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二、神によって生かされる(エペソ2:1、5)

 

7、主を信じた後の私たちの内なる状態

 

祈りましょう:主よ、あなたが成しとげられた大いなる救いの愛に感動します。こんなにも私たちを愛してくださり感謝します。主よ、ありがとうございます! 主よ!私たちは救われて新生し、すでに主とともに死に、ともに生き、古い人は死に、今は新しい人になりましたが、なぜ今もなお、内側で戦いが起こるのでしょうか?主よ、今からともに、主を信じた後の私たちの内側の状態について分かち合いますので、どうか、正しく理解できるよう導いてください。主に感謝しつつ、主イエスの御名によって祈ります。アーメン!

何という恵みでしょうか。主を信じた時に私たちの身分と立場に素晴らしい変化が起こりました。以前は古い人でしたが、今は新しい人になりました。以前は罪に支配されていましたが、今は義が私たちの主になりました。以前は放蕩息子でしたが、今は神の子供です。以前は肉に従っていましたが、今は聖霊に従います。この様な変化をお与えくださった主に感謝します。

 

しかし、たくさんの人が次のように感じています。主を信じて、私たちの古い人は主とともに十字架につけられたはずではなかったでしょうか?今生きているのは私ではなく、キリストが私のうちに生きているはずではないでしょうか?主を信じたばかりの時はとても嬉しく、平安と喜びがあったのに、いつの間にか、平安と喜びとともに多くの問題が起こっています。例えば、とても熱心なのに、疲れて体が続きません。とても熱心なのに、同労者との間や、または家庭、そして教会内においても問題があります。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられ」るのなら、ひとりひとりのうちにイエスさまが生きておられるはずなのに、イエスさまがケンカしてしまうのでしょうか?どうしてなのか、全く理解できません。

 

この課では主を信じた後の私たちの内側の状態について、ともに学びましょう。

1、イエスを信じることと新しいいのちとは、どんな関わりがあるでしょうか?(ヨハ316、ロマ117

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハ316)」この聖句は、イエスを信じるとすぐに新しいいのちが与えられると語っています。しかし、この時の新しいいのちは、まだ幼子であることを理解してください。以下の点に注意していただきたいのですが、イエスを信じれば、今はもう新しい人になって、すべてが解決したというわけではありません。この時、私たちは新しいいのちの幼子にすぎないのです。キリストの教えから言えば、まだそれは始まったにすぎません。もし、イスラエルがエジプトから出る過程から見るなら、イエスを信じて永遠のいのちを得ることは、過ぎ越しに子羊をほふったにすぎません。なぜなら、「過ぎ越しの子羊」によって、私たちは神の怒りを免れることができるからです。

 

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。(ロマ1:17)」

「信仰に始まり」とは、私たちが主を信じたその時、新しいいのちを受け、神の義が与えられたことにより、信仰によって、義と認められたことです。「信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』」とは、新しいいのちを得た後、信仰によっていのちが更に成長していくことです。

私たちは、イエスを信じてすぐにカナンの地に到着するとか、主を信じてすぐに大人になれると思ってはなりません。主を信じたばかりの時は、新しいいのちの幼子でしかないことを理解する必要があるのです。

 

2、イエスを信じると罪の性質は私たちの主に再びなることはできません。では、罪の性質はどこにいるのでしょうか?誰が私たちの主であり、私たちのいのちなのでしょうか?(ロマ66-714837、Ⅰコリ12、コロ34

今まで、罪の性質と古い人との関係について語ってきました。主イエスが完成された救いは、私たちの古い人を彼とともに十字架につけ、古い人が死んで、罪の性質の支配から私たちを解放しました。しかし、罪の性質は死んでおらず、まだ私たちの内にいます。けれどもイエスを信じることにより、キリストと結び合わされ、イエス・キリストが私のいのちとなり、私のいのちの主となりましたから、罪の性質は私たちの主になれません。前回お話ししましたが、いつ罪の性質が再び私たちの主となるのでしょうか?それは私たちが律法の下に生きる時です。

 

3、主を信じた後、私たちの内側に、どのような二つの状態があるのでしょうか?

(マタ77—27、ガラ220、ロマ724、箴4181625、ルカ119—13、ガラ33525参照)

主を信じると、キリストは私たちのいのちの主になります。しかし、罪の性質はまだ死んでおらず、私たちの内側に残っています。そのため、私たちの内には二つの状態があります。つまり、二本の道、二つのいのちと二つの力の源です。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいというときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタ77-27)」

主イエスの山上の垂訓(マタ51-729)は天国の律法、つまり天国の民にあるべき道徳的行為を宣言したものです。主は、旧約の律法を外側の見える道徳行為から、内側の思いと動機にまで及ぶようにされました。旧約には「殺してはならない」とありますが、主イエスは新約で「憎んではならない」とおっしゃいます。旧約は、「姦淫してはならない」と書いてありますが、主イエスは新約で「情欲を抱いてはならない」と語られます。いったい誰がそれらを守ることができるでしょうか?ですから、私たちが天国の律法を守れるように、主イエスは私たちに一つの道、つまり、「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」という道を示されたのです。

 

l)二本の道――二本の異なる道は、それぞれ目的と価値が違います。

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタ712-14)」

ここで、主イエスは二本の道を示されました。一つは永遠のいのちへ導き、もう一つは死に至ります。皆さん、ご注意ください。主イエスのこれらの言葉は信者も未信者もともに適用できますが、ふつう聖書学者は、これらは信者に対しての言葉だと言います。しかし、信者がどうして滅びるのでしょうか?ここでの「滅び」は原文では、「浪費、無駄、無価値」と言う意味になります。「永遠のいのち」は、「永続する価値」という意味です。ですから、主イエスはここで、二本の道があり、一つは永遠に続く価値のある道で、もう一つは浪費、無駄の道だと言われています。毎日、私たちはこの世にあって忙しいですが、決勝点がどこかわからないような走り方をしてはならず、空を打つような拳闘もしてはなりません。走るべきは永続する価値のある道であり、浪費や無駄の道ではありません。ただ、「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」の道を行くなら、価値も意義もある結果となるのです。逆に、理性で分析し、自分の努力で頑張るなら、いかに良くできたとしても、神の目には浪費、無駄となり、価値がないのです。

 

2)二種類の果実の木――二種類の異なるいのちは、二種類の異なる実を結びます。

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。(マタ715-20)」

 

3)二種類の土台――二種類の異なる力の土台()は、異なる結果を生みます。

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。(マタ724-27)」

 

ここで語られている二種類の土台とはどういう意味でしょうか?主イエスは、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者」と言われましたが、では、主のどんな言葉を聞くのでしょうか?前後の文脈を繰り返し読むと、主イエスの言われる「これらのことば」とは、「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」を指していることがはっきりとわかります。主のみ言葉を聞いて行なうならば、「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」の道を歩むことになるのです。ルカ1113節は天の父なる神は、聖霊を求める人にお与えになると語っています。求めるならば聖霊が働いて下さり、私たちは聖霊に従って歩むことができます。それは、私たちが救われて新生した時に、主を求め、主の御名を呼び、自分を罪人だと認め、イエス・キリストを救い主として受け入れ、聖霊が私たちのうちに入られて私たちを新生させてくださったのと同じ様にです。救われた後にも祈り、求め続けると、聖霊が私たちの内で働き続け、行なうべきことを教え導いてくださいます。「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」の道を歩み、聖霊に従うならば、これこそ、神の御前では岩の上に家を建てるのと同じであって、その土台はしっかりして、家も頑丈です。また逆に、この道を歩まないなら、自分の理性と分析に頼り肉にあって歩み、それは砂の上に家を建てるのと同じです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいます。

 

4)まとめ:主を信じた後、私たちの内には、二つの状態があります。

一つ目の状態は、キリストが私たちのいのちの主であり、キリストに従います。主の御名を呼び求めて、主としっかりとつながります。古い人が主とともに死に、罪の性質の支配から解放されています。そして、聖霊に従って歩みます。罪の性質は私たちの主にはなりませんが、まだ残っています。

二つ目の状態は、自分のうちに生き、自分に頼ります。主の御名を呼び求める道を行かず、自分に頼る道を歩み、すぐに罪に支配され、古い人の状態がすべて表れ、肉に従ってしまいます。

 

 

 

4、自由意志の選択と罪の性質との関係はどうでしょうか?図解三はどのような意味でしょうか?(ロマ612-14

1)神は、私たちが自由意志で神を愛し、従い、新しいいのちが成長していくのを願っておられます。主イエスは私たちを贖われ、私たちは信仰によって主とつなぎ合わされました。主は私たちのいのちの主となりましたが、罪の性質のようには私たちを支配されません。私たちが更にしっかりと主と結び合わされることを願っておられます。聖書にはこのようにあります。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。・・・生きている人が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(Ⅱコリ5:1515私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします・・・(ロマ12:1)神は、愛のきずなで私たちを引き寄せられるのです。これは、私たちをロボットのように支配するのではなく、私たちが自由意志で神を愛し、従い、新しいいのちが成長していくことを願い、待っておられるからです。

図解三は、人が主を信じた後のいのちの成長を示しています。自由意志の選択により、神に頼るか、または、自分に頼るか(信仰によるのか、見えるものに頼るのか)によって、「新しいいのちの成長」または「父なる神との交わりの断絶(肉に生きる幼子の状態)」という二つの全く逆の状況が生まれます。新しいいのちは「信仰に始まり信仰に進ませる」ことによって健やかに成長します。新しいいのちの成長は神の私たちへのみこころです。神が喜ばれることなのです。

 

2)「自分に頼る」選択をした結果はどうなるでしょうか?

図解三の中の上の一行を見てください。(前にも繰り返しお話ししましたが、私たちが律法の下に生きる時、実際には自分に頼っています。)罪の性質に支配され(ロマ612-14参照)、古い人の状態にもどり、自分のからだを罪の奴隷とし、罪を犯さずにいられなくなり、死(父なる神との交わりの断絶)に至ります。これはつまり、私たちが日々出合う人、事、物に対して、もし聖書の規準と自分の能力で行なうなら、内側の罪の性質が活動し始め、私たちを再び支配してしまうということです(ロマ751121-24参照)。

   

    ここで、注意すべきなのは、罪の性質はひそかに、また非合法的に私たちを支配しようとすることです。なぜなら、私たちの本当の主となるべき方はキリストだからです。私たちが罪に支配されてしまうと、すぐに古い人の状態となり、自分のからだを肉の欲に従わせ、罪を犯すようになり、その結果は死(父なる神との交わりの断絶)です。これはローマ86節にある「肉の思いは死である」ということで、その「思い」とは、心を集中させるという意味です。救われて新生した人が、もし自分に頼って生きるなら、それは肉のからだと呼ばれます。肉の思い」は人の方法で何とかして問題を解決しようとし、その結果は死に至る(神との交わりが暫く途絶える)のです。

3)「神に頼る」ことを選んだ結果はどうでしょうか?

図解の中の下の行を見てください。神に頼ることを選び、主の御名を呼び求め、主の御名を崇め、自我から解放されるよう救ってください、と主に求めます。主と更に親しくつながり、からだが聖霊に導かれて歩み、死ぬべきからだが生かされ、善を行うことができ、新しいいのちが成長していきます。問題が起こる時、自分に頼らず主に頼り、このように祈ります。「主よ、主よ、私を助けてください、私を助けてください、私を助けてください。主よ、主よ、感謝します、賛美します、これらすべては私に聖い品性を形作るためです……。」その結果はどうでしょうか? 主に感し、御名を呼び求めると、神は聖霊を求める人にお与えになるので(ルカ1113)、聖霊に従って歩めるようになるのです。

死ぬべきからだが生かされるとは、どういうことでしょうか?

私たちはすでに救われましたが、私たちがすることはすべて「自己中心」です。それゆえ、からだは以前と変わらずに罪の支配下にあって、死ななければならないからだであり、神と敵対するものです。

しかし、私たちに日々起こる一つ一つの出来事や小さなことにおいて、私たちが主を主として認めて主を呼び求め、感謝し、賛美するなら、つまり、手足を義の器として献げることによって、主とともに死にともに生き、聖霊に従って歩む時、神が私たちの死ぬべきからだを少しずつよみがえらせて下さいます(ロマ811-13、Ⅱコリ414、ピリ39-11。そうして、たえず古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るのです(エペ422-24)。

このように少しずつ復活しての行ないこそが正しい行ないです。律法の義は肉の努力によって全うすることはできず、私たちが信じて従順に従い御霊によって導かれて歩むことを通して(ピリ2:12、ガラ5:1625参照)、また、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱きつつ(ガラ55参照)、肉に従って歩まず、御霊に従って一歩ずつ歩むことを通してのみ、私たちの中に律法の要求が全うされる(ロマ84参照)のです、これこそが「聖徒たちの正しい行ない(黙19:8)」です。

ですから、神に喜ばれ、神の義に至る正しい道は、自由意志で「主に頼る」方を選ぶことです。私たちは主に喜ばれようとしながら自分に頼ることを選び、その結果、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂などの欲がどれほど出て来てしまったことでしょうか。

 

4)私たちの「自由意志と罪の性質との関係」とは何でしょうか?

自由意志で「自分に頼る」(律法の下に生きる)方を選ぶと、私たちは罪の性質にひそかに支配され、罪が主となってしまいます。その結果、古い人の状態が現れます。今日の私たちは新しい人であり、新しいいのちであって、「古い人」が生き返ったのではありません。「古い人」はすでに私たちが救われて新生した時に、主とともに十字架につけられて死んだので、今現れているのは「古い人の状態」にすぎません。自由意志で神に頼ることを選ぶ時、私たちはキリストとしっかりとつながり、罪は私たちの主になることができず、新しいいのちが成長していきます。

 

5、神のみこころは私たちが恵みの下に生きること、とはどのような意味でしょうか?(ロマ612-1419

「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ロマ612-14

「あなたがたにある肉の弱さのために、わたしは人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。(ロマ619

上記の聖句には「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて・・・また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。・・・というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」とあり、神のみこころが私たちにはっきりとわかります。神が罪の性質の支配から私たちを解放されたので、私たちはからだを罪の支配に委ねてはならず、手足を不義の器としてささげてはいけません。むしろ、神の義の器としてささげるべきです。

では、どのように罪の支配から脱け出せるのでしょうか? ローマ614節にはこう書いてあります。「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」つまり、私たちは恵みの下にあるので、罪はわたしたちを支配することができないのです。神が願っておられることは、私たちが恵みの中に生き、キリストを崇め、いのちの主として仰ぎ見ることだと、はっきりとわかります。

 

6、「律法の下に生きる」とは何でしょうか?「恵みの下に生きる」とは何でしょうか?

1)「律法」とは何でしょうか?

狭い意味では、旧約の十戒、あるいはおきてです。広い意味では、神の要求であり、更に広い意味では、良い要求です。

2)「律法の下に生きる」とは何でしょうか?

それは、自分の努力で神の要求を全うしようとすることです(旧約の要求だけでなく、新約の要求も含まれます。例えば、うそ、貪欲、嫉妬などの禁止です。)

3)「恵みの下に生きる」とは何ですか?

それは、自分の努力に頼らず、神の大能の力によって神の要求を全うし、聖霊の大いなる力によってすべてを成就することです。

4)律法は絶対に変えることはできません。必ず全うしなければなりません。

律法の下にではなく、惠みの下にいるのです。」とは、律法の要求を全うしてはならないのではなく、どのような方法で全うするのかです。恵みを通して律法の要求を全うするべきなのです。

 

7、どんな時に、律法の要求を全うしたいと思いながら、罪によって支配されてしまうのでしょうか?(ロマ711

「それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。(ロマ711)」

罪は、私たちが主を愛し聖書の要求を何とか全うしたいという願いを利用します。「命令と律法」を私たちの前に置き、クリスチャンはこうあるべきだ、あああるべきだ、と言います。この時、「私(自分に頼る)」が出て来て、律法の要求を全うしようとするため、すぐに罪に支配されてしまいます。そして、罪を犯し、死んでしまいます(神との関係が暫く途絶えます)。これが、罪が「私を殺した」という意味です

    すでに、私たちの内側に二つの状態、二本の道(二つの土台)、二つのいのち、二つの力の源があることをお話しました。私たちが「律法の要求(聖書の規準)」に直面する時に、ある一つの道は「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」という道です。つまり、キリストのいのちにしっかりとつながり、「主よ、わたしを自我から解放されるよう救ってください。主よ、どうすればよいか、あなたが導いてください、導いてください・・・・・・。」と祈って、聖霊に従って歩みます。もし、私たちがこの道を行かず、自分の努力によって律法の要求を全うしようとするなら、理性に頼る道を歩むこととなり、自分の努力で行なうので、再び罪に支配され、古いいのちの状態となり、肉に従って歩むようになります。

    イエスを信じて新しい人となり、今生きているのは、私ではなく、キリストが私のうちに生きておられます。しかし、内側にまだ罪の性質があることを私たちは忘れてはなりません。まだ新しいいのちの幼子なのです。この幼子は、どのように成長するでしょうか?それは主に頼って、頼って、頼り続けていく中で、成長していくのです。私たちの生まれながらのいのちは「自己中心」ですから、「私」はいつも、できるだけ頑張ろうとします。ある良い規準が目の前にあると、「私」がすぐにそれをしようとします。すると、「私」は自分の努力によってその規準に到達しようとし、またすぐに罪の性質に支配されてしまいます。

8、どのような状況において、肉が聖霊に逆らい、聖霊が肉に逆らうのでしょうか?(ガラ516—18、ロマ612—14

    この学びは「神に喜ばれることを望む」兄弟姉妹のために設けられました。思うままに生きる、自分勝手な人は私たちの話す範囲に入っていないのです。神に喜ばれることは、いわゆる聖書の要求を全うすることであり、正しいことです。聖書の要求は必ず全うされなければなりません。今、お話している問題は、「聖書の要求を全うする」ということではなく、どのように全うすればよいかということです。私たちの内側に二つの状態があることは、すでによく理解されたと思います。二つのいのち、二本の道、二つの力と二つの力の源があります。

 

 1)「肉の願うことは御霊に逆らう」とは、どういう意味でしょうか。

それは、私たちにある出来事が起こる時、聖霊が私たちの心を導き、感動をお与えになり、神の要求をお示しになります。しかし、次にあなたがどうするかという点でよく問題が起こります。神の要求を全うするために、自分の力に頼るのか、それとも、主に頼るのかがとても大切な鍵です。それは、私たちが律法の下に生きるのか、もしくは恵みの下に生きるのか、ということです。もし、律法の下に生きるなら(自分の力に頼って、律法の要求を全うする)、すぐに罪の性質に支配され、罪の性質は間接的に私たちのからだを支配し、情欲(ロマ612参照)を生み出します。

例えば、聖書を読みたいので、考えぬいて通読する計画を立てました。実のところ、そうした時すでに罪の性質に支配されており、情欲が表れています。衝動的に「このようにしたい」と思いながら聖書を読む時に、ある出来事が邪魔をすると、あなたはイライラして怒り出します。それは、どうしてでしょうか?それは、あなたが情欲の中にいるからです。内側の「聖書をよく読みたい」という思いは、聖霊の望むところですが、「私」が「私」の努力に頼って聖書をよく読みたいので、情欲が表れます。そして、聖書をきちんと読めなくなるだけではなく、「あなたは悪魔だ!私が聖書をじっくり読みたいのに、読ませてくれないなんて。主によって、悪魔を縛る!」と、ケンカまでしてしまいます。そのような経験はありませんか?これこそ、肉の願うことが聖霊に逆らうということです。

    「自我」が表れると、情欲が出て来ます。私たちが情欲の中にいる時は、何もしないほうがいいです。何かが起こると、したいと願っていることもできなくなってしまいます。何か間違っていることを見ると(聖霊)、怒り(肉)がすぐに湧き上がります。これが肉(怒り)が聖霊(全うすべき神の要求)に逆らうということです。私たちの目的は明らかに神の要求を全うすることなのに、怒ってしまい、失敗してしまいます。自分の堕落した本当の姿を隠したいために、「『私』の怒りは『義憤』だ」などと言ってごまかしてしまうこともあります。これこそが「肉の願うことは御霊に逆らう」ということです。

    では、どうすれば聖霊に逆らわずにすむのでしょうか?それは、よく祈って、主の御名を呼び求める道を歩むことです。「主よ、私はよく祈り、よく聖書を読みたいのですが、どのようにすればいいかを教えてください。主よ、デボーションをしたいです。良きデボーションの計画をお与えください。どうぞ、導いてください、導いてください!」と懸命に祈って、心に平安が与えられたら、デボーションができます。計画が必要ではないということではありません。「自我」に頼って計画しない方がよいということです。

2)「御霊は肉に逆らう」とはどういう意味でしょうか?

    聖霊は私たちの愛する助け主です。私たちは愚かで無知であり、とても幼稚で、肉が聖霊に逆らう状態にありますが、聖霊は、いつも忠実に、愛を持って私たちを支え養ってくださいます。聖霊は私たちの弱さを助けてくださり、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます(ロマ826参照)。あるいは、私たちが絶えず「自我」に気付くようにして下さり、自分では不可能なことを認めさせ、主の導きを仰ぎ見させます。また、外側の環境を用いて、私たちが主の御名を呼び求めて安息に入る道に立ち返るようにさせます。またあるいは、次のような教えを私たちの心の中に語りかけて下さいます。「『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。・・・したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」(へブ47-11) そして、聖霊は私たちを「恵みの下」にもどらせることにより、罪の性質の支配から解放し、肉の欲から解放して下さるのです。

    祈りましょう:愛する天のお父様、あなたの奇しい救いを心から感謝します。主を信じた時から、私たちのいのち、身分と立場とに、なんと素晴らしい変化が起こったことでしょうか。罪の性質が死んでおらず、まだわたしたちの内にあることをはっきりと示してくださり、感謝します。私たちがあなたの中におり、しっかりとつながるなら、罪の性質は私たちを支配することができません。しかし、もし私たちが律法の下に生き、自分の努力で律法の要求を全うしようとするなら、罪が生き始めます。罪は私たちに「自分の力に頼る」よう誘惑し、私たちを支配し、神から暫く離れさせようとします。どうかご聖霊さまが、私たちの内側に二つの状態があることを絶えず示して下さり、私たちが主の御名を呼び求める道を歩むことができるように、助けてください。感謝しつつ、主イエスの御名によって祈ります。アーメン!

 

 

 

 


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