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いのちの御霊の原理(一)

 

これまで、如何にしていのちを得るかについて強調して語ってきました。今からの学びでは、新しいいのちがどのように健やかに成長していくのか、お話していきたいと思います。

私たちが主イエス・キリストを信じる時、イエス・キリストとつながります。永遠に絶ち切られることのない関係に入り、永遠に滅びることはありません。新しいいのちが健やかに成長できるかどうかは、私たちとイエス・キリストとの関係がどのように現実的になるのかにかかっています。言い換えれば、イエスを信じ、イエスとつぎ合わされた人は、どんな人や物事(自分自身を含む)によっても、キリストから離されることはありません(ロマ8:31-39参照)。キリストとの関係が親密なのかどうか、現実的なのかどうかは、新しいいのちが健全に成長するか否かの根本的要素になります。

 

「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。(Ⅰコリ3:1)」

「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。・・・私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。・・・なぜなら、キリスト·イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。・・・けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。(ロマ7:14188:29)」

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。・・・しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。・・・もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラ3:35:1825)」

 

私たちは主を信じた後、心から主に喜ばれたいと願います。主のみことばとその御旨をよく理解していると思い込んで、自分の知恵、力、才能を用いてしまいます(肉に属する「私」の方法で神の御旨を成し遂げようとする)。しかし、その結果はパウロの経験と同じです。「私は、ほんとうにみじめな人間です。・・・(ロマ7:24」少しばかりできたように思える時もありますが、根本的にはできるはずがありません。では、自分の力で頑張ろうとしている時、神の側では、どのように私たちを見ておられるのでしょうか?「律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。(ガラ3:10」つまり、私たちが自分に頼って行なうことを、神は喜ばれません。骨折り損とは、まさにこのことです。

 

    では、どのように「神に喜ばれる」道を正しく歩むことができるのでしょうか?この道について、更に考えてみましょう。

一、二つの道、二本の木、二つの土台:

  主イエスは、マタイの福音書5-7章で天国のおきてを宣言しました。つまり、天国の民にあるべき品性についてはっきりと語られたのです。主イエスのここでの教えは、ユダヤ的傾向が強いですが、しかし、当時または将来におけるイスラエルの民だけに言っているのではありません。この教えは、時代を超えて、イエスを主、王として認める人に対して語られているのです。ですから、この垂訓はクリスチャンのあるべき品性を明確に表しています。

  私を含め、多くの人々がこの箇所を読んで、このように言います。「主イエスの教えは素晴らしいけれど、とても守れません。」前回の学びでマタイ7:7-28の箇所に少しふれましたが、今回はそのことを続けてお話したいと思います。ここでは、天国の民はどのような品性を持つべきかと議論するのでなく、イエスが話された天国の民が持つべき品格を、どのようにすれば持てるのかについてお話ししましょう。

    主イエスがマタイの福音書567章の初めにおいてなされたことは、何をすべきで、何をしてはならないかという、天国の律法の宣言でした。この律法を見聞きする人々は、こう思いがちです。「旧約の律法はただ外面的な目に見える道徳行為でしかないが、私たちはこれさえも守れない。しかし、天国の民の律法は、見える道徳行為から心の考えや動機まで、人に対する要求が引き上げられている。旧約の律法よりもはるかに高い要求を、どうやって守ればよいのか?」と。以前、私は、「できるだけ守ろう。できることだけをすればいい。しないよりはましだから。」と思っていました。もちろん、そうするならば最後には、「私は、ほんとうにみじめな人間です。・・・」ということになります。

イエスはして良い事と、してはならない事とを話された後、これらの品性を持つ道と源、そして土台とを示してくださいました。マタイ7711節を一緒に読みましょう。主イエスは、このように言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。・・・してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良い物を下さらないことありましょう。(ルカ11:9-13参照)」

    主イエスはここでこのように示されました。天国の民にあるべき品性を持つには、自分の知恵や才能、能力によるのではありません。それは、神に求め、捜し、門をたたく新しい道です。著名な聖書学者であるウィリアム・マクドナルドは、「この聖句は神を信じる人、また信じていない人にも同じように適用できるが、しかし、ここでは事実上、信徒に対して語られている」と解釈しています。

()二本の道:二つの異なる目的が、二つの異なる価値となる(マタ7:13-14参照)

ニ本の道、ニつの価値の比較

ニ本の道

達成する目的

永遠の価値

信仰の道を歩む(主の御名を呼び求める道)

永遠のいのち(神に喜ばれる)

永遠に続く

信仰の道を歩まない

(自分の才能、理性、分析に頼る道)

滅びに至る(主を信じた人にとって、魂の滅亡を意味するのでなく、神の目的に沿って生活していないため、神の前では、その生活は無駄であり、浪費である。)

価値がない

1、信仰の道とは、主の御名を呼び求める道:これは「永遠のいのち」へ導く唯一の道です。主イエスは人となって地上に来られ、救いを完成されました。「・・・私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。・・・そのようなわけで、私たちは・・・全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブ10:20-22)」このように、神の御前へ行くことのできる信仰の道を設けてくださった主に感謝します。

1)信仰に始まり――狭い門から入る:主イエスは、天国の律法の要求を満たす第一条件が、信仰の道を歩むことだと示されました。すなわち、「狭い門から入る」ということです。イエスは言われました。「わたしは羊の門です。・・・だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(ヨハ10:79)」以前主を信じていなかった私たちですが、一度信じて、イエスを呼び求め(私は罪人で、自分を救えませんから、イエスを私の救い主として受け入れます、と祈り)、狭い門から入れば、救われるのです。私たちは生まれ変わり、永遠のいのち(新しいいのち)を得ました。

2)信仰に進ませる――狭い道を歩む:主を信じた後、私たちは生活と行いにおいて、信仰の道を歩まなければなりません。毎日、私たちが如何なる事(困難の大きさに関わらず、私たちの古い性質が明らかにされ露わにされるような、私たちが望まないすべての出来事)に直面しても、「主よ、私には何もありません。出来事を前にして、自分に頼りません。自分の力では、あなたの基準に達する力も知恵もありません。主よ、私が自分から解放され、自分に頼らないように助けてください。主に感謝します。あなたのいのちが私の内にあり、あなたはわがいのちです。私はひたすらあなたのいのちにすがって、その基準に達します。」と祈りつつ、主を求める道を歩まなければなりません。これが狭い道を歩むことです。この門が狭く、道も狭いのは、自分の能力、理性、知恵によって行なうことができず、ただ信仰の道を、主の御名を呼び求める道を歩むしかないからです。その他の方法はありません。そして、それを見いだす者は少ないのです。

   この信仰の道(主の御名を呼び求める道)を歩むことのみが、私たちを永遠のいのちへと導くのです。ここでの「永遠のいのち」とは二つのことをあらわしています。一つは永遠のいのちを得るということで、もう一つは、信仰による行いのみが、神の要求(天国の民にあるべき品性)を満たし、永遠に続く価値があるということですヨハ4:36参照

2信仰の道を歩まない:滅びに至る道。

1ご存じの通り、主を全く信じない人の結末は、神との永遠の離別、永遠の滅びです。

2神を信じている人が、自分の熱心、才能、経験、知恵、力等によって行なうなら、信仰の道を歩んでいません(つまり、信仰によって生活しない人です)。

ウィリアム・マクドナルドは、マタイ71314節のみことばにある「滅び」とは魂を失うことではないと解釈しています。それは、神が備えられた存在の目的に沿って生活していないという意味で、神の御前ではそれは無駄であり、価値のないものだと言うのです。(聖書の原文によると、ここでの滅びは無駄、浪費の意味になります)

主イエスはここで、天国の民の品性を得るためには、まず信仰の道を歩まなければならないとおっしゃっています。つまり、自分が罪に売られた人間であり、汚れており、神の基準に達することができないことを認めるのです。それと同時に、主イエス・キリストが私のいのちですから、自分に頼って何かをするのではなく、ただ主の御名を呼び求めるなら、主が必ず助けてくださり、その基準に達することができると信じるのです。

(二)二本の木:二種類の異なるいのちが、二種類の異なる実を結ぶマタ7:15-18

二本の木とは、二種類の異なるいのちの木を指しています。悪い木は悪い種類の木であり、悪い実は悪い種類の実です。良い木は良い種類の木であり、良い実は良い種類の実を指しています。もし、木を人間のいのちの土台に例えるなら、この世には、二種類の異なるいのちの木(アダムにあるか、キリストにあるか)しかありません。もちろん、異なるいのちの木は異なる実を結びます。

1、悪い木――アダムにあるいのち(アダムは神に逆らったことにより罪に支配され、そしてその罪を世界に持ち込んで全ての人に及ばせ、悪い木となった)。両親から生まれたいのちを、聖書は古い人と呼び、一般的に、私たちはそれを肉に属するいのちと呼んでいます。それは悪い木(それに対してイエスは良い木)です。悪い木は悪い実を結びます(腐った実という意味ではなく、実の種類が悪い)。これが悪いのは、そのいのち(悪い木)が神の基準を満たせないだけでなく、その行い(悪い実)が神に敵対しているからです。アダムにあるいのちの、その根本的な表れ(悪い実の本質)は自己中心です。自慢、劣等感、自己憐憫、横柄、プライド、驕り------自分のためなら平気で人を犠牲にしてしまいます。

   2、良い木――キリストにあるいのち(主イエスは神に従い、人となって地上に来られ、救いを完成された。主に従う人々のために永遠の救いの源となり、永遠のいのちの源となられた。)。聖霊によって新生した新しいいのちは、神の子のいのちです。それは、従うことのできるいのちであり、永遠に続き、朽ちることのないいのちであって、良い木に属します。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。Ⅰペテ1:23」。これが良いのは、そのいのちが天国の民の品性(神の要求)に達し、神に喜んでいただけるからです。良い実(神の要求を満たす行い)を結ぶ木が良い木であり、この良い木だけが、天国の民にあるべき品性()を結ぶことができるのです。

この例え話の中で、イエスは、木の種類がその実を決めることを語っておられます。二種類の異なるいのちの源から出る二種類の異なるいのちの木が、二種類の異なる実を結びます。天国の民の品格を得たいなら、キリストから出た新しいいのちの木からでないと、良い実を結ぶことはできません。自分の知恵、能力、意志によって良き行いをしようとしても、それは悪い木が良い実を結ばせようと願うのと同じです。表面的には良く見えたとしても、実際には悪い木に「偽物」の良い実を飾っているだけです。なぜなら、悪い木は悪い実しか結ぶことができないからです。

ニ本の木、ニ種類のいのち、ニ種類の実との比較

ニ本の木

ニ種類のいのち

ニ種類の実

良い木

キリストにあるいのち

神の御旨に沿って、神に喜ばれる。

悪い木

アダムにあるいのち

神の御旨に沿わず、神に喜ばれないだけではなく、神と敵対する。

 

3二本の木とニ本の道との関係:良い木とは、主の御名を呼び求める道を歩みます。自分では何もできないことを認め、キリストがわがいのちであり全てを成してくださると信じて仰ぎます。悪い木とは、自分の肉や自分の理性に頼って行なう道です。全てを「自分」によって行ないます(「自分」に頼って行なうと、アダムにあるすべての古い人の状態が表れる)。主イエスが話された二本の木とは、私たちがどのいのちによって行なっているかを指しています。「自分」のいのちでしょうか(悪い木)キリストのいのちでしょうか(良い木)?キリストのいのちから出る実は良い物です。「自分」に頼るいのちから出る実は悪い実です。良い木は悪い実を結ばず、悪い木も良い実を結ばないのです。

二本の道、ニ本の木、ニ種類の実とニつの価値との関係

ニ本の道

ニ本の木

ニ種類の実

ニつの価値

主の御名を呼び求める道

良い木:主の御名を求め、キリストはわがいのち、私のためにすべてを成就したと信じて歩む。

結果:神に喜ばれる。

永遠に続く

自分の才能理性の分析に頼る道

悪い木:自分の才能、理性の分析を通して、自分に頼るいのち(罪の支配にある)によって行なう。

結果:神に喜ばれない、神と敵対する。

滅びる(浪費し、無駄である)

 

(三)二つの土台と二つの結果(マタ7:24-27):

主イエスは私たちの行いを、家を建てる例えにしました。

1、 岩の上に家を建てる:主イエスは言われました。「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれ

を行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです(マタ7:24-25)。」主イエスがここで言われた「わたしのこれらのことば」という言葉は何を指しているでしょうか?

以前、私は、単純に人を憎んではならない、殺してはならない、姦淫してはならない等の命令だと思っていました。しかし、このことばの前後の文章をよく注意してみると、「マタ7:7-13」のことを指していることに気付きました。簡単に言うと、「求め、捜し、たたく道を歩む。すなわち、主の御名を呼び求める道を歩む」ことを指しているのです。主の御名を呼び求め、主を私たちの主、私たちの王と認める時、神は人のすべての考えにまさる平安をお与えになり、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいます(聖霊が平安や、みことば、神の御心、つまり注ぎの油の教えを私たちのうちに置かれる)。それで、私たちは聖霊の思い(注ぎの油の教え)のままに行ないます。聖霊の力によって行なう、これが「主のこれらのことばを聞いてそれを行なう――岩の上に家を建てる」という意味です。このような行いが、まさしく家を岩の上に建てることであり、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いても、その家は倒れないのです。

   パウロはエペソ3章14-21節でそのことを語っています。私たちが祈ると、内なる人が強められ、神に導かれます(14-17節)。神の導きを受けた時、神の大いなる力が豊かに全てを成してくださるのです(20節)。では、どのように聖霊に従って歩めばよいのか、また聖霊により頼んで行なうことについて、これからお話しします。

 

2、砂の上に家を建てる:これは、私たちが行なう時に、主に祈り求める道を歩まず、自分の思い、方法、能力、意志によって行なうことであることが明らかです。そうなると、世のさまざまな試練(雨が降って、洪水が押し寄せ、風が吹いて、その家は倒れる)に耐えることができません。たとえ、それに耐えることができたとしても、神の前では、草や木、わらのようで、かの日の「各人の働きの真価をためす」火に耐えることはできません。

 

ニつの土台、ニつの結果の比較

家を建てるニつの異なる土台

ニつの結果

岩 :主の言葉を聞き、実行する(主の御名を呼び求める道を歩み、聖霊に聞き従い、聖霊により頼んで行なう)。

家(私たちの行いの結果)は倒れることがない。永遠に残る。

砂 :主の言葉を聞いても実行しない(自分の才能、理性、分析に頼って行う)。

家が倒れて、その倒れ方はひどかった。

 

(四)主イエスはこれらの三つの例えを用いて、以下のことを説明しています。天国の民の品性を得ようとする(神に喜ばれることを願う)のと、この世的な経験や、能力、才能によって行なうこととは、全く異なります。それは、二種類の全く異なる道を歩むのです。二種類の異なるいのち及び二種類の異なる力の源は、二種類の異なる結果をもたらします。

 

二本の道、ニ本の木、ニつの土台とニつの結果の比較

ニ本の道

ニ本の木

(二つの異なるいのちの源)

ニつの土台

(二つの異なる力の源)

ニつの結果とニつの価値

主の御名を

呼び求める道(信仰の道)

良い木:主の御名を求め、キリストはわがいのちであり、私のためにすべてを成就したと信じる。

主の言葉を聞き、実行する(主の御名を呼び求める道を歩み、聖霊に聞き従い、聖霊に頼って行なう)。

天国の民の品性を得て、神に喜ばれる。その価値は永遠に続く。

自分の才能理性の分析に頼る道

悪い木:自分の才能、理性の分析を通して、自分に頼るいのち(罪の支配下にある)によって行なう。

主の言葉を聞いても実行しない(自分の才能、理性、分析に頼って行なう)。

神の御心にかなわず、神に喜ばれないばかりでなく、神に敵対する。その価値はなく、無駄である。

 

 

二本の全く異なる道:

信仰の道(主の御名を呼び求める道)を歩む。

信仰の道を歩まない(理性の分析に頼る道)

二つの異なるいのちの源:

良い木、キリストにあるいのちの木。

悪い木、アダムにある古いいのちの木。

二つ異なる土台:

主の御名を呼び求め、聖霊に聞き従い、聖霊により頼んで行なう。

自分(あるいは他の人)の意見、自分(あるいは他の人)の能力に頼って行なう。

主の御名を呼び求める道だけを歩む:

「自分がこんなにも汚れており、無力であることを認め、イエス・キリストがわがいのちであり、全てを成し遂げられると信じる。」聖霊に従って行ない、聖霊により頼んで行なう。そうすれば、天国の民のあるべき品性を徐々に持つことができるようになっていく。

二、罪と死の原理

なぜ主の御名を呼び求める道(十字架の道)のみが、神に喜ばれる道なのでしょうか?

パウロは「ローマ書第七章」の葛藤を経て、ようやく「第八章」の解放を得ました。「なぜなら、キリ

スト·イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ロマ8:2

原理とは何でしょうか?原理とは、変わることのない事実を指します。アダムが罪を犯した後、すベての人は原罪(罪の性質)に支配されてしまいました。人の体は原罪に支配されて、罪を犯す体となりました。体は罪の支配の下にあるので、罪を犯さずにはいられません。そのため、人と神との関係が断ち切られ、永遠の死がもたらされたのです(ロマ5:12参照)。

 (一)罪の原理:以下の二つのことを示しています。

一つ目は、アダムが罪を犯して原罪(罪の性質)に支配され、そのために全人類(すべての人がアダムにあって生まれた)が原罪に支配されました。これが変わることのない原理――罪の原理です。つまり、人間である以上、アダムにあって生まれたのです。望んでも望まなくても、知らないうちに罪の性質に支配されています。これが原理です。

二つ目は、アダムにある人はみな原罪に支配されているわけですから、この罪の性質は古い人を動かして、その体は罪を犯すようになります(人間の最大の罪は自己中心)。そのために、古い人には罪を犯さないという自由がないのです。無意識で犯してしまう、これが原理です。

(二)死の原理:望む、望まないにかかわらず、原罪に支配されると、この罪の性質は体に罪を犯させます。その結果が死です。そのため、罪に支配された人は、その行いの結果が必ず死(神と敵対する。神との関係が絶たれる。)であり、どうすることもできません。これが原理なのです。

 (三)罪と死の原理:アダムにあって生まれた人は、必ず原罪に支配され、罪を犯さずにはいられず、

その結果、必ず死にます。これが罪と死の原理であり、どうすることもできません。したがって、アダムにある人は、神に喜ばれることができません。なぜなら、罪を犯さざるを得ないからです。罪を犯さないという自由がなく、神の御前で、神と敵対し、神との関係が絶ち切られ、死なずにいることはできません。ロマ5:12参照

三、イエス・キリストは、どのように私たちを罪と死の原理から救ってくださったのでしょうか?

(一)罪の性質、罪の行いの呼称:

   罪の性質:聖書では、罪の力(Ⅰコリ15:56)、罪(ロマ5:1221)と呼ばれています。ある本では、原罪、罪の源としています。

   罪の行い:聖書では罪ロマ5:12)と呼んでいます。本罪と称する本もあります。

(二)神の救いについて繰り返し語ることをお許しください:

1、キリストの尊い血によって、神は私たちの罪(罪の行い)を赦され、すべての罪を取り除いてくださいました。それゆえに、神の正しい律法の前で、私たちはすでに罪人ではありません。しかし、血は罪の性質を洗い流すことはできません。

    2、血は罪(行い)の赦しを解決することができますが、罪の性質の問題を解決することはできません。もし、罪の性質がやはり私たちを支配しているなら、今日は罪を犯して、明日は罪を清めるということになるでしょう。罪を犯し、罪を清めるという悪循環になってしまいます。(異端の東方イナズマ派は、イエスの成された救いがここまでであるとしている。彼らの信じているイエスは、人の罪を洗い清めることができるが、罪の性質から解放することができない。彼らの信じているイエスと私たちが信じているイエスとは異なっている。

   3、神の救いは決してこのようなものではありません。完全に私たちをお救いになります。神は、原罪の問題を必ず解決されます。では、どのように解決されたのでしょうか?神は罪の性質を殺したのではありません。また、それを取り除いてもいません。神は、イエスの十字架をもって私たち罪人(罪の性質に支配された人)を取り扱ったのです。神は、イエスの十字架により、私たちが信じることによって、私たち罪人をイエスとともに十字架につけられたのです(すでにお話しした内容です)。主とともに死ぬことによって、私たちを罪(罪の性質)の支配から救ってくださいました。私たちがキリストとともに死んだので、罪(罪の性質)からみれば、私たちは死んでいます。罪(罪の性質)はもう私たちの主、王になることができません。なぜなら、「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(ロマ6:7)」罪に支配されませんから、私たちには罪を犯さなくてもよいという完全な自由があります。

このようにまとめることができます:神はイエスの血をもって私たちの罪の行いを取り除き、イエスの死によって、私たちが信仰によって主とともに死ぬことにより、罪の支配から解放してくださいました。

    4、主に感謝します。私たちは、信仰によって主とともに死ぬだけでなく、更にイエスの復活により主とともに生きることを信じ、新しいいのちが与えられました。主を賛美します。私たちは、主の御名を呼び求めることにより、罪に対しては死に、神に対して生きます。罪においては死に、義においては生きるのです。自分の努力に頼らず、聖霊の大いなる力に頼ります。弱くなって死に、栄光の復活に至るのです。

    神はすでにイエスの血によって、私たちの罪過を取り除いてくださいました。イエスの十字架によって、罪に支配された私たちを、信仰により主とともに十字架にかけてくださり、私たちの古い人が死に、原罪から解放してくださいました。私たちは罪の性質から解放されて(罪の性質はもう私たちの主になれない)、罪の原理から解放され、当然死の原理からも解放されました。

(三)十字架の道:私たちが主を信じた時、信仰により(主の御名を呼び求めることにより)、これらのことはすでに全て成就しました。しかし、この完成した救いを、どのように私たちは自分のものとして体験することができるのでしょうか?私たちが主を信じた時、主の御名を呼び求める十字架の道によって救われたように、信じた後も、続けて主の御名を呼び求めて(主のうちにとどまり、主と更に親しく、現実的につながっていく)十字架の道を歩むと、いのちが成長していきます。この道は、自分の無力を認めて、主の救いの道を待ち望むものです。主の御名を高く掲げて、主が主であると認める道です。聖霊によって歩み、聖霊に服従し、主にいのちの御力があることを認める道です。これは、主の恵みを待ち望む道です。十字架の道を通して、主とともに死に、ともに復活することを体験していきます。また、罪の支配から絶えず解放され、体の悪しき行いが死んでいき、いのちが成長していきます。良い実を結び続けて、神に喜ばれる子どもとなるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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