echousa.org
トップページ
信仰告白
新しいいのちの成長の道序文
新しいいのちの成長における正しい道と誤った道(ラザロの死とよみがえりの図)
新しいいのちの成長図解
エペソ2:1-10の学び
新しいいのちの学び特別テーマ
質問と回答
お問い合せ
Copyright © 2007 echousa.org
All Rights Reserved.

内容のダウンロード使用に関して: 著作権は全てEchoUSAに属します。
非営利目的でのご使用を歓迎しますが、 必ずEchoUSAの名称をご明記ください。
新建网页 1

 

新しいいのちの本質、成長と働き

 

主イエスは、こう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハ5:24)」「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。(Ⅰヨハ5:1)」「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(Ⅰヨハ5:12)」「私たちのいのちであるキリストが現れると、(コロ3:4)」 アンドリュー‧マーレーはこのように語っています。「主イエスを信じる人が受ける祝福は、何と栄光に満ちたものでしょう! 生活態度と立場が変わっただけではなく、神から完全なる新しいいのちが与えられたのです。新しい者とされ、神から生まれ、死からいのちに移ったのです。この新しいいのちには、はかり知れない力があります。神はすべての小さな動物や植物にいのちを与えられ、成長できるように、同時にいのちの力をもお与えになりました。いのちは力です。同様に、私たちの心にある新しいいのちにも力があります。自分を完全に神に明け渡し、主に働いていただくなら、新しいいのちは必ず健全に成長します。しかし、残念なことに、二つの事がよく成長を妨げてしまいます。一つ目の障害は、このいのちの本質や、原理と働きに対する無知です。二つ目は、多くのクリスチャンたちが、新しいいのちが成長するということを知らないか、あるいは信じていないことです。」

願わくは、自分が無知であることを私たちが知ることができますように。そうすれば、神はへりくだる者に恵みをお授けになり(へブ4:6参照)、この神の奥義が私たちに明らかになります。新しいいのちが健やかに成長するには、このいのちの本質、成長と働きを十分に理解する必要があるのです。

 

一、新しいいのちの本質:

    アンドリュー・マーレーはこのように言いました。「私を含めて、多くの神の子供たちは、神から与えられたいのちに対して、認識が浅いようです。神に喜ばれようと思ってしていることが、どうして間違いになってしまうのか、理解に苦しんでいます。自分たちは、すでに十分神のみことばを理解し、その教えを受けていると思っていますが、実のところ、しばしば肉の方法で霊的なことを考えているのです。神は、私たちに救いといのちをお与えになっただけでなく、また、聖霊をお遣わしになり、私たちに与えられたすべてのことを教えておられます。神がカナンの麗しい地を示されただけではなく、そのカナンに行く道をも、お示しになられたようにです。ですから、日々の歩みを主におゆだねするべきです。」 

(一)新しいいのちは信仰(受けること)により得たいのちです:

    新しいいのちを得るということにおいて、私たちには何もできません。自分の努力に全く頼ることができません。神がすでに救いを用意しておられるので、私たちはただ、イエスを自分の救い主として信じれば(受け入れれば)、主と結び合わされたいのちが与えられるのです。ちょうどぶどうの枝がその木につながっているように(主イエスはぶどうの木で、主を信じる私たちは枝です)、私たちはキリストと永遠に断ち切られることのない関係になります(すなわち「永遠のいのち」を得ました。ヨハ3:1-17、ヘブ10:14参照)。信仰により、信じることのみにより、新しいいのちが与えられ、新しいいのちの幼子となりました。同じように、信仰により、信じるだけで、新しいいのちは徐々に成長していきます。

(二)新しいいのちは霊によって生まれたいのちです:

神はすでに救いを備えてくださいました。神の側から見れば、イエス様を救い主として受け入れた時、聖霊が私たちの心に入って私たちを生まれ変わらせてくださいました。このいのちは、霊によって生まれた霊的いのちです。霊的いのちを持つ人が新しい人であり、新しいいのちなのです。ですから、聖書は、新しいいのちは聖霊から始まると語っています。通常、両親から生まれた肉のいのちはすべて罪の性質に支配されており、私たちはそのような人を古い人とよんでいます。新しいいのちは古いいのちを改良したものではなく、新たに霊的に生まれたいのちであり、罪の支配から解放されたいのちです。古いいのちを新しいいのちに改良することはできません。古いいのちと新しいいのちは完全に異なるのです。

(三)聖霊は新しいいのちを養い育てます:

    このいのちは聖霊を通して、キリストのすべてを与えてくださいます。なぜなら、キリストが聖霊を通して私たちの内側に生きておられるからです。

(四)この新しいいのちは、永遠のいのちです:

これは、現在の肉にあるいのちが、死なずに永遠に生きるということではありません。永遠のいのちは神のいのちであり、昔からおられ、今はキリストにあって明らかにされ、神の子どもたちのいのちとなりました。新しいいのちはキリストと結ばれた神の御子のいのちです。神のご性質(聖さ、善意、公義、誠実、慈愛、栄光等)のいのちです(Ⅱペテ1:4参照)。それは、永遠に死なないいのち(永遠のいのち)であり、平安と喜びのあるいのちです。

    アンドリュー‧マーレーはこのように言いました。「願わくは、新しいいのちを持つ人すべてが、キリストのいのちがすでに自分の中にあることを、信じることができますように。たとえ見えなくても、感じなくても、また体験したことがなくても、私たちの内側で働いておられるのは永遠のいのちであり、天に属する力があります。キリストがすでにご自身を与えてくださったのですから、私たちは神の恵みをおろそかにすることなどできません。日々、『キリストはわがいのちであり、わがすべて』であることを神の御前で絶えず受け入れるべきです。」

(五)新しいいのちは、いのちですから、生命力があります(このいのちには、素晴らしい力があります)。いのちである以上、必ず成長します。

(六)新しいいのちは人の光です(ヨハ1:4参照)。ですから、命が成長すればするほど、自身の古い人がどんなに汚れているのかわかってきます(まず、明らかなものから始まり、その後、隠れているものまでわかるようになります。外側の道徳的行為から、次第に内側の心の思いまで示されます)。そして、新しい人の良さを更に好むようになっていきます。古い人の汚れを理解し、古い人とその行いからどのように解放されるかについては、後の学びで詳しくお話ししていきます。これは、この学びの大切なポイントでもあります。

(七)新しいいのちの原則は、すべてにおいてキリストに教えていただき、導かれることです。アンドリュー・マーレーは言いました。「神に喜んでいただくことで、新しいいのちの原則と人の見解とは相反することを忘れないでください。自分の思いに陥らないように十分に気をつけて、わがいのちと知恵であるキリストに、すべてにおいて教えていただきましょう。」

 

新しいいのちの原則とは:すべてのことにおいて、まず主の御名を呼び求め、主の導きと伴いを待ち望みます。主の御名を呼び求めることによって、霊的いのちや、主と更に実際的に親密につながります。神には摂理があり、知恵と力があります。主の御名を呼び求め、主と更に親しく結びつくよう求めましょう。そのことによって、キリストの知恵が現実に私たちの知恵となり、キリストの力が私たちの力となります(箴9:108:14、コロ1:9

人の見解:大変なことが起こると、まず解決方法を考えます。人間の知恵、才能、能力などを用いて考え、分析して、処理します。人の見解は「私自身」の見方を通して、古いいのちとつながってしまいます。

(一)新しいいのちは成長します:神は、新しいいのちに十分な力を与えられ、大きく成長させます。

1、新しいいのちは神の恵みの中で自然に大きくなっていきます(ピリ1:6、マタ6:27参照)。マルコ426-28節にはこう書かれています。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。」この聖句は「教会」がゆっくりと成長する過程に用いることができます。また、「神のみことば」が人の心の中で徐々に成長する過程や、そして、「新しく造られた人」の成長過程にも応用することができます。ここでは、この三番目に適用します。いのちがあるので、大きく成長します。これは自然の過程です。

2、新しいいのちの成長は、ゆっくりと進む過程です。手助けや、いかなる外からの援助も、いのちを成長させることは決してできません。

 3、新しいいのちは成長します。けっして、「何かをする、思い煩う」ことでは大きくなりません(マタ6:27参照)。自分に頼ってうまく「する」ことと、新しいいのちがよく「成長する」ことは全く異なる二つの道(マタ7:13-14参照)です。「する」と「成長する」とは完全に違います。

(二)新しいいのちの成長には多くの要素があります。最も根本的なものは、心の一新、信仰とデボーションです。新しいいのちにとって、聖書はいのちの糧です。祈りは呼吸であり、祈りによって聖霊は力強く働き、聖書のみことばを消化するのを助けます。また、デボーションにより、主の内にとどまります。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハ15:7-8」すなわち、デボーションを通して、キリストとのつながりが更に現実的になり、いのちが増々成長していきます。違う角度から見てみると、デボーションは私たちの信仰を強くし、信仰が増し加わることにより、新しいいのちが更に成長するのです。

三)新しいいのちは、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(ヨハ3:30)」この中で、成長していきます。

1、キリストとのつながりに影響するものは「自我」です。「自分」の見解、「自分」の考え、「自分」のすべてがキリストにつながるのをひどく妨害し、新しいいのちが成長する大きな妨げとなります。

2、神は、日々生活の中で遭遇するいかなる困難をも用いて、私たちを「主に頼り、主に祈り、主を高く掲げ、主を賛美する」道に導いておられます。常に主を呼び求め、自分に頼らず、主により頼み、みことばに養われるなら、主が私たちの身において自然と盛んになり、私たちは自然と衰えていき、新しいいのちが成長していきます。

私たちには、主の邪魔をしないようにと、小さなことでは主を呼び求めず、大きなことだけ求めようとする習慣があります。そのため、このようなことが生じます。「大きな試練や大きな困難の中では、主の御名を呼び求めて喜びと平安がある。しかし、同労者との関係、家庭生活等は小さいこととして祈る必要がないと考え、かえって、いろいろな不調和が起こってしまう。」神は、私たちに、すべてにおいて(大きいことも小さいことも、良いことも悪いことも、難しいことも簡単なことも、健康でも病気でも)、主の御名を求めるように命じています。すべてのことにおいて神を呼び求めるために、神はある出来事が起こるのを許され、私たちが依存している事柄を取り除き、神だけにより頼むようにしてくださるのです。

3、言い換えれば、新しいいのちは「日々自分の十字架を負う」中で成長します。主イエスは言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタ16:24-25)」「いのちを見いだす」とは、新しいいのちが成長することです。

自分の十字架とは何でしょうか? 十字架とは「すべて自分の望まない、願わない」人や物事です。自分の十字架とは、大きさには関わらず、私たちが遭遇する「すべての問題、すべて自分の望まない、願わない」人と物事です。私たちはよく他の人を見て、もし、自分の身に起こったら、どうしよう?と考えます。しかし、主イエスが特に示されたことは、他の人の十字架を負うことではなく、自分の十字架を負うことです。

自分の十字架を負うとはどういうことでしょうか?「負う」とは「掲げる」の意味です。つまり、私

たちが遭遇するすべての望まない、願わない人や物事を掲げるのです。

主に従うということは、御名を呼び求め、御名を高く掲げ、御名を仰ぎ、御名を賛美するという意味です。それは口先だけのことではなく、心と誠実をもってすることです。つまり、日々遭遇する出来事(すべての困難、すべての望まない、願わない人や物事等)を、自分の力で解決方法を探すのではなく、主の御名を求め、御名を高く掲げる時(それは「あの方は盛んになる(ヨハ3:30参照)」ことの実践です)、私たちは主とともに死ぬこと(「私は衰えなければなりません」、つまりいのちを失うこと)を経験します。そうすれば、主とともに復活します(新しいいのちの成長を得ます)。ですから、日々自分の十字架を負い、御名を呼び求めることを通して、御名を崇めます。

消極的な面では、自分の知恵、意見、権利、能力を廃除することです。(「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(Ⅰペテ2:21-23)」) 

    積極的な面では、神の復活の大いなる力、知恵が大いに私たちの周りの環境、及び身の上に現れます。(「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。(Ⅰペテ2:24)」)なんと素晴らしい救いでしょうか。「キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。(Ⅱコリ13:3-4)」)「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ(Ⅱコリ10:3-5)」るのです。

 

三、新しいいのちの働きと行ない:

新しいいのちと私たちが本来持つ古いいのちの働きと行ないは、表面的には似ているかもしれません。しかし、両者の源、方法と土台は完全に異なります。聖書は、クリスチャンは良い行いを持つべきであると繰り返し語っていますが、その良い行いは自分から出たのではなく、新しいいのちの成長が自然に表れた結果であるとも強調しています。マタイ77-27節の聖句ではっきりと語られていることは、異なる方法は異なるいのちとつながり、更には、その力の源も異なり、得られる効果も違ってくるということです。

この二種類のいのちの外見は似ていますが、確かな効果は異なっています。もちろん、永遠の価値も全く違っています。新しいいのちの表れと実(行い)は永遠に残るものです。風が吹いても、雨が降っても、洪水が押し寄せても失うことはありません。しかし、古いいのちの実(行い)は一時的なものであり、風が吹き、雨が降り、洪水が押し寄せたなら、立っていることができません。世の流れに流され、永存する価値がありません。

 

新旧のいのちが良い行いに至る異なる方法、源と土台:

 

新しいいのち

古いいのち

良い行いの方法

主に祈り主に頼り主を仰ぎ主を賛美する。

自分の見方、理性、分析に頼る

良い行いの源

キリストにあって、新しいいのちによる。

アダムにあり、古いいのちに頼る。

良い行いの土台

主の御名を求め、聖霊に従って行ない、聖霊の力により行なう。

自分の努力、知恵才能に頼って行なう。

永遠の価値

金、銀、宝石

木、草、わら

 

 

 

 

 

 

 


1