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キリストの勝利により、古い人とその行いを捨てる(前半)

 

    新しいいのちの成長を追い求める歩みの中で、私たちはよく嘆いてしまうことがあります。それは、新しいいのちには、悪魔とこの世と古い人という三つの敵があるためです。悪魔とこの世は比較的対処しやすいようですが、しかし、古い人はなかなか死にません。死なせようとすればするほど死なず、かえって元気になります。なんて辛いことなのでしょうか。古い人の行いから解放されず、体の悪い行いを殺して、新しいいのちに生きることができないのです。

    これまでお話してきたのは、外側の敵である悪魔とこの世にどのように対峙すべきかについてでした。本課では内側の「私自身」(以下「私」とする)にいかにして対処し、古い人の行いを捨て、体の悪い行いを殺すことができるのかについてお話していきます。

    悪魔とこの世は「私」を足場として、私たちを攻撃します。確かに、私たちの古い人は、主を信じた時に主とともに十字架につけられ、身分上はすでに死んでいます。しかし、「私」が「私」に生きて(肉に生きて)いる時、古い人の状態が現れてしまいます。ですから、実際には、古い人が新しいいのちの成長の敵というよりも、「自分」が一番の敵なのです。

一、古い人と新しい人:   

    神が創造したアダムとエバのいのちを「私」と呼ぶならば、古い人と新しい人は「私」の異なる身分と立場にあります。古い人とは、両親から生まれた罪の性質に支配されたいのちです。古い人は罪の奴隷です。新しい人とは、信仰によって古い人を主とともに十字架に付け、罪の支配から解放されて、聖霊によって新生した新しいいのちを指します。新しいいのちは、キリストと結び合わされたいのち(キリストは私たちのいのち)で、義の奴隷です。

(一)主を信じる前

1、古い人

2、罪の性質を持ち、罪の性質に支配された奴隷、つまり罪人で、罪を犯さない自由はない。

(二)主を信じた時

1、古い人は主とともに十字架に付けられました。

   古い人(罪の性質に支配されたいのち)は身分上死にました。キリストが死をもって私たちを解放してくださったのです(ガラ5:1)。私たちは罪の支配から解放されました。もう、罪は私たちの主になれません(ロマ6:14)。私たちはもう罪の奴隷ではなく、完全に罪を犯さない自由があります。主とつながった新しい人とされたのです(主と結び合わされた「私」)。

     主によって罪の性質の支配から解放された「私」は、主と結ばれて新しい人となりました。いつも主を呼び求め、主を高く掲げ、主を仰ぎ見て行動します。主とつながった「私」は罪を犯さず、また犯すことができません(Ⅰヨハ3:9)。

     救われた人が罪を犯すのは、肉に生きている(ある聖書学者が言うには、肉体は弱く、簡単に罪の道具になってしまう)からです。つまり、「私」に何か起こった時に主を呼び求めず、主を高く掲げることもなく、自分の意思と力で行なうからです。「私」は、知らず知らずのうちに自分を罪の支配下に置き(もし、私たちが主を主としないならば、罪に支配されてしまう。中間状態はない。)、その結果、古い人の状態がすべて現れ、罪を犯すようになります。古い人の状態が現れるのは、ただ表面的な現象にしかすぎません。根本的な問題は、キリストに解放していただいた「私」がどちらを選択するかです。「私」が主に頼ることを選び、主を高く掲げて主を待ち望むことを選ぶならば、神に対して生きるのです。もし、自分に頼る事を選ぶなら、結果として罪に生きることになります。神に頼るのか、自分に頼るのかは、神に生きるか、罪に生きるかの分岐点になります。神をとても愛し、いつも神のために生きたいと願いながらも、自分に頼って行動すると、古い人の状態が現れて、さまざまな調和が乱れた状況になってしまいます。

  2、新しい人は恵みを受けた罪人です(Ⅰテモ1:1516参照)

  (1)神の救いの恵みは、私たちがキリストとともに死ぬことによってなされます。神は「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(ロマ6:7)」という方法をもって、私たちをお救いになられました。

  (2)私たちは恵みを受けた罪人:神の救いのご計画において、罪の性質は消えてなくなることなく、私たちの内に留まっています。そのため、私たちはあわれみを受けた「罪人」(内側に罪の性質がある人間)なのです。「あわれみを受けた」罪人と称するのは、信仰によって、罪の性質は永遠に私たちを支配できず、私たちに対して力がないからです。

A、両者とも内側に罪の性質があります。

 聖書にある「罪人」という言葉には、二種類の意味があります。一つ目の意味は、罪の行いを犯した罪人(例ロマ3:923)で、二つ目は、内側に罪の性質を持つ罪人です(例ロマ5:12)。Ⅰテモテ11516節にある「罪人」とは、内側に罪の性質を持つ人のことです。

B、恵みを受けた罪人:

    罪の性質が私たちの主になれない(ロマ6:14)とは、つまり、私たちには罪を犯さない自由があるということです。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。(ガラ5:1)」しかし、もし私たちが「私」の中に(肉の中に)生きている(自分の意思で罪を犯す。あるいは、自分を律法の下に置く。律法に生きると、肉に生きることになる。知らず知らずのうちに、自分を罪の性質の支配下に置いてしまう)なら、罪の性質は私たちを支配します。主を信じた後、私たちは恵みを受けた罪人(罪の性質を持つ)ではあっても、主イエスが私たちの罪を担ってくださったので、私たちはもはや罪の行いを犯した罪人ではありません(ガラ2:17参照)

C、主を信じていない罪人:

    罪の性質に支配されています。罪の奴隷です。全く自分の意志で決めることができず、罪を犯さない自由がありません。そのため、罪の性質を持つだけでなく、罪を犯します。

  3、新しいいのちの成長の歩みは、信仰から信仰に進み、古い人とその行いを脱ぎ捨て、新しい人を身に着る過程です(エペ4:22-24、コロ3:10参照)

   主を信じた人は新しい人となりましたが、よく古い人の状態が現れます。それは、もし「私」に生きる(肉に生きる、自分の力に頼り自分の意思で行う)なら、罪の支配下にもどるからです(罪の性質には私たちを支配する権利はないが、もし肉体に生きるなら、自動的に罪に支配されてしまう)。これが、前にお話しした、肉体はアダムとつながり、聖霊はキリストとつながるということです。

  二、イエス・キリストが成就された救い:

すでに何度も繰り返しお話ししましたが、ここでもう一度簡単にまとめます。

  ()イエスの血によって、私たちの罪の行いの問題は解決されました:

  イエスの血によって、私たちの罪の報酬は支払われ、罪の刑罰は担われました。

  ()イエスの死によって、神は私たちを支配する罪の性質(罪の権威と力)に対処されました:

   もし、イエスの血のみに頼るなら、私たちの古い人はまだ生きています。古い人が生き続ける限り、私たちも罪を犯し続けます。なぜなら、古い人は罪の性質に支配された奴隷だからです。罪の支配下で、古い人は罪を犯さずにはおられず、罪を犯さない自由がありません。

  神の救いは、私たちの罪の行いの問題を解決しただけでなく、罪の性質による支配の問題をも解決しました。すなわち、神は、私たちが犯した罪を解決されただけでなく、私たちが罪を犯す源(罪の性質)をも解決してくださったのです。では、どのように解決されたのでしょうか?

  1、神は、あらゆる知恵と思慮深さをもって救いの計画を立てられ、決して罪の性質を滅ぼすことはなさいませんでした。

  2、神は、私たちを罪の性質から離れさせる方法で、その支配から私たちを解放してお救いになりました。

  3、神がお用いになったのは、イエスの死により、信仰によってイエスとつながり、ともに死んで(ともに十字架につけられ)罪の性質から解放される方法です。

  (1)主イエスが完成された救い(十字架につけられ、埋葬され、復活する・・・等)

  (2)信仰により主とつながる:神が備えられた救いは、私たちの肉体の死や、埋葬、復活・・・を必要とするのではありません。ただキリストとつながることを通して、私たちを救ってくださいました。信仰によってキリストと結ばれることにより、イエスの肉体の死、埋葬、復活等が、私たちの死、埋葬、復活となりました。(ロマ6:2-5参照)

  (3)イエス・キリストと結ばれたことにより、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた(ロマ6:6)

  (4)私たちはキリストともに死んで、罪の性質から解放された。「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(ロマ6:7)

    罪から解放される鍵はここにあります。神がイエスを十字架に付けて死なせられたので、彼の死により、私たちは信仰によって彼と結ばれ、ともに死にました。つまり、十字架によって、私たちは信仰によりすでに死に、罪の性質の支配から解放されたのです。「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ロマ6:10-11)」

  ()イエス・キリストの死によって、悪魔のしわざは打ち壊されました。

人間の罪の問題を解決し、アダムが堕落したために失われたものを回復します。それだけではなく、主イエスが死んで復活し、アダムが得たことのないもの(いのちの木が与えるいのち)をもくださいました。「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハ3:15)」「御霊によって生まれた者は霊です。ヨハ3:6あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。(ロマ7:4)

    主を賛美します。私たちは死においては、罪から解放されました。復活においては、キリストに属する者とされました。ハレルヤ!「罪は私たちを支配することがないからです。(ロマ6:14)」私たちは、「罪から解放されて、義の奴隷となったのです。(ロマ6:18)」イエス・キリストは私たちのいのちの主です(Ⅰコリ1:2参照)。すべて主を信じる人には「唯一の主なるイエス·キリストがおられるだけ(Ⅰコリ8:6)」です。私たちは「主なるキリスト·イエスを宣べ伝えます(Ⅱコリ4:5)」。

  ()神は、イエス・キリストとその十字架を通して、私たちに信仰によるいのちを与えてくださいました。それだけではなく、私たちのいのちが成長していくために、神は日々の十字架を通して、私たちのうちに絶えず死を働かせていてくださいます(Ⅱコリ4:12)。主イエスは言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マタ16:24私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが(Ⅱコリ4:11)」「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。ロマ8:36

 (五)主イエスは昇天され、父なる神の右に座されました。聖霊が地上に降臨し、イエス・キリストが再臨されることは、ここでは述べません。

  三、クリスチャンの勝利を得る生活の根拠:

  イエス・キリストはカルバリでその死によって悪魔に勝利し、死の力を持つ悪魔を滅ぼしました。また、その死によって、すでにこの世に勝利し、私たちの古い人をともに十字架につけ、罪の性質(罪の権威)から解放しました。主イエスは復活によって、新しく造られた人のかしらとなりました。天においても、地においても、一切の権威は主に授けられました。神の満ち満ちたご性質は、すべて形をとってキリストのうちに宿っています。私たちは信仰により、イエスにつながり、信仰が増し加えられて、更に親しく主と結ばれるのです。ですから、私たちは、「キリストにあって満ち満ちているのです。」 (マタ28:18、コロ1:182:9参照)。私たちは、罪が赦されたただけではなく、絶えず主のすべての豊かさを受け取ることができます。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハ1:16)」と聖書に書かれている通りです。

  そのため、イエス・キリストとその十字架、イエス・キリストの死と復活、信仰によって主と結ばれること、これらはクリスチャンが勝利を得る生活の根拠となります。この事実により、私たちは悪魔に勝利し、この世に勝つことができます。同じくこの事実により、私たちは古い人とその行いから解放され、体の悪い行いを殺して、すべてにおいて新しいいのちに生きることができるのです。

  四、なぜ、私たちはいつも失敗してしまうのでしょうか?

私たちがここで考えるのは、心から神に喜ばれようと願うクリスチャンが、律法の要求を満たし、勝利した正常なクリスチャン生活を送りたいのに、その力がなくていつも失敗してしまい、溜息をつくことについてです。自分の思うままに生き、故意に罪を犯す人は、もちろん間違っています。私たちの考える内容には含まれません。

  ()神の救いをよくわかっていないからかもしれない:私たちの間違いの多くは、「聖書も神の力も知らないからです(マタ22:29)」。

  1、私たちは救われた後、キリストの愛に引き寄せられ、励まされ、神に喜ばれたいと思います。

私は、信仰を持って長年経ちますが、心から神に栄光をお返ししたいと願い、良いクリスチャンになりたいと思いました。それで、よくできるよう努力する中でずっと葛藤し、苦しんできました。そうです。救われた私たちが良いクリスチャンになるべきなのは、全くその通りです。

  2、しかし、問題は、どんな方法で良いクリスチャンになるかなのです。私にはわかりませんでした。ローマ書を読んで、聖書の学びも導きました。ガラテヤ書も読んで、これも学びを導きました。今思えば、奇妙なことです。自分ではその内容がよくわからないのに、聖書研究を導いていたわけですから。長年、私は「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」という状態に生きていました。パウロはガラテヤの教会の人々に、「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか(ガラ3:3)」と尋ねました。私は恥じ入りながらも、正直にこう答えます。「そうです。確かに、私はこのように道理がわかりませんでした。」

  3、私は、イエスが私のために十字架につけられ、尊い血を流されたことだけを重視していました。主の死によって、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた(ロマ6:6)」ことも、「キリストは私のいのち」の意義がどこにあるのかもよくわかっていませんでした。

1)私の関心のすべては、どのように行なえば神に栄光を帰すことができるかということでした。私という人間が死ぬべきだ(イエス・キリストの十字架により、私も主とともに十字架につけられた)ということを理解していませんでした。

2)私はいつも自分のひどさに心を痛め、もうちょっと強ければいいのにと思っていました。「私の肉のうちに善が住んでない(ロマ7:18)」のをわかっていませんでした。

3)私たちの古い人が死ぬべきで、それは自分の努力でするものだと思っていました。私たちの古い人は、主を信じた時に主とともに十字架で死んだことを知りませんでした。古い人の状態は、主に解放された「私」が肉体の中に現れたものです。私たちは、古い人が死ぬように助けるのではなく、祈り、主の御名を掲げ、御名を賛美します(主を主とする)。そうすれば、自然に「私」の死を経験し、キリストが私たちの身に生きてくださり、古い人の支配から自然に解放されるのです。

4)神は私たちが良いことをするように望んでおられるのではありません。私たちが完全に主により頼み、主を掲げ、聖霊によって歩み、キリストのいのちが私たちのうちで神の御業をなすことができるようにと望まれているのです。

5)主を信じた後、私は奉仕する目標を変えましたが、奉仕する力の源は変えていませんでした。

 () 人の「独りよがり」と「自己中心」:

  アダムとエバは、どんな罪を犯したのでしょうか?それは、背信の罪です(ホセ6:7参照)。彼らは、神中心を望まず、自己中心でした。そのため、彼らは罪を犯した後に、神のもとに行って、どうしたら良いのかと尋ねることもなく、独りよがりに自分の考えた方法で、いちじくの葉で身を覆いました。このように代々に渡り、今日、世界のすべての宗教は皆自分の意思により、自分の方法で、自分の力で行なえば罪を隠すことができ、神の赦しが得られると思っています。アダムとエバの子孫である私たちは、救われて新生したにもかかわらず、「自己中心」と「独りよがり」の心の状態が内側に根強く残っています。神の救いを知ってはいても、習慣的に自分の努力に頼り、自分の思う「良い」標準に達するまで頑張り、もがいています。私たちはよく神の救いを忘れます。本当に「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。(Ⅰコリ15:46

 ()ローマ書7章から見てみましょう。私たちは律法の要求を全うしたいのに、どうして、いつも失敗をしてしまうのでしょうか?

 1、律法:

 (1)律法とは何でしょうか?

広い意味では、神が私たちに守るように、行なうように願われることです。つまり、神の人間に対する義なる要求のことです。人は自分の努力で、神の要求を全うしなければなりません。律法は霊的であり、聖く、良いものです。また、決してすたれることがないものです(マタ5:18)。律法を全部守ることができるならば、「律法を行なう者はこの律法によって生きる(ガラ3:12)ことになります。

 (2)誰一人として、律法を守る事はできません。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。(ロマ8:3)すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(ロマ3:23)

 (3)律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。(ガラ3:10)こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』(ガラ3:10)「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(ヤコ2:10)

 (4)律法の役割:

A、律法は人に罪の意識を生じさせます(ロマ3:20)

人は罪に売られたので、律法を完全に守ることができません。そのため、律法は人の罪を定めるのです。(ロマ7:14–176:16、ヨハ8:34、ガラ3:19、ヤコ2:1011参照)

B、律法は、キリストの救いまでの移行期の段階です。

イスラエル人は罪を犯した時、自分を非難されるところのない者として保つために、定めどおりのいけにえを献げました(ルカ1:56、ピリ3:6参照)。律法は、神の人に対する方法ですが、「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。(へブ10:4それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで(ガラ3:19)だからです。

C、律法は、私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました(ガラ3:24)

律法は人を罪に定めますが、罪に打ち勝つ力は与えず、人を罪から救うことはできません。そのため、律法は人に絶望させ、生きる道――救いの道を求めさせるのです。

  2、キリストが律法を終わらせられました(ロマ10:4)

(1)キリストは律法を全部守りきりました。キリストの一生は、律法を守った一生でした。律法の下にある者として生まれ(ガラ4:4)、一生罪を犯しませんでした(へブ4:15)

(2)キリストは律法の義のすべての要求を満たしました。

  (3)キリストは、その死によって、人間が律法を犯して支払うべき代価を支払いました。そのため、罪人が主イエス・キリストを自分の救い主として受け入れると、律法はもう私たちに要求することができません。一つ目の理由は、イエス・キリストがその罪責を支払って死なれたからです。二つ目は、私たちもすでに死んで、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられ(ロマ6:6)」、死んだ人は、すでに律法から解放されているからです(ロマ7:6参照)。クリスチャンはもう律法と関係がなくなりました。律法によって義と認められようとする必要はなく、そうすべきでもありません。

(4)キリストの律法:

  主イエスの救いは、人の心を支配する律法に代わって、新しい律法――いのちの御霊の原理を完成させました。それによって、人は律法の要求を全うすることができるようになりました。主イエスは私たちのために救いを完成され、天に昇られました。父なる神は、キリスト・イエスの御名のゆえに、聖霊をお与えになり救いをなされます。聖霊は、主の御名を求める私たちを生まれ変わらせ、いのちをお与えになります。そして、主の御名を信じる人々の心においていのちの御霊の原理となり、注ぎの油の教えですべてを導き、私たちに伴われます。私たちは聖霊に従って、聖霊によって歩みます。肉に従って歩まず御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるのです(ロマ8:4参照)

  律法の下:自分の努力に頼り、肉体のいのちによって神の要求を全うしようとすることです。

恵みの下:自分の力に頼らず、キリストをいのちとし、聖霊の力により(従う、聖霊により頼んで歩む)神の要求を全うすることです。

  (5)キリストの救いは、私たちを律法の下から恵みの中へと救い出した。

ですから、キリストが律法を終わらせられたことには、二つの意味があります。一つは、キリストが律法の要求を終わらせられたので、私たちは、もう、律法の下に生きません。もう一つは、父なる神が聖霊をくださり、いのちの御霊の原理が律法に代わって私たちの心において働かれます。それによって、私たちは、肉に従わず聖霊によって歩み、律法の要求を全うすることができます。ですから、私たちは恵みの中にいるのです。神の救いは、律法を無効にするのではなく、かえって、律法を確立することになるのです。(ロマ3:31)

 3、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけです(ロマ7:1)

つまり、人が生きている間は、律法を果たす義務があります。

 4、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放されました(ロマ7:6)

  人が死ぬと、律法を果たす義務はなく、必要もありません(ロマ7:2)

 5、罪は律法を用いて私たちを誘惑する:

1)死んでしまった者は、罪から解放されている:イエス・キリストの十字架によって、私たちの古い人は死にました。罪の性質は、もう私たちの主になれず、支配することもできません。そのため、罪は、私たちの古い人を死なせたくないのです。なぜなら、古い人が死ぬと、私たちに対してどうすることもできなくなるからです。

2)罪は私たちが古い人の状態で生きるように誘惑する:私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられ、身分上はすでに死にました。しかし、私たちが肉に生きて、自分の意思と力で生活すると、アダムにあるすべての状態(古い人の状態)が現れてしまいます。

A、罪に誘惑されて罪を犯すことを、私たちは望みません。(わざと思うままに罪を犯すことは、この学びの範疇に含まれません)。

B、罪は、律法の要求を通して、律法を守るように誘います。私たちが「よく行なう」ように誘い、「私」が神を崇めるのではなく、肉の中に生きるようにします。

a、私たちは、日々どんな時にも、神の律法の要求(聖霊が心の中で私たちの新しいいのちになる要求)に直面します。例えば、時間を決めてデボーションするべきだ、良くない思い(情欲、嫉妬、高ぶり、貪欲、つぶやき、恨み等)が心にあってはならない等、私たちは日々いつでも、「ああするべきだ」「こうすべきでない」といった新しいいのちの要求(律法の要求)に出会います。

    b、律法の要求に向き合う時、罪は私たちを誘惑します。「ほんとに、あなたはこうすべきではなく、ああするべきだ」と。それで、私たちが一生懸命頑張ってその律法の要求を満たそうとし、罪に対抗して、罪を犯さないようにしようとします。そして、多くの「すがるな。味わうな。さわるな。というような定め(コロ2:21)を立てて、私たちは知らず知らずのうちに律法の中に生きるようになってしまうのです。

C、心では神の原理を喜びます。その通りです。問題は、神の律法の要求を自分に頼って守っているのでしょうか?それとも、「キリストは私のいのち」として(主よ、あなたの要求に達せるように私を助けてくださいと求めて)生活していますか?私たちが失敗するのは、自分の力と意思でしようとするからです。私たちの古い人は主とともに十字架につけられたので、律法から見ると私たちはすでに死んでおり、律法から解放されています。しかし、律法を守ろうとするなら、私たちは肉の中に生きてしまいます。

D、肉に生きる時、「罪の性質」がまた生き返り(罪はまだ死んでおらず、私たちがキリストとともに死んだ時に、罪は成す術がないだけです。私たちが「私」の中に生きてしまうなら、罪がまた元気になってきます)、私たちはすぐ罪の性質に支配されてしまいます。支配されると、罪の性質は体に罪を犯すように命令し、その結果が死であり、私たちは死ぬのです(ロマ7:9参照)。そして、すべての古い人の状態が現れます。

「死」ということばに注意していただきたいのですが、これは神との断絶を意味します。未信者にとっての「死」とは、神の正しい律法の前で、罪のゆえに神と断絶し、滅びる(地獄に行く)ことです。

しかし、神の子供にとっては、キリスト・イエスの贖いによって滅びることはありません。ですから、聖書の中での救われた後の「死」とは、滅びる(地獄に行く)ことを意味するのではなく、私たちと父なる神との親子関係が一時的に断絶してしまうことを指します(Ⅰヨハ2:1参照)。

   ここで重要なのは、罪の性質は、私たちに悪い事をして罪を犯すように誘うのでなく、律法を通して私たちを誘惑し、頑張るようにさせ、肉の中に生きるようにして、私たちを支配し罪を犯させるのです。罪の結果は一時的な神との関係の断絶(親子関係の交わりの断絶を指し、地獄とは関係がない)です。これはパウロが言っていることです。「それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。・・・罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました(ロマ7:1113)」。

   私たち皆がこのような経験が多々あることでしょう。よくしようとすればするほど、うまくできないのです。鍵は「よく頑張る」にあります(「よく頑張る」と「よくしたいと願う」とを分けなければなりません。「よくしたいと願う」のは正しいです。しかし、どのように「よく」するのでしょうか?)。よく頑張る時、いつの間にか罪に支配されています。これこそが、私たちがよく失敗する原因です。自分に頼るといつも罪に支配され、肉の中に生き、失敗に終わってしまうのです。

 

 

 


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