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二、神によって生かされる(エペソ2:1、5)

 

6、死んだ者は罪から解放され、罪に死に、義に生きる:ローマ6章

 

祈りましょう:愛する天のお父様、私たちの心は感謝の気持ちでいっぱいです。あなたの子供になれたのは、すべてあなたの愛によるのであり、あなたご自身の聖霊の働きによります。主よ!私たちがどのように罪の性質の支配から脱け出せたのかについて、聖霊が更に明らかに私たちに示し、真理を教えてくださいますように。私たちが律法の下に生きることなく、恵みの中に生きることができますように。感謝しつつ、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン!

この課で取り上げるのは、「死んでしまった者は、罪から解放され(ロマ6:7)、罪に対して死に(ロマ6:2)、義のために生きる(Ⅰペテ2:24)」ということです。以前お話ししたように、私たちは罪過と罪との中に死んでいましたが、恵みのゆえにイエス・キリストが「死からいのちに移る」というみわざを完成されたので、信仰によって主の御名を呼び求めると、私たちも死からいのちに移され、新しいいのちを得ることができます。主イエスは私たちのために、この「死からいのちに移る」という新しく、また生ける道を開いてくださいました。だから私たちは信仰をもって真心から神の御前に出ることができるのです。もとはアダムにあり、罪の性質に支配されて罪過の中で死んでおり、サタンの支配下にある罪人でしたが、イエス・キリストの贖いにより、キリストにつぎ合わされて生き返り、キリストのうちにあるものとなり、御子の国へ移り、信仰によって義人とされました。

また、私たちの立場が「死からいのちに移る」だけでなく、心の中のすべての不信仰、不義、暗闇、また悪魔や偶像との関わりからも完全に抜け出すようにと、神はお命じになっています。からだだけでなく魂の一切のけがれを取り除き、神を敬い聖められるのです。神が私たちをお召しになったのは、アダムから出るだけではなく、キリストのうちへ入るためです。アダムの中から出て、からだと心のすべてのけがれを取り除き、キリストのうちで聖き主キリストとつぎ合わされて、選ばれた種族、王である祭司である聖徒となります。以前は神の家の外にいた放蕩息子でしたが、今は神の子供となり、神の家でキリストの豊かさを受け取ることができます。アダムにあって私たちは「律法の下に生き」、肉に従い、自分のやり方と努力で神の要求を達成しようとしていました。キリストにおいては、「恵みの下にあり」、聖霊に頼り、自分の努力によらず、「聖霊の大いなる力」によって神の要求に到達します。

皆さん、イエスを信じていても実際は全く変わらず、昨日も今日も同じ有様だと思ってはなりません。私たちは変わったのです!どうか、聖霊がこれらのことを示してくださいますように。私たちはイエスを信じて、神の御前でいのちが変わっただけでなく、家庭も変わり、国も移り変わりました。選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民となったのです。ハレルヤ!

私たちはこのような大きな恵みを受けたのですから、主に感謝しましょう。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ロマ61-5

信仰によって義とされることについて前にお話ししましたが、すべては恵みによるのですから、私たちはただ信じて主の御名を呼び求めるだけでよいのです。では、このように恵みなのですから、私たちは好き勝手に罪を犯し続けて、恵みをたくさん現してもいいのでしょうか?パウロはローマ書6章で絶対に罪を犯してはならないと言っています。それはどうしてでしょうか?パウロはバプテスマによって私たちの身分と立場の変化を示していますが、これらは一体どういうことなのでしょうか?

1バプテスマはどのように「キリストにつぎ合わされていること」を表すのでしょうか?(ロマ6:1-5、コロ2:11-12

イエスを信じて主の御名を呼び求めた時に、私たちはキリストとつぎ合わされ、枝がぶどうの木につながるように、いのちが結び合わされます。

(1)  バプテスマとは何でしょうか?バプテスマは何を表していますか?

ある聖書学者はこのように言いました。「信徒がバプテスマを受けるのは、自分の葬儀に参加することです」。バプテスマは私たちがキリストとともに死に、ともに葬られ、ともに復活する過程を象徴的に表しています。私たちが洗礼槽の中にいる時は、キリストと一つにされたことを表します。そして、施洗者が「父、子、聖霊の御名によりバプテスマを授けます」と言って、受洗者の頭を水につける時は、主とともに死に、ともに葬られたことを表します。頭が水から出た時は、主とともに復活し、今生きているのは私ではなく、キリストが私のうちに生きておられることを表します。古い人は死んで葬られ、今生きているのはキリストとつぎ合わされた新しい人です。これが私たちの新しい身分と立場なのです。キリストの血潮により、すべての罪が赦され、キリストの死により、私たちを束縛している罪の性質の支配から脱け出すことができたことを主に感謝しましょう。

(2)  バプテスマは古い人が死んだことを宣言します。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。(ロマ6:3)バプテスマはキリストの死にあずかることですから、古い人はすでに死んだのに、どうして罪を犯すことができるでしょうか?「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません(Ⅰヨハ3:9)」ともありますが、これは、私たちが新しい人のうちに生きるなら、罪を犯さないということです。しかし、自分の努力で頑張ろうとする時、古い人の状態になってしまうので、罪を犯します。それゆえ、パウロはこのように言っています。いつも、自分の身分と立場を覚えていなさい。私はすでに死に、水の中で葬られ、今生きているのは私ではなく、キリストが私のうちに生きているのだ、と。

もし、バプテスマの意味がわかったなら、「続けて罪を犯してもいいでしょうか?」という問いは起こらないでしょう。もちろん、それはいけないことだからです。キリスト·イエスにつくバプテスマを受け、古い人は死に、死んだ人は罪から解放されたのですから、罪を犯し続けてはならないのです。

(3)  バプテスマは私たちが何かをすることではありません。だた、私たちに「ともに死に、ともに葬

られた」ことを宣言します。

私たちはすでに死に、すでに葬られ、ともに復活し、キリストが私たちのうちに生きておられます。洗礼槽で主イエスが成就されたのは、シナイ山での啓示ではなく、ゴルゴダで明らかに示されたことです。シナイ山とは律法であり、どのようにすべきかを教えてくれますが、私たちにはどうしてもそれを達成することはできません。ゴルゴタで主は私たちのために死なれ、私たちは信仰によりキリストとつぎ合わされ、ともに死にました。私たちには何もできず、また、する必要もありません。主とともに生き、今、生きているのは私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。「キリストとのつながり」はこの学び全体のテーマです。それは、神の完全な救いは、キリストとつながることによって成就するからです。もし、キリストから離れ、イエス・キリストの完成した救いから離れ、キリストとのつながりから離れるならば、キリスト教はなくなり、私たちの信仰もなくなってしまうのです。

ある聖書学者はこのように言いました。「神は、私たちが主を信じた時に、すでにキリストとともに死に、ともに葬られ、ともに復活したと見なされます。バプテスマは、私たちがキリストとともに死に、アダムの子孫である歴史に終止符を打ったことを象徴的に表します。主とともに復活した私たちは、新しい人です。」神の私たち古い人への判決は、罪人だからよく反省して心を新たにしなさい、ということでしょうか。そうではなくて、神の判決はこうです。私たちは死ななければなりません。ただ死ぬことにより古い人が死んでキリストの復活にあずかり、新しい人になるのです、と。

では、どのように死ぬのでしょうか?私たちは主の御名を呼び求め、主とつぎ合わされて主とともに死に、そして死ぬのです。以下のことを忘れてはなりません。数日たった後に、「どうしてまだ古い人が死ぬことができないの?」と言わないでください。あなたの力では「古い人」は死にません。死んでほしくても、死なないのです。「古い人」は私たちが主の御名を呼び求めて、主とつぎ合わされることにより、主とともに死にいたるのです。主に感謝しましょう。

(4)  バプテスマは主とともに復活したことを宣言し、私たちのすべての行動を新しくします。

以前、私は誤解していました。バプテスマを受けたからには、努力して立派なクリスチャンになり、神に栄光を帰さなければならないと思っていたのです。立派なクリスチャンであることや、すべての行動が新しくされることは、求めるべき正しいことです。しかし、問題は努力する方法、立派になる方法、等と方法に頼ることです。聖霊がパウロを通してこのように語られます。「いのちにある新しい歩み(ロマ6:4)」とは、私たちが自分の努力でするのではなく、「キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになる(ロマ6:5)」ことだ、と。そうなれば、自然と「キリストの復活とも同じようになるからです(ロマ6:5)」。「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ロマ6:5-6:8

2、神はどのようにして私たちを罪の性質の束縛から解放し、罪の奴隷から解放してくださったのでしょうか?(ロマ66-71822、ガラ51

神はどのようにして私たちを罪の性質の束縛から解放してくださったのでしょうか?繰り返して言いますが、主とともに死に、ともに葬られ、ともに復活し、私の古い人がキリストとともに十字架につけられたので、死んだ人は罪の性質の束縛から解放されるのです。ある人は、罪の性質はすでに死んだと言いますが、実のところ死んではいません。ローマ61822節によると、私たちが罪から解放されたということは、主が罪の性質に束縛された古い人と一緒に十字架についてくださり、「私」が解放されたので、罪の性質の支配から解放されるのです。

解放されるための鍵は、私たちが良い行ないをすることでしょうか?いいえ、ちがいます。それは、私たちが死を願うことと、主を絶えず呼び求めることであり、そうしてキリストとつながって罪の性質から解放されるのです。ガラテヤ51節に「キリストは・・・私たちを解放してくださいました」と、ありますが、キリストは何によって私たちを解放されたのでしょうか?それは十字架の死によってです。私たちは信仰によって彼とともに死ぬことにより、解放されたのです。以下のことに注意してください。解放される条件は死ぬことであり、私たちの良い行ないではありません。ただ死ぬことにより、罪の性質の束縛から解放されます。ハレルヤ!死によって、私たちの霊的いのちにおける罪の性質の権威は徹底的に打ち砕かれました。私たちが「たたかって」罪の性質を死なせたのではありません。罪の性質が死んだのではなく、私たちが死んだことにより、罪による支配から解放されたのです。これは、とても大切なポイントです。罪は死んだ人に対して何も要求できないので、私たちは自由の身となり、神に仕えることができるのです。パウロはこの事実を私たちに明らかにしてくれました。私たちはこのような立場をいただいたのですから、ふさわしい行ないが伴うはずです。つまり、従順なしもべとなり、従うことにより義に至るのです。

3、イエスは十字架の上で誰に対して死に、誰に対して生きたのでしょうか?このことと信じて救われた人とは、どのような関係があるでしょうか?(ロマ610—11

主イエスの十字架の死は、罪に対して死に、神に対して生きています。それと私たちとはどのような関係があるのでしょうか?私たちは信仰によってイエスとつながり、彼とともに死に、同じように罪に対して死に、罪の奴隷になりません。そして、イエスとともに生き、義となり、神に対して生きるのです。ローマ1-5章は、救われ新生することについて語っています。イエス・キリストの贖いによって、私たちは罪過と罪との中から生き返り、いのちが与えられました。つまり、新しいいのちの幼子になりました。信仰により義と認められ、罪人から義人になりました。また、違う角度から言えば、私たちは信仰によって聖くなりました(聖い立場になりました)。私たちが聖徒になるのは、キリストとつぎ合わされたからで、キリストのいのちが聖いいのちであるからです。

ローマ6-8章は新しいいのちが与えられた後、そのいのちがどのように成長するかについて語っています。つまり、信仰により義と認められた後、どのように信仰から信仰へとすすみ、従順により義とされるのか、また、聖い立場から徐々にどのように実際に聖くなるかについて書かれています。

パウロはローマ6章でバプテスマについて語り、私たちの身分と立場の変化について説明しています。つまり、死んだ人は罪から解放されるということが、いのちを得ることといのちの成長との大切な鍵だと指摘しています。正しい立場に立つということにより――死を通して罪から解放され、今生きているのは私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるということによって、私たちは初めて実際にいのちが成長していき、義とされ、聖くなっていくのです。

4ローマ612-13節は、神が私たちに自由意志の選択を与えられたことをどのように説明していますか?

「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。(ロマ612-13)」ここでは「ささげてはいけません」、「むしろ・・・ささげなさい」と書かれています。つまり、神は私たちに自由意志の選択を与えられたということです。キリストとつぎ合わされて新生した後、キリストが私たちのうちでいのちとなります。彼は罪のようには私たちを支配せず(罪の支配は、人に罪を犯さない自由を与えず、必ず罪を犯させます)、私たちに自由意志の選択をお与えになりました。神は私たちが神を愛することを心から望まれ(神は満たされた喜びであり、永遠の祝福の源です)、私たち自身をささげるように願っておられるのですが、私たちに自由意志の選択を与えて下さっています。主を愛するか愛さないか、主としっかりつながるかつながらないか、主に従うか従わないか、その選択は私たちにあります。神は自由意志によって従う人を求めておられるのです。

5、「罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ロマ614)」とはどのようなことでしょうか。

新しいいのちの道を歩み始めてから、私はこの事実を知るようになりました。「私」が自分の努力に頼って行なう時にはいつも、知らないうちに罪の性質に支配されてしまうということです。感謝なことに、最近このようなことを示されました。ローマ614節に「罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」とありますが、ここで突如私は理解したのです。私たちがキリストとしっかりつながる時、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのですから、罪は私の主にはなれないのだ、ということを。私がある基準をもって「このようにしてはいけない、このようにすべきだ」等と他人または自分に要求や評価をする時、実は私は律法の下にいるのです。また再び以前と同じように、罪が密かに私を支配し、私の主となってしまうのです(もちろん非合法的にですが)。

ローマ612-13節に「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて・・・」とありますが、いつから罪に再び支配されたのでしょうか?それは、「律法の下」にいる時にです。つまり、自分の努力で要求を満たそうとする時や、また、ある規準で他人または自分に要求や評価をしたりする時、罪の支配に死ぬべきからだをゆだねることになり、すぐに罪に束縛されてしまいます。

例えば、数日前、ある姉妹が特別な事情で、私の主人に車で迎えに来てくださいと頼みました。普段、私の主人はすぐに対応し、すばやく行動します。しかし、その日はちょうど出かけようとした時にまた別の電話がかかってきました。私は心の中で、「すみませんが、今からある人を迎えに出るので後からかけなおします、と言って電話を切るべきだ。」と思いました。こう思った時に、わたしはもう律法の下にいて「自我」が出ているのです。その日、私は特に「自我」についてよくわかりました。「自我」が出ると罪がすぐに主権を取り、からだが肉の欲に従ってしまうのです。その姉妹は今、路上で待っています。私はイライラして焦りはじめました。「どうして早く電話が切れないの?」と思いました。時間に気を取られて、主人の一言が5分のように感じ、二言目が10分のように思えました。この時、神は私に語られました。「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。(ロマ612」どうしてイライラするのでしょうか、それは、このような状況で主人がまだ話しているのはおかしい、と思うからでしょう。私が律法の下に生きるとすぐに、罪が私の主となってしまいます。罪が主になると、情欲がわきおこります。

    皆さん、こんな時どのようにして、そこから抜け出せばいいのでしょうか?「怒ってはならない」と自分を抑えつけてもむだです。どう抑えても怒ってしまいます。ただ、そんな自分の状態を認めて「律法の下に生きるべきではありません。主よ、私を救ってください。救ってください。自我から解放されるように助けてください。どうすればいいか、教えてください。導いてください。」と祈るべきなのです。そうすれば、心が静まります。

その日、わかったのは、もし、私が律法の下にいないなら、罪は私の主になれないということでした。しかし、もし私が律法の下に生きるなら、罪がすぐに主となり、肉の欲に従って怒りが爆発してしまいます。いかに正しくても、口に出さなくても、心の中でつぶやいているのです。これは、からだを不義の器として罪に献げたことになります。私たちはからだを不義の器として罪に献げるべきではありません。肉の欲に従ってはなりません。

では、解決の鍵は何でしょうか?今日、私たちが解決したいのは表面的に表れた肉の欲に対してではなく、爆発する怒りの感情に対してでもありません。解決するのは根本的な問題であって、キリストに主となってもらうことなのです。律法の下には生きないということです。「主よ!私を救ってください。救ってください。私は失敗しましたから、感謝します。主が主権を取ってください。私は従います。」これが根本的に問題を解決することです。

    私は自分の失敗を主に感謝しています。失敗が良いわけではないですが、この失敗を通して、神は私に生活の中で実際に「律法の下に生きる」例を見せてくださいました。罪が主権を取った時、からだの欲が表れ、自分を不義の器にしてしまうのです。その日、神がはっきりとお示しになったので、私はすぐに罪を認め、神に自我から解放され救われるように求めました。それは本当に一瞬の出来事でしたが、心が解放され、平安が与えられたのです。

    ハレルヤ!罪は私たちの主になれません。それは私たちが律法の下ではなく、恵みの下にいるからです。恵みとは何でしょうか?それは、神の御旨により、神の大いなる力によってすべてが成就することです。律法は達成されなければなりませんし、もちろん、その姉妹を迎えに行くべきです。しかし問題はその電話です。「主よ、今、電話が来ました。あなたにお委ねします。どうしたらいいでしょうか。主よ、導いてください。」このように祈れば、神には方法があります。なぜなら、私たちは恵みの下におり、律法の下にはいないからです。

6、どのように罪の中から解放され、義の奴隷になるのでしょうか?(ロマ6617-18

私たちはどのように罪の中から解放され、義の奴隷になるのでしょうか?「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。(ロマ6:17-18)」解放される秘訣は何でしょうか?それは従うことです。私たちは「恵みのゆえに、信仰によって」救われ新生したのです。従順は信仰の表れです。以前私たちは罪の奴隷でしたが、今はイエス・キリストの救いを信じて服従し、キリストとつながって、罪の支配から解放され、信仰によって義と認められ、キリストは私たちのいのちの主となり、私たちは義の奴隷となりました。

    上記の例話にもどりますが、主人が電話をしているのを見て、信じて従う態度とはこのようではないでしょうか。「主よ、主人がまだ電話で話していますが、主よ、すべてが良いことです。主に感謝します!次にどうすればいいでしょうか?」。もし、このように従うことができるなら、罪の奴隷にはならず、肉の欲に従うこともなく、イライラして怒ることもなく、自分のからだを罪の器として献げることもありません。このことからもわかるように、私たちがからだを罪に献げるのは、不従順だからなのです。

7、救われ新生した人は、どのように義の実を結ぶのでしょうか? (ロマ616、ピリ212

    主に感謝すべきことに、私たちは以前罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から従うことによって、救われ新生して義の奴隷となりました。同じように、義の奴隷は従順により義の実を結びます。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ロマ6:16)」「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。(ピリ212)」救いの達成とは義の実を結ぶことです。「従順」とは、信仰によって、律法の下に生きず、恵みの中に生きることです。さまざまな出来事に対して、まず従う態度が必要です。「主よ、感謝します。あなたの主権はすべてを治めておられます。あなたの許しがなければ一つとして私の上には起こりません。」「恐れおののいて」とは、神への敬虔とその態度を指しています。この聖句が明らかに示していることは、私たちは救われて新生した後、神を敬うが故に、恐れおののいて、従順から従順へとすすみ、義の実を結ぶのだということです。

    上記の証のように、その姉妹は電話をかけてきて、車での迎えをお願いしましたが、主人はその後かかってきた別の電話でずっと話していました。その時、私のまず初めの反応は、「私」はどうすればいいですか?でした。これこそが「律法の下に生きる」ことです!それゆえ、私は罪の奴隷の状態にいました。では、従順な態度、「恵みの中に生きる」態度とはどのようでしょうか?「主よ、感謝します。こちらも、あちらも電話がかかってきています。主よ、どうしたらいいでしょうか?」こう主にお尋ねする時、私たちが義の奴隷という正しい立場で、聖霊の感動に従って、すべての祈りと感謝と願いにより天の父に語るなら、神は人のすべての考えにまさる平安で、心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいます(ピリ4:7参照)。このような平安にあって行なうならば、義の実を結ぶことができ、肉の欲に従うことはありません。

    皆さん、私は多くの痛い教訓を受けたので、皆さんにお分かちしたいと思うのです。いかなる時も、私たちが律法の規準を振りかざして、これはこうすべきだ、あれはああすべきだ、と言い張るならば、「自我」が出てきて、すぐに罪(罪の性質)に支配されてしまいます。罪(罪の性質)に支配されると、からだの欲が出てきて、もう対峙できなくなります。反対に、律法の規準で見ずに主の御前にひれ伏し、「主よ、この事をどうすればいいか教えてください。主よ、私はあなたを仰ぎます!」と願う時、義の実が結ばれることでしょう。

8、罪の奴隷と義の奴隷の異なる結果は何でしょうか?(ロマ61623

    「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。・・・罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ロマ61623)」

    救われて新生した後、もし「律法の下に生きる」なら、私たちは罪の奴隷の状態に置かれ、死に至ります。つまり、神と暫く離れます(私たちは一度の救いで主と結び合わされ、神との関係は絶たれることはありません)。あなたが怒っている時、良いメッセージができるでしょうか?祈ることもできないでしょう。これこそが神とのしばらくの断絶ではないでしょうか。もし、私たちが義の奴隷になるなら、たとえ失敗しても神の御前に出ることができます。「主よ!また失敗しました。私はこのような堕落した者です。」と告白し、すぐに主により頼んで従い、主の救いと導きを仰ぎましょう。そうすれば霊的ないのちは解放され、義の実を結び、いのちが成長していくのです。

ローマ6章は、死んだ人が罪から解放されたことについて特に教えてくれます。皆さん、罪に対してどのように死にますか?また、義に対してどのように生きますか?自分の身分と立場を良くわきまえる必要があります。そうすれば、義の実を結ぶことができるでしょう。

    これからの学びにおいては、私たちが従順から従順へ、信仰から信仰へとすすむことによりいのちが成長していき、義から義へとすすみ、聖い者とされた身分から、実際の生活においての聖化へと進むことについてお話していきます。

    祈りましょう:愛する天のお父さま、あなたが完成されたこの奇しい救いを心から感謝します。信仰によりキリストとつぎ合わされ、キリストとともに死に、ともに葬られ、ともに復活することにより、死んだ人が罪の支配から解放されました。イエスを賛美します。私たちはもはや律法の下にはいませんが、しかし、罪はいつも律法を通して私たちを誘惑し、律法の下に生きるようにします。罪に支配され、からだの欲に従ってまちがいを犯し、不義の器として自分のからだをささげてしまいます。あぁ、愛するイエスさま、願わくは、聖霊が私たちを絶えず導いてくださり、従順から従順へとすすませ、恐れおののいて救いを達成できますように。義の実を結び、永遠のいのちに至ることができますように。主に感謝し、賛美します!主イエスの御名によって祈ります。アーメン!


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