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いのちの御霊の原理(二)

 

一、主イエスが十字架の上で完成された救いについて、再び考えましょう:   心から、このように祈り求めます。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。(エぺ1:17-22)」

(一)神が私たちのために用意された救いは、イエスによってご自分の民をその罪から救い出すことであることを再度確認しましょう(マタ1:21)。

新約聖書において、特にローマ人への手紙で語られている罪とは、罪の性質と罪の行いに分けられます。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。(ロマ5:12)」そのため、この世の全ての人は罪の性質に支配され、罪を犯さずにはいられません。神の救いは、イエスによってその民を罪から救い出すことです。「罪」には罪の行いと、罪の性質が含まれています。ですから、神の救いは、罪の行いを解決するだけではなく、罪の性質の問題をも解決しなければなりません。神は、以下のことによって、それを成就されました。

イエスは私たちのために死なれた:イエスが私たちのために死ぬことにより、十字架の上で流された尊い血によって、私たちの罪の行いを聖めました。その血により、神に対する私たちの罪の負債を支払われ、私たちは受けるべき罪の裁きから免れました。

イエスとともに死ぬ:イエス・キリストの十字架上の死は、私たちが信仰によって主とともに死ぬことにより、罪の性質の支配から私たちを救いました。なぜなら、「死んでしまった者は、罪から解放されている(ロマ6:7」からです。

神を賛美します。イエスを信じたその日から、罪は再び私たちの主になることはできません(ロマ6:14参照)。

 

(二)十字架は新しい人と古い人との分岐点:信仰によって、私たちは主とつながり、私たちの古い人が主とともに十字架に付けられました。主とともに死に、死んでともに葬られ、埋葬されました(アダムにある古い人はここで終わった)。主とともによみがえり、復活して新しいいのちを得て、新しい人になりました(キリストのうちにあって新しい人が始まった)。私たちの肉の体は、実際には、死と埋葬と復活を経ていませんが、信仰によって主とつながり、キリストが経験されたすべてのうちに私たちは入れられました。神は十字架により、私たちをアダムからキリストへと移されました(Ⅰコリ1:30)。ですから、十字架は古い人と新しい人との分岐点なのです。新しい人は古い人の改良ではなく、生まれ変わった、霊のいのちを持つ新しくされた人です。罪の性質に支配された人(古い人)は、いくら改良しても罪に支配されない人になることはできません。霊のいのちを持つ人にもなれないのです。

 

(三)イエス・キリストは最後のアダムであり、第二の人です(Ⅰコリ1545-47参照)。

1、罪の行いと性質との関係から見ると、イエス・キリストは最後のアダムです:主は全人類の代表となったため、人類の罪(行い)を身に負い、十字架にかかって死なれ、排除されました。最初のアダムは罪(罪の性質は人を支配し、罪を犯さざるを得なくする)を世界に招き入れました。最後のアダムは人の罪を取り除きました(その血によって人の罪の行いを取り除き、その死によって、罪の性質の支配から人々を救った)。最後のアダムは、歴史においてはベツレヘムに始まり、十字架の死を経て、墓に埋葬されるに至りました。

2、諸族のかしらとして見ると、イエス・キリストは第二の人です:アダムが最初の人と呼ばれたのに相対します。アダムは古い人のかしらですが、イエス・キリストは復活して、第二の人――新しい人のかしらとなりました。第二の人はイエス・キリストの復活から始まって、永遠に生きるのです。

(四)すべての人はアダムにあって生まれましたが、十字架はすべての信じる人をアダムからキリストへ移します。

  アダムにあることとキリストにあることは、すでにお話しした悪い木と良い木のニ本の木と同じです。アダムが背信を犯して罪に支配され、悪い種となったので、アダムから出たいのちの源は悪い木です。イエス・キリストは神の子が受肉して人の子となりました。イエス・キリストは死に至るまで自ら進んで従い、朽ちることのない種となったので、イエス・キリストから出たいのちの源は良い木です。

(五)神の救いの計画図を見てみましょう:

  中心にあるのは十字架です。十字架の左側をアダムにある状態とするならば、十字架の右側はキリストにある状態となります。

 

神の救いの計画図

 

 

(六)アダムとキリストにある状況と身分の比較:

アダムにあって

キリストにあって

罪(罪の性質)はアダムの背信から来た

義はキリストの従順によって与えられた

罪(罪の性質)に支配され、死ぬ

義に支配され、キリストによって永遠

のいのちが与えられた

罪と罪過の中で死んでいた

キリストの救いによってよみがえる

肉に属する人

霊に属する人

肉にあって、肉により行う

聖霊にあって、聖霊により歩む

律法の下にいる

恵みの下にいる

全ての人は罪(罪の性質)に支配された

罪人

全ての人は信仰によって義とされた義人

アダムは古い人のかしら

イエス・キリストは新しい人のかしら

 

(七)霊に属する人、肉に属する人、生まれながらの人について、ある聖書学者はこのように言っています。

霊に属する人は、救われて生まれ変わり、新しいいのちを得て、聖霊によって歩む人。

肉に属する人は、救われて生まれ変わり、新しいいのちを得ましたが、聖霊に従わず自分の意思や才能、力で歩む人。このような人を肉に属する人と言います。

生まれながらの人は、一般的には、まだ神を信じていない人を指します。

 

(八)肉体はアダムとつながり、聖霊はキリストとつながります。

1、私たちはアダムにあって生まれました。

2、私たちは主を信じて、身分上は、アダムからキリストへと移されました。これは、イエス・キリストが私たちの身にすでに成された客観的事実です。

3、どうすれば、この客観的事実が私たちの主観的体験になるのでしょうか?(前回の学びで少し触れましたが、ここで続けてお話しします。)

私たちは主を信じて、キリストにある人となりました。しかし、なぜ、「アダムにある」すべてが変わりなく、まだ私たちの身に表れるのでしょうか?キリストが救いを完成された客観的事実を、どのようにして私たちの主観的体験とすればよいのでしょうか?

 

ローマ第7、8章で「肉に生きる、聖霊に生きる」等の言葉はありませんが、その意味ははっきりと示されています。肉はアダムとつながり(ロマ7:518参照)、聖霊はキリストとつながっています(ロマ8:2)。

神の子どもとして、神は日々起こる全ての出来事を用いて、私たちのいのちを成長させてくださるると確信します。ですから、起こるすべてのことが神の要求(つまり律法の要求)であると確信しましょう。神の要求は永遠に聖く、公正です。ただ恵みによって(キリストが私のいのちであることにより頼んで)、それを完成するのです。

「肉に生きる」の意味:毎回起こる神の新しい要求(日々直面する全ての出来事)に、私たちはどのように対処していますか?もし「自分」によって行なうなら、自分の力に頼り、経験に照らし合わせ、主張して行なうので、罪に支配されてしまいます。そして、「アダムのうちにある古い人の状態」が私たちの身に明らかに表れます。私たちがキリストにある事実とは全く反対で、まるでキリストに属していないのと同じようになるのです。なぜなら、肉はアダムにつながっているからです。

「聖霊に生きる」の意味:毎回起こる神の新しい要求(日々直面する全ての出来事)に、私たちはどのように対処していますか?自分に頼ってすることはできませんし、すべきでもありません。キリストが私のいのちであると信じて仰ぎます。聖霊が私の内で働くことにより、神が私に望むことを成し遂げることができると信じて神を仰ぐのです。神は私たちに争ったり、闘ったりさせるのではなく、神の内に安息するようにされます。真の勝利は肉の力によるのではなく、主の栄光によって導かれていくのです。ただ聖霊のうちに生きることにより、主イエスが完成された救いの客観的真理が私たちの主観的体験になっていきます。ですから、救われて、キリストのうちにあるだけで満足するのではなく、聖霊にあって生きようではありませんか。聖霊はキリストとつながっているのですから。

二、律法の下にはなく、恵みの下にあるからです(ロマ6:14)

   「律法」と言う言葉は、狭い意味では旧約の律法を指します。その代表とするものは十戒です。広い意味では、神からの人に対する要求(聖さと正しさ)です。ある人は、「律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」を誤解し、もう律法に縛られることなく、好き勝手に生きられると思っています。これは大きな間違いです。「律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」とは、律法の要求を全うする必要はない、という意味ではありません。この言葉の実際的意味は、どの方法によって律法を全うするかということです。律法の下にはなく、恵みの下にあるので、神を信じ、罪に支配されることはありません。キリストが私のいのちなので(聖霊によって歩み、聖霊に寄り頼んで行なうので)義とされ、律法の要求を全うすることができるのです。

律法の下にいる:自分の意思、知恵に頼ることを意味します。自分の力、熱心、才能等で行ない、日々直面するさまざまな出来事に対処します(つまり、自分の努力によって神の聖さと正しさの要求を満たそうとする)が、もちろん、誰一人それを満たすことはできません。以前お話ししたように、私たちが自分に頼ると、すぐに罪の性質の支配下に置かれ、その行いの結果は必ず神と敵対します。「二本の道、二本の木、二つの土台」でお話ししましたが、一つの事が解決されたとしても、別の事は解決できません。例え表面上は解決したようであっても、神の御前では、その要求を満たさない「悪い実」であるだけでなく、浪費であり無駄で、永遠に続く価値はありません。

  恵みの下にある:古い人がイエスとともに十字架につけられ、すでに死んだことを認めるという意味です。ですから、私たちは自分の努力で律法の要求を満たし、日々直面するさまざまな事を対処することはできませんし、そうすべきでもありません。主の御名を求めつつ、聖霊に従い、寄り頼んで、一歩一歩導かれて律法の要求を全うします。

 

三、いのちの御霊の原理:パウロはこのように言いました。「なぜなら、キリスト•イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ロマ8:2)」

すでに神の人々に対する救いについてお話してきました。イエス・キリストが十字架にかかられ、死んで埋葬され、復活されて、その救いは完成しました。主は、天に昇られ、父なる神の右に座しておられます。父なる神はイエス・キリストの御名によって聖霊を与え、救いを推し進めてくださいます。かの日には再び来られて、教会を携挙され、永遠に主とともにいられるようにしてくださいます。なんと素晴らしい救い、栄光に満ちた、幸いな望みであることでしょうか。

   私たちは以下のことを知っています。主イエスが成就された救いは、人類の再創造です。古い人は主とともに十字架につけられ、罪から解放されたのです。

また、これらのことも知っています。私たちは、もう律法の下には生きません。自分の力に頼って、神の要求を満たそうとしません。恵みの下にあり、神の力に頼り(キリストはわたしのいのち。聖霊に従い、寄り頼んで歩む)、神の要求を全うします。律法の下では、私が神のために行ない、努力して神の要求を満たそうとします。しかし、恵みの下では、神が私のためになしてくださいます。私たちは祈り求め、仰ぎ望み、キリストは私たちのいのちですから、聖霊の力で神の要求を成就するのです。

肉によって歩まず、聖霊によって歩むことを、私たちはすでに知っています。そして、聖霊にあって生きることと、肉にあって生きることとの二つの異なる生活についても比較しました。

   では、一体どのようにして聖霊にあって生きるのでしょうか?クリスチャンは一体どのように生活すべきでしょうか?続けて考えていきましょう。いのちの御霊の原理とは何かを、私たちは知らなければなりません。

   まず、以下のことを考えてみましょう。律法とは何ですか?(狭義と広義における)新約とは何ですか?旧約とは何でしょうか?新約と旧約との違いはどこにありますか?どこが新しく、どこが古いのでしょうか?(ここでは重複しませんので、すでにお話しした内容を比較してみてください。)

(一)新しいいのちの生活の根拠:新しいいのちは、いのちの御霊の原理によって生活します。

  新しいいのちは、いわゆる律法(狭義では、モーセの律法を守ること。広義では、神からの人に対する聖く正しい要求)の下で生活することではありません。つまり、自分の力で自分を抑制して律法を頑張って守るのではありません。また、好き放題に生きるのでもありません。新しいいのちには律法があり(Ⅰコリ9:21参照)、いのちの御霊の原理によって生活するのです。

(二)いのちの御霊の原理の異なる用語:聖書の中では、さまざまな角度からいのちの御霊の原理について記されているので、いろいろな呼び名があります。いのちの御霊の原理の他に、ヤコブ125節では完全な律法、すなわち自由の律法と言っており、また、キリストの律法(ガラ6:2、Ⅰコリ9:21)とも呼ばれています。繰り返し言いますが、主を信じるとは、神の聖く正しい要求を満たすために、自分の力で自分を抑制し、律法のおきてを頑張って守るのではありません。では、一体どうすればよいのでしょう?それは、新しい律法を行なうのです。その律法とは、

1、いのちの御霊の原理:

いのちを得る角度から見てみると、私たちがイエスを仰ぎ望み、呼び求めるゆえに、聖霊は私たちを生まれ変わらせ、いのちを与え、豊かないのちを与えてくださいます。これは原理です。

主を信じる時、イエスを仰ぎ望んで呼び求めると、聖霊が私たちの心に入られて、いのちが与えられます。聖霊はいのちをお与えになります。主を信じた後も、私たちはイエスを絶えず仰ぎ望み、呼び求めます。聖霊が続けて私たちの心の中で導き、豊かないのちを与えて、私たちのいのちを成長させてくださるのです。

2、人を完全に自由にする律法:

人を自由にする(人は旧約の律法を守れないため、旧約の律法は人を不自由にし、かえって縛りつけてしまう。この新しい律法は、人に神の要求を満たしたいという思いを起こさせ、且つ、全うできるようにする) 角度から見ていくと、この「完全」という字は、主イエスが十字架の上で言われた「完了した」と同じ言葉です。すなわち、主イエスが十字架の上で神の救いを成就された時、人が守ることのできる律法を完成されたのです。主イエスは、聖霊の内住によって私たちのいのちとなりました。それゆえ、神の私たちへの要求(内側の感動あるいは外側で直面する出来事)は、神御自身が(キリストは私のいのちであり、聖霊を通して)成し遂げられ、私たちは聖霊によって歩み、聖霊に寄り頼んで行ないます。つまり、「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい」ということです。皆さん、私たちはこの人を自由にする律法にあって生きるべきです。なぜなら、キリストの裁きの前で、私たちは「自由の律法によってさばかれる」からです。(ヤコ1:252:12

3、キリストの律法:

キリストと律法の関係から見てみましょう。「キリストが律法を終わらせたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ロマ10:4)」この聖句の意味の一つ目は、イエス・キリストの生涯は完全に律法を守った一生だったということです。キリストはその死によって、人が律法を犯して受けるべき裁きの代価を支払われました。罪人である私たちが主を受け入れた時、信仰によって主とともに死にました。「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。・・・しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(ロマ7:4-6)」それで、律法は私たちにもう要求できません。二つ目の意味は、イエス・キリストが十字架上で新しい律法を完成されたということです。それがいのちの御霊の原理なのです。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ロマ8:4)」

(三)いのちの御霊の原理の内容:

すでに「聖霊がなされる救い」の学びでお話ししましたので、ここでは、ただ総括的にまとめます。

1、主イエスは大いなる救いの御業を完成され、天に昇られました。父なる神はイエスの御名のゆえに聖霊を賜って救いの御業を成されます。聖霊は、すべて主を信じる(御名を呼び求める)人の心に内住されます。心から主を呼び求めるなら、聖霊は必ず働かれます。神は聖霊を求めるすべての人にお与えになります(ルカ11:13参照)。これは原理であり、例外はありません。

2、主イエスは聖霊によって、私たちの内側に住まわれます。キリストは私たちのいのちです。

3、神はすでに聖霊を私たちにお与えになられたので、私たちはもう律法の下に生きてはならず、恵みの下に生きます。もはや古い文字によって主に仕えることもなく、律法のおきての苦しみを受ける必要もありません。新しい御霊によって、聖霊に従って歩みます。「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」(エレ31:31-33参照)

4、いのち御霊の原理には、以下の三つのことが含まれています。

1)神の要求:

私たちは箇条書きされた律法の要求を守る必要はありません。しかし、神の要求を満たさなければなりません。毎日の生活の中で、聖霊は各自新しいいのちの成長レベルに合わせて、異なる要求をされます(身辺で起こるいろいろな事を通して、私たちの古い性質を露わにされたり、また、私たちの心に言葉や思いを通して示し、責めや導きも与えてくださる)。

2)いのちの御霊の原理の内容:

神の要求に対して、私たちは絶えず主を仰ぎ望み、呼び求め、感謝し、主を主として認めます。聖霊は私たちの心の内で導き、教えられます。この導きと教えの内容がいのちの御霊の原理の内容です(注ぎの油の教え)。聖霊は個人のいのちの成長の程度に合わせて、私たちを導き、教え、伴われます。これが私たち人の心の板に書かれるという意味です。(イザ40:11、ヨハ16:13、Ⅰコリ13:11、ヘブ5:13-14

A、必ずキリストの平安がある

B、神のみことばの要求にかなっている

C、真理の原則に違反していない

D、神は要求するだけでなく、同時に、私たちが守り行ない、神を敬い従う力をお与えになる(キリストは私のいのちと力。エペ3:14-21参照)

  主は言われました。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(エゼ36: 26-27

  「わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。(エレ32: 40)」

E、一人ひとりが自分のいのちの成長レベルと信仰の深さに応じて、慎み深い考えをするべき(ロマ12:3、ピリ3:16、Ⅰテモ3:13参照)。

これはとても大切なことです。

F、神は要求するとともに、私たちの内でその要求を達成する力となられる。

聖霊は私たちのいのちの成長レベルに応じて導かれます。いのちの御霊の原理と律法を守ることとの根本的違いはここにあります。律法を守るとは、律法が命じるままに自分でそれを行なおうとします(当然行なうことはできず、一生懸命自制し、頑張っても、結局は無駄に終わる)。いのちの御霊の原理とは、私たちのいのちの成長レベルに応じて神が日々求められることについて、私たちは主を仰ぎ望み御名を呼び求めます。そうすれば、聖霊が私たちの心を導いて示してくださり、その要求を全うできる力をくださいます。

3)聖霊によって歩む:

聖霊の導きによって歩みます。聖霊に従っていくなら、必ず神の要求を全うすることができます。(ロマ8:4参照)

自分の力に頼って、神のことばに従うのではありません。かえって、聖書のみことばを心にたくわえ、昼も夜も思いめぐらし、絶えず祈り求めることによって、聖霊は聖書のみことばをもって私たちに示してくださいます。そうすれば、従う力が与えられ、従い続けることができます。このように、聖書が語っている基準に到達できるようになります。つまり、自分の力でみことばを一生懸命に守るのではなく、聖霊の導き(恵みの下にあるという意味。自分の力ではなく、聖霊の大能の力に頼る)に従って、聖書のことばやその意味をもって聖書の基準に達します。これこそが「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ロマ8:4)」という歩みです。

旧約の律法が私たちを縛るようになったのは、律法が永久に不変で、また、力がないからです。ただ基準を表す定規のようで、私たちに要求するだけだからなのです。

    これで、なぜいのちの御霊の原理が人を自由にする律法であるのかがお分かりでしょう。神の要求に直面する時(つまり、心の内側や外側での出来事に直面する時)、自分の力に少しも頼らず、ただ主の御名を呼び求め、聖霊の導きにより、神の要求を全うすることができるのです。自由なのは、すべての起こる事に対し、「自分に頼らず、主により頼む」ことにより、私たちの考えをはるかに越えた大いなる力と思いがけない平安で導いていただけるからです(エペ3:14-20)。できない(どうにもならない、あるいは、なんとか頑張ってする)ことは、私たちをがんじがらめにします。しかし、できる(平安と喜びに満たされて行なう)ことは、自由にされます。なんと素晴らしい救いでしょうか。

5、聞くには早く(心の中での聖霊の導きに聞く。いのちの御霊の原理の導き)、語るにはおそく:

私たちがいのちの御霊の原理の中に生きているなら、聞くには早く、語るにはおそくなれるように自分を訓練すべきです。物事を行なう前にまず主に求め、主の導きを待つのです(ヤコ1:19-20、イザ31:1参照)。それから、心の平安と外側の調和の中で行ないます。内側と外側の調和がある時に話し、行なえるように訓練しなければなりません(ヤコ1:26参照)。私たちの古いいのちの本来の姿は、何か起こるとすぐに「すばやく反応し、思い煩い、八方手をつくし、考えをぶちまける」といったものです。不合理な事が起こるとすぐに激怒し、批判したり、論争したりします。ヤコブは、「聞くには早く、語るにはおそく・・・」と励ましています。そうです。私たちは、「聖霊によって私たちの内に住んでおられる主キリスト」を尊重すべきです。「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。(Ⅰペテ3:15)」「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリ4:6参照)」主イエスが聖霊を通して私たちに語っておられることを早く聞き、聖霊の導きによってゆっくりと話し、行なうのです。何か起こるとすぐに、「話すには早く」ではいけません。ヤコブはこのようにも励ましています。「自分は宗敎に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗敎はむなしいものです。(ヤコ1:26

    主が再び来られる時、信徒は空中に携挙されます。すべての信徒はキリストの裁きの前で清算をし、裁かれます(これはクリスチャンの清算であり、未信者が終末に受けなければならない大審判とは異なる)。神の裁きの原則は「自由の律法」によって裁かれることです。ですから、私たちはこの律法によって語り、行なうのです(ヤコ2:12参照)。

6、兄弟姉妹の間で互いに批判しあったり、論争したりしてはなりません。すべて救われて新生した人の心には聖霊が住んでおられるので、私たちは聖霊の律法によって生活しましょう。もし、兄弟をさばくなら、聖霊の律法をさばいているのと同じです(ヤコ4:11参照)。もし、兄弟姉妹の間に不適切なところがあるなら、私たちはこのような態度を取ります。まず、主を求め、聖霊の語りかけと導きによって、励まし、慰め、御霊の交わりをし、愛情とあわれみをもって行ないます(ピリ2:1-2参照)。

7、いのちの成長は一生をかけての道のりであることを認めましょう。一人ひとりの成長レベルと道のりが異なることも認める必要があります。新しいいのちは自分に頼ると、失敗と挫折を繰り返してしまいます。しかし、主に頼るなら、喜びの中で成長するのです。新しいいのちの成長は昼もあれば夜もあり、山も谷もあります。皆、達成できていない部分が多くあることを認めなければなりません。求め続けるクリスチャンは、自分のいのちが成長しているのを認められない、という試みによく会います。自分のいのちの状態を認められないクリスチャンは、他人のいのちの状態をも受け入れることができません。自分の状態が不満で、気落ちしてしまい、他人の状態にも不満で、批判し論争してしまいます。聖霊が自分または他の人をその状態にまで導かれていない場合、決して焦って何とかしようとしてはなりません。

8、祈り求める:他の人または自分の状態を不満に思う時、いのちの成長は一生の道のりであることを認めましょう。焦って何とかしようとせずに、神に内なる人を強めてくださるように求めましょう(エペ3:16参照)。神が私たち(または他の人)の心の要塞を破り続けてくださり、心の思いを奪い返してキリストに降伏させ続け、それによっていのちが成長していきますように(Ⅱコリ10:45参照)。

(四)聖霊に導かれて進み、聖霊によって歩む:

1、肉体と聖霊の対立:

肉欲のままに罪を犯すなら、人々はそれを罪として定めます。しかし、多くのクリスチャンは自分の力で罪に勝ちたい、自分の努力で聖くなりたいと願います(過去の私もそうでした)。もがきつつ神に助けてくださいと願い、それが信仰だと思い込んでいました。しかし、私たちが良い事をしたいと思う時は、「肉」の中に生きているのです。「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。(ロマ7:18)」ですから、自分の努力をやめなければなりません。アンドリュー・マーレーは、「自分を描写することを学びましょう。『私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です(ロマ7:14)』」と言いました。自分の力で必死になって努力する時、聖霊は働くことができません。肉体と聖霊が対立しているからです。神のみことばを聞きましょう。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。(詩46:10)」神は私たちにこう命じられます。「自分のからだを打ちたたいて従わせます。(Ⅰコリ9:27)」「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(ヘブ4:10-11)」皆さん、自分の努力で試みないようにしましょう。「自分」では永遠に善を行なえないのですから。「肉にある者は神を喜ばせることができません。ロマ8:8)」

2、聖霊に頼り、聖霊によって歩む:

聖霊に導かれて進むこととは、聖霊の力によって歩むことです。聖霊によって歩むことは、聖霊の意思に従って行なうことです。すでにお話ししましたが、自分が良い事をしたい時、私たちは肉の中に生きています。もし、自分がどうしてこんなに弱いのかと思うなら、その人は、「私には何もできず、ただ私の内で主のいのちだけが、神ご自身の要求を全うすることができる。」ということがまだわかっていません(理性では知っているかもしれませんが)。自分にはできないと確かに理解した時(いのちの成長に合わせ、徐々に一生をかけて理解できるようになる)、はじめて自分を捨てることができ、自分に頼らなくなり、ようやくキリストのいのちが聖霊によって、私たちの身に神の御業を成されます。(351ページ3参照)

(1)聖霊によって歩む:

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラ5:16)」ここで特別に申し上げたいのは、この聖句で、もし肉の欲望を満たしたくないなら、まず聖霊によって歩む必要があるということが、はっきりとわかることです。つまり、「主」がまず高く掲げられ(主は盛んとなり)、私たちはまず主の御名を呼び求め、その御名を崇め、「私」は衰えなければなりません(自然と肉の欲を満たすようなことはなくなる)。以前、私はいつも自分に頼って「肉の欲望を満足させない」ようにしていましたが、実は、それは自分を高くしていたのでした。これでは、決して「肉の欲望を満足させない」ようにはできません。必ず「主」がまず高く掲げられなければなりません(何かが起こったときに、まず主を呼び求める)。すると、「私」は自然に衰えるのです。

聖霊によって導かれているかどうか、どのようにしてわかるのでしょうか?

聖霊に導かれている印は、心にキリストの平安があり(ロマ14:22、ピリ47、コロ3:15、Ⅰヨハ3:20参照)、聖書の基本的真理と反しない外側の調和がある(ガラ5:22、ヤコ3:17-18、詩123:1-3参照)ことです。

神の要求(私たちが出合うすべての事。外側も内側も関係なく、すべて神が私たちに起こるのをおゆるしになられたこと)に直面する時、私たちはこのようであるべきです。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリ4:6-7心が平安になるまで祈り続け、感謝し続けます(神が私にこれらの事が起こるのを許されたこと、必ず益となり、苦しみは良い薬となること、を感謝する。)。その平安が与えられた通りに(平安のみか、または神のみことばも与えられる)、聖書の真理に反しない範囲で外側の調和に従って歩みます。

    私は、以前自分が聖霊によって歩んでいると思っていました。しかし、ただ心の平安だけを重んじて、外側の調和に注意していなかったため、兄弟姉妹の間において調和がとれない状況に陥りました。自分が理解されない時、私は主のために苦しみを受けていると思いましたが、それは全く大間違いでした。アンドリュー・マーレーは、「もし、少しでも不調和があるなら、それは私たちが肉に生きているからです。」と言っています。

2)聖霊によって歩む:

「従う」とは聖霊に従うという意味で、「頼る」とは聖霊の力に頼るということです。「従う」と言うのは易しいですが、実際には、人は皆自己中心です。神の私たちへの要求に直面すると(周囲の状況や、心の中に示されることによって与えられる要求)、いつも自分の経験、自分の意思を用い、自分の力で行おうとしてしまいます。思ってもいない、望まない出来事が起こると、私たちの第一の反応は、不服、怒り、つぶやき、何とかしようとする、といったものでしょう。ですから、このように主に祈ることができるように自分を訓練しなければなりません。「主よ、私を自分自身から解放してください。自分の思いから解放してください。自分の力に頼ることから解放してください。主よ、私を助けてください。私の心の主となり、王となってください。キリストのいのちが私の内ですべてを成就してください。」

すでにお話ししましたが、人はいつも自分の意思や自分の力で行なうことを好みます。「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。(Ⅰコリ15:46)」そのため、多くの失敗や困難を経て、自分だけを頼り神にどう頼っていいのかわからない状態から、ゆっくりと、自分に多く頼って、ようやく神に少し頼るようになります。次に、段々と自分に頼るのが少なくなって、多く神に頼り、ついには自分に頼らず、完全に神に頼るようになります。これが新しいいのちの成長過程であり、古いいのちが徐々に衰えて、主が盛んになり、私が衰えていく道のりです。新しいいのちは生まれたばかりの乳児から、徐々に子どもとなり、少年、青年・・・と成長していきます。古いいのちは大人から段々と子どもになり、ついに母の胸にいだかれる幼子になります。ですから、パウロは私たちに古いいのちが衰えて、新しいいのちの成長を追い求めるように励ましているのです。「兄弟たち、物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとな(新しいいのち)になりなさい。(Ⅰコリ14:20)」

    少しわかっただけで、一晩で幼児から子ども、青年になれると絶対に思わないでください。頭で理解するのと、新しいいのちが成長するのとは全く異なることです。新しいいのちの成長は完全に、どれだけ主に呼び求め、仰ぎ望み、寄りすがったのか、どれだけ聖霊に従い、頼って歩んでいるのかによります。霊的知識があるのみで、御霊に属することを追い求める実際的体験がないならば、それは「人を高ぶらせます(Ⅰコリ8:1やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。(Ⅰコリ13:1)」

(五)神の義に達する:

繰り返してお話していますが、律法――神から人への聖く正しい要求は、必ず全うされなければなりません。大切なのは、どの方法をもってそうするかなのです。自分のいのちに頼ってでしょうか?それとも、主に頼り、新しいいのち(キリストのいのち)により全うするのでしょうか?自分の力によってでしょうか?それとも、聖霊の力によってでしょうか?答えははっきりしています。自分に頼ってはなりません。主のいのちに頼り、自分の力に頼らず、聖霊の力によって達成するのです。聖霊の導きは、日々自分の身に降りかかる出来事(神の私たちへの要求)を通して、自分の力に頼らず、自分の思いによらず、主を高く掲げ、主を主と認め、すべて神のみこころにあることを受け取るのです。神はみことばや思い、または心の平安をくださるので、私たちは、その内側の平安と外側の調和に従って歩みます。神はこのように私たちが多くの事を経験するのをお許しになり、一つひとつ従っていくことによって(もちろん多くの失敗を経験しますが、ちょうど毎日昼と夜があるように、これは正常な過程です)、段々と自己中心から解放されていき、神中心となっていきます。そうして、いのちは成長していきます。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ロマ8:4)」

    アンドリュー・マーレーはこのように言いました。「神は私たちに救いといのちとをお与えになられただけではなく、聖霊をもお遣わしになり、私たちにすべてのことを理解するように教えてくださいます。それは、主がカナンの地をお示しになられただけでなく、その道をも示されたのと同じです。ですから、私たちは盲人のように日々主に導いていただくのです。」また、このようにも言っています。「私たちが聖霊を受けたその瞬間から、私たちの分は何もありません。ただ、主の傍らで何もしないで主を敬い、信頼するだけで、すべて主がなされるからです。」(十年前にこの言葉を読んだ時、私は意味がわからず、反感さえ持ちました。間違っているのではないかとも思いました。感謝なことに、今では、少しずつわかるようになりました。アンドリュー・マーレーのこの言葉を引用して、皆さんで一緒に考えたいのです)。私たちの責任は、いつも主を仰ぎ望んで信頼し、主を呼び求めて聖霊に従い、聖霊の導きにより頼んで歩むことです。そして、その聖霊の大いなる力によって行なうことなのです。

以前、この学びの箇所を終えようとした時に、ある方が次のような質問をしました。

問:先程、私たちに起こったすべてのことは、いのちの成長のために益であるので、聖霊によって歩もうとおっしゃいました。しかし、これは、一般に言われる「逆境に甘んじる」とどこが違うのでしょうか?明らかに、たくさんの事が理屈に合わないのに、それを正しいと言えということでしょうか?たくさん嫌な思いをしなければなりませんか?なぜクリスチャンはこのように弱く、哀れでなければならないのでしょうか?

答:この質問に答える前に、まず、はっきりさせなければならないことがいくつかあります。

1、主を信じる前の人の状態:神と断絶し、この世で頼るものがなく、満ち足りず、平安がなく、喜びもなく、自由もありません。来世には、神と永遠に断絶された所――地獄へ行きます。そこは、火は消えず、うじも死なないのです。

2、この状況になったのは、アダムの背信によります。罪の性質に支配され、人は罪を犯さずにいられなくなりました。人は神と断絶してしまいました。

3、神が人に備えられた救いは、罪の性質と罪の行いの問題を解決します。神は、十字架によって人類を再創造しました。イエスとその十字架により頼むことにより、人はイエスとともに死に、罪の性質から解放されます。私たちが死ななければ、罪の支配から解放されないので、神は十字架をお用いになり、イエスを死に渡し、救いを完成させられました。

4、十字架が私たちをアダムからキリストへと移したことを、決して忘れてはなりません。十字架は古い人と新しい人の分岐点です。古い人は十字架によってのみ新しい人になることができるのです。古い人が絶えず十字架によって現実に少しずつ解放され続けていくことにより、新しい人は成長していきます。十字架は人から見れば、「私」は弱く、哀れで、ひどい待遇を受けているように見えます。知恵、賢さ、才能、能力等がすべて取り除かれたからです。しかし、ただ主を高く掲げ、十字架の死を経るなら、キリストの復活の大いなる力によって、新しい人の上に神の知恵、賢さ、能力(すべての支配、権威、権力、主権を超えた力)が現されます。十字架は神の知恵と力が交差したところなのです(「私」の知恵と力が排除される時、神の知恵と力が現される。)

    「死ななければ、生かされません。(Ⅰコリ15:36)」「もし 私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ロマ6:5)」

5、神はいろいろな事をもって私たちに臨まれ、それらの出来事は私たちの十字架となります。そのすべてが正しい事だと言うのではありません。神の御計画の中で、神の許しにより私たちの身に起こるすべてのことを、神が用いられ、私たちを形造られるということが正しい事なのです。神が用いるこれらの事は、私たちのいのちの成長レベルにちょうど適しており、「私」を更に死なせ、聖い品性を造り、新しい人を更に成長させていきます。しかし、それらの私たちを苦しめる事を行なった当事者は、それぞれ神の御前でやがて清算(信徒)あるいは裁き(未信者)を受けなければなりません。私たちは、悪に悪を報いることをしません。そのようなことは私たちと無関係です。

6、私たちは一般に言われる「逆境に甘んじる」のではありません。「主とともに死ぬなら、必ずともによみがえる」との志により、主を呼び求め、主を高く掲げて、主に感謝し、聖霊に従い、より頼んで歩むのです。決して、死ぬほど怒ったり、死ぬほど落ち込んだり、不満で死にそうになったりするべきではありません(このような死は復活できない)。私たちは、このみことばの通りに考えましょう。「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(Ⅱコリ4:10)」人から見て私たちは弱いですが、しかし、「私(自分)が弱いときにこそ、 私(新しい人)は強いからです。(Ⅱコリ12:10参照)」

ですから、十字架は私たちが従順である基本です。私たちが聖霊に従い、聖霊によって歩む基本なのです。私たちはともに、イエス・キリストと主の十字架を高く掲げましょう。ともに主の十字架をほめ歌いましょう。

 

だから、主の十字架を高らかにほめ歌おう

裁きの座で主と会いまみえる時まで

主が忠実な僕よ、と呼ばれる時

十字架は義の冠にかえられる

(聖歌229番「丘にたてる荒削りの」折り返し部分中国語歌詞訳)

 

 


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