の意味であり、また価値です。あなたによって私たちは満たされます。主に感謝し、賛美します!主イエスの御名により祈ります。アーメン!

 

 

 


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