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キリストの勝利により、古い人とその行いを捨てる(後半)
五、キリストの勝利により、古い人と古い人の行いを脱ぎ捨てる:
(一)二本の道、二本の木、二つの土台について復習しましょう:
昔から人は自分の方法で神の要求に到達したい、神の御前に行きたいと願い続けています。しかし、人は自分の正しさを神に訴えることなどできるでしょうか。(ヨブ9:2参照)
ですから、神は人々のために新しく、また生ける道を設けられました。それは、恵みと信仰のゆえに、私たちが神の御前で神の子供となることができるためにです。神は、御前に行く道(信仰によって神の要求を全うする)を備えてくださっています。これは自分に頼って行なうこととは全く異なる道です。違ういのちから現れて、異なる土台の上に建てられている歩みなのです。
1、ニ本の道
何かが起こると、私たちはいつも習慣的に自分の努力で「する」か、「考える」か、「分析する」かしてしまいます。しかし、神が備えてくださった信仰の道は「主に求めなさい。捜しなさい。たたきなさい」、「すべてのことについて祈りなさい」であり、これらは、完全に異なる道です。
一つは、行いによる道です。自分の努力によって、神の基準に到達しようとします。
もう一つは、自分に頼らずに、神に頼る道です。主の御名を呼び求め、信仰の歩みによって、神の基準に達するのです。
2、二本の木とは二種類のいのちです。異なるいのちは異なる道を歩み、異なる道は異なるいのちに至ります。
ただ主の御名を呼び求め、新しいいのちにつながり、新しいいのちから出発することによって、初めて神の基準に達することができます。
自分で頑張り、肉とつながり、肉に生きるなら、決して神の基準に到達することはできません。
3、二つの土台:
主のみことばを聞いて歩む行い(聖霊の思いに従い、聖霊の力で行なう)には、しっかりとした土台があり、永遠につながります。自分の考えで行なう行為は土台がなく、一時的でしかありません。
二本の道、二本の木、二つの土台についての復習を通して、お分かりになったでしょうか。古い人と古い人の行いを脱ぎ捨てることは、新しいいのちの成せることです。「する」、「考える」、「分析する」道を絶対に頼ってはなりません。「信仰」の道に頼るのです。それは主の御名を呼び求める道であり、聖霊に従って歩む道です。
(二)律法の下ではなく、恵みの下にいるのです:
律法は聖く、善であり、正しいものです。律法には全く間違いがなく、その基準は必ず達成すべきです。罪はこの点を利用して、律法を守るように誘惑します。その結果、私たちは律法の要求に到達できずに、いつも嘆くことになります。このように人には達成できないので、神は救いの御業を設けられました。私たちを律法の下ではなく、恵みの下に置くことにより、律法の要求に到達させてくださるのです。なんと素晴らしい救いでしょうか!
1、律法の下にいない:
(1)神の義とは何ですか?律法の下とはどういうことでしょうか?
神の義とは、神の人に対する要求であり、律法によって表されました。
律法の下とはどういうことでしょうか?それは自分の努力によって律法の要求を全うしようとすることです。
(2)律法には、人の弱さのゆえにできないことがあります。
(3)神が授けられた救いの方法は、律法とは別に神の義が示された(ロマ3:21参照)ものです。
(4)神は信仰によって義とされる方法を授けられました。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト·イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト·イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。(ロマ3:23–25)」
(5)「すなわち、イエス·キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(ロマ3:22)」「それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ロマ3:26)」
(6)人には何も誇るものはありません。なぜなら、人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるのだからです。(ロマ3:28参照)「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト·イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト·イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラ2:16)」
(7)律法の下にいません(ロマ6:14)。律法に死にました(ガラ2:19)。
2、恵みの下にいる:
(1)神は私たちを信仰により、キリストと結ばせてくださいました。神の私たちに対する救いは、完全なるものです。また、神は私たちをお救いになっただけではなく、罪を離れ、義のために生きるようにしてくださいました。(Ⅰペテ2:24参照)。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ロマ6:11参照)」
(2)神は、私たちが律法に死ぬという消極的な救いを行なわれただけでなく、積極的な栄光をお与えになりました。それは、私たちが死者の中からよみがえったキリストと結ばれて、神のために実を結ぶようになることです。(ロマ7:4参照)。
(3)信仰によってキリストとつながり、キリストは私たちのいのちとなりました(コロ3:4):私たちはキリストに属し、それゆえ私たちは、「神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました(Ⅰコリ1:30)」。神は御子の血を私たちにくださっただけではなく、御子すべてをくださったのです。キリストは私たちのいのちであり、キリストは私たちのすべてです。ハレルヤ、なんと栄光ある救いでしょうか。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラ2:20)」神は、復活した主のいのちを通して、私たちのうちで自ら神の要求を行なわれるのです。
(4)聖霊の内住:主イエスは昇天され、父なる神の右に座されました。父なる神は、聖霊を、すべて主を信じる人々の心に内住するよう遣わされました。イエス・キリストは天におられ、聖霊によって私たちの内にも住まわれます。父なる神がくださる聖霊は、天の知恵と力に満ち、私たちの内なるいのちが神のみこころを行なえるように導いておられます。
3、毎日の生活の中で、「律法の下にいない」とは、どのような意味なのでしょうか?
(1)何回もお話ししましたが、「律法の下にいない」の意味は、自分の努力によらずに神の要求を達成することです。律法が、私たちに神が求めておられる、行なうべき義の要求であるなら、律法の下にいないとは、つまり、自分の努力で神に喜ばれようとする必要がないということです。肉にあって神に喜ばれようとするといつも、自分自身を律法の下に置いてしまうことになります。
(2)キリストは私たちのいのちであり、私たちの内側で神の要求を行なわれます。私たちは律法の要求を満たすことができませんが、しかし、私の内におられるキリストのいのちによって、神に喜ばれることをすることができます。神は御座にあって律法をお立てになり、キリストのいのちが私たちの内にあって、律法を守ってくださいます。神ご自身が律法を立てられて、守られるのです。ご自分で要求を出され、ご自分でその要求を満たされるのです。
(3)私たちは自分に対して絶望しなければなりません。自分の努力に頼って、神に喜ばれようとしてはなりません。日常生活で、常に勝利を得ようとあがきますが、私たちは必ず失敗してしまいます。それで、よく溜息をついて「どうしてこんなに弱いのだろう?」とつぶやきます。このように嘆くのは、肉体が勝利を得ようとしている現れです。私たちはまだ自分に対して完全に失望し、自分は何もできないと信じるまで弱くなっていません。
私たちに沢山の弱さを経験させ「もうダメだ」とまで弱くなった時に、主は「完成した」とおっしゃいます。私たちが主に向かって、「もう、ダメです。私は何にもできません。ただ主が私の内ですべてのことをなされることを信じるしかありません。」と言う時、自分の試みを手放した時にこそ、主は働いてくださいます。ですから、大きな出来事が起こり、私たちがどうしようもなくなって、ただ祈るほかはない時、かえって物事が解決し、心に平安と喜びが与えられる、ということがよくあるのです。これとは逆に、日常生活の細やかな事は祈らず、自分の力に頼るならば、互いに主張して争いとなり、平安も喜びもありません。
(三)恵みの下にいる――聖霊に従って歩む。聖霊によって行なう――古い人と古い人の行いを脱ぎ捨てる。
1、行いにおける古い人とからだの行ないを殺すこととは、同じ事の二つの面を表します。
2、イエス・キリストとその十字架は、聖霊に従って歩み、聖霊によって行なうことの土台です。
(1)イエスが十字架につけられ、死からよみがえって天に昇られ、父なる神の右にお座りになったので、父なる神は聖霊を地上に遣わされ、救いのみわざを行なうことができるのです。
(2)聖霊は主を信じるすべての人の心に内住しておられます。私たちは主を信じた時、主と結び合わされました。イエスが自分のために十字架にかかってくださったと信じることによって、イエスと共に死に、共によみがえって新しいいのちを得、新しい人となったのです。
(3)聖霊が私たちの心に内住され、私たちの内側のいのちを導き、神のみこころの中を歩めるようにと助けてくださるのです。神は、私たちが聖霊に従うことを通して導かれます。聖霊によって行なうことにより、私たちは更にイエスにより頼み、イエスを仰ぐようになっていきます。そして、「あの方(主)はもっと盛んになり、私はいよいよ衰えていく(ヨハ3:30参照)」ということが私たちの身に起こるのです。主のために自分のいのち(自我)を失っていく(ルカ9:24参照)過程の中で、私たちの古い人は、徐々に、着実に脱ぎ捨てられていきます。私たちがキリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです(ロマ6:5)。このようにして、私たちは少しずつ古い人の行いを脱ぎ捨てていくことができるのです。
3、聖霊に従って行ない、聖霊によって歩む:[ロマ8:5]で聖霊に従って行なうことについて、[ガラ5:16]では聖霊によって歩むことについて書かれてあります。「従う」とは聖霊の導きに従うことを指し、「よる」とは聖霊によるという意味を表します。基本的に、この二箇所の聖句は同じ意味を示しています。
ここで「聖霊によって歩む」ことについてお話ししましょう。
(1)
聖霊によって歩むとは、いのちの御霊の原理に従うことです。
繰り返してお話ししてきましたが、聖霊に従ったその結果は、心の平安と外側の平和です。ヤコブ書では聖霊の導きを「上からの知恵」と呼んでいます。「御霊を消してはなりません。・・・すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(Ⅰテサ5:19-21)」「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。(ヤコ3:17、18)」「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。(コロ3:15)」これらのみことばから以下のようにまとめることができます。聖霊に従って歩むことは、聖さ(真理に反しないという基本)の原則において、心の平安と外側の平和に従って行なうことです。その結果、必ず平安と平和が与えられるのです。
(2)聖霊によって歩み、肉の情欲を脱ぎ捨て、からだの行ないを殺す。
A、肉に従う人は肉的なことをもっぱら考えます。ここで指しているのは、救われた後、肉の中に生きる人のことです。何が「もっぱら考える」でしょうか?それは、「思いを集中させる」という意味です。ある人が肉に従うならば、その人の思いは肉的な事に集中しています。
a、肉の思いの結果は死です。この「死」とは霊において一時的に神と離れることを意味し、平安も喜びもありません。
b、肉の思いは神に対して反抗するものだからです(ロマ8:7)。「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。(ロマ8:7、8)」ですから、聖霊に従う人は、同時に肉に従うことはできないのです。これは全く異なる敵対する道です。肉に従う人のその思いはすべて自分にあり、自己中心的です。
B、聖霊に従う人は、聖霊のことをひたすら考えます。それは、聖霊のことに思いを集中させるということです。聖霊の思いとはまさに、いのちの平安です。
a、私たち救われた人は、肉には属さず、聖霊に属します。しかし、肉の状態に陥ってしまう二つの可能性があります。一つ目は、いのちの成長を願わないことであり、自分の思う通りに生き、世の人と変わりがありません。二つ目は、完璧を求めるあまり、律法的なクリスチャンになってしまうことです。律法の故に、肉に属してしまいます。しかし、私たちはもともと聖霊に属していますから、私たちのうちでは、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうのです。(ガラ5:17参照)
b、聖霊に従う人は、聖霊のことをひたすら考える。
聖霊に従う道を行くか、肉に従う道に行くかは、私たちの自由意志の選択に委ねられています。聖霊はパウロを通して神のみこころを記されました。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
c、私たちが肉の中に生きる時、「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。(ロマ8:10)」
この言葉の意味は、私たちは救われて新生した後、体は肉に従っていたため罪の支配下にあり、神と敵対して死んでいますが,新しいいのちを得たのでその霊は生きているということです(救われて新生した人の死については、前の内容を復習してください)。
私たちは生まれて来るなり、アダムの中に生まれ、罪過と罪の中で死んでいました。しかし,イエス・キリストの贖いによって、私たちは新生し、よみがえりました(エペ2:1参照)。新生というのは、私たちの霊が生きかえったことを指し、それは霊が救いを得たということです。しかし、私たちの体は長い間罪に支配されて罪の器となっていたため、すべての行いが古い性質と悪い行いであり、神と敵対し、神と引き離されています。ここでお話しした、「からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています」とは、私たちが主を信じた後、確かに霊は救われましたが、しかし、もし私たちが肉に従って歩む(自分の思う通りに生きるか、あるいは自分を律法の下に置く)ならば、まだ罪の支配下にいることになるのです。体とその行いは、罪に支配されて神と敵対し、自己中心的であり、神に喜ばれることができません。ですから、肉体上の神との関係は死んでいるのです。
d、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊(ロマ8:11):
主イエスが受肉された時から始まって、聖霊はイエスのご生涯を死に至るまで絶えずお導きになりました。しかも、聖霊はイエスを死からよみがえらせた方の御霊です。
e、「キリスト·イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。(ロマ8:11)」
· 聖霊が来たのは、キリストの内にあるすべてのものをわたしたちの内に実現するためです。
·
つまり、神がイエスを死者の中からよみがえらせたので、私たちも死からよみがえるのです。また、私たちの霊をよみがえらせただけでなく、聖霊によって、体をも復活させてくださるのです。「あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
·
死ぬべき体をも生かしてくださるとは、二つの意味があります。一つ目は、この世でのいのちの成長過程です。罪の道具になっていたからだが、少しずつ義の道具となり、神に献げる実(信仰の行い)を結ぶようになります。二つ目は、主が再び来られる時、私たちの体が復活することです。
C、私たちの死ぬべき体は、この世でどのようによみがえって義の道具となるのでしょうか?
主を信じるなら、私たちはキリスト・イエスにつく者とされ,
自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまうことができます。(ガラ5:24参照)
このようにして神は私たちを救ってくださるのです。これは、客観的ですでに成された事実です。しかし,
私たちは身分上は、十字架につけられて死にましたが、しかし現実には、古い性質とその悪い行い(最大の罪は自己中心)に満ちていて、神と敵対しています。これはすでにお話しした、「からだは罪のゆえに死んでいる」ということです。神の完全なる救いによって、私たちは罪の性質から解放され、その結果肉に従うことはなくなり、聖霊に従って歩み、「罪のゆえに死んでいた体」がよみがえることができるのです。
a、神は、聖霊に従って歩む道を通して、古い人を主と共に十字架につけるという経験をさせてくださいます。つまり、私たちが一歩一歩聖霊に従って歩むことにより、実際に古い人を「死」と「解放」に導いてくださるのです。
ローマ人への手紙の中には3種類の「死」があります。
一つ目の死は、罪過と罪の中での「死」です。罪の性質の支配の中(罪の奴隷)、永遠に神と引き離されることです。これは「永遠の死」――永遠の滅び(地獄の「死」)を指します。肉体のいのちは生きていますが、しかし神に対して死んでいます。
二つ目の死は、救われて新生し、キリストと共に十字架につけられて死んだことです。つまり、罪に対して死んだのです(罪においての死、自分のいのちの死)。罪の性質から解放された死(死んでしまった者は、罪から解放されているのです。ロマ6:7)であり、神に対して生きています。つまり、キリストと共に死に、「死(永遠の死)から出て、いのちに移る(ヨハ5:24)」のです。
三つ目の死は、救われて新生したにもかかわらず、肉の中に生きている「死」です。私たちが肉に生きるといつも、無意識に罪に支配されてしまい、その結果は死です。この死は、親子関係(Ⅰヨハ1:3、6、7、2:1、2参照)の断絶を指し、地獄とは関係がありません。「いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。(ロマ7:10)」「肉の思いは死であり(ロマ8:6)」「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。(ロマ8:10)」
b、神は、私たちが罪に支配されないように、肉の欲に捕らわれないように、聖霊に従って歩む道を与えてくださいました。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラ5:16)」
c、神は私たちが律法の下にとどまらないように、聖霊に従って歩む道をお与えくださいました。ですから、罪に支配されなくてよいのです。「御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。(ガラ5:18)」
d、聖霊に従って歩む道は、肉に生きる道と完全に異なる道です。聖霊に従って歩む道は、主とつながる道で、肉に生きる道は、罪に支配された道です。神は私たちが律法の下にいることなく、罪に支配されず、古い人と古い性質、その行いから解放されるようにと、聖霊に従って歩む道を与えてくださいました。
e、聖霊により体の悪い行いを殺します。私たちの古い性質、古い行い、体の悪い行いは、聖霊に従うことによって徐々に殺されていきます。「しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、(ロマ8:13)」「殺す」とは「消滅」という意味に解釈できます。もし、私たちを木とたとえるならば、罪の性質は根であり、私たちの体(行い)は木の幹、枝、葉です。もし枝や葉が枯れて死んだなら、根と幹の間を切り離さなければなりません。その後、ゆっくりと葉は枯れていきます。聖霊によって体の悪い行いを殺すのであり、決して私たち自身で体の行いを殺すのではありません。聖霊に従うことによって、聖霊によって行い、罪の支配から解放されるのです(木の根と幹との関係を切り離す)。そして、私たちの悪い行いは、ゆっくりと消滅していきます。もし、私たちが罪の支配から抜け出さないなら、永遠に古い性質や汚れた情欲からは解放されません。
f、聖霊に従って歩んだ結果、私たちは古い性質、古い人の行いを脱ぎ捨てただけではなく、新しい人の行いを着ることができました。聖霊に従うならば、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実を必ず結ぶことができます
(ガラ5:22、23参照)。私たちが聖霊に従って歩む(神中心)なら、自己中心から解放されるのです。
g、律法の要求は必ず達成しなければなりません。それは、自分の努力によって頑張るのではなく、聖霊に従って歩むことによってです(いのちの御霊の原理に生きる)。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ロマ8:2-4)」
h、死ぬべき体がよみがえります。罪に支配され、死ぬべき(神との断絶)である私たちの体は、聖霊に従うことにより、罪に対して自分を死んだ者と見なし、神に対しては生かされた者として、義の器となります。「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。(ロマ6:13)」
i、「死ななければ、生かされません(Ⅰコリ15:36)」聖霊はイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊です。まずイエスを死に導き、その後再び死から復活させたように、私たちをも絶えず導いてくださいます。キリストとともに死に、ともによみがえることを実際に経験させ、私たちのうちにキリストのいのちが絶えず成長していくようにしてくださいます。
ハレルヤ、神の奇しい救いのみわざを賛美しましょう!
(3)聖霊に従って行なう道を歩むには:
A、きちんと決まった時間に行なうデボーションの生活が必須です。
B、聖霊に従う道を歩む意思が必要です。意志さえあれば、何もする必要はありません。しかし真剣に祈ってこの志を神に献げましょう。神の大いなる力がその志を成させてくださり、この新しい生ける道――聖霊に従う道を歩めるように助けてくださいます。
C、キリストは私たちのいのちです。自分に頼らないで、ただ神のみにより頼んで歩みましょう。
D、神はすべてのことを働かせて益とさせ、私たちを御子の似姿に造り変えられます。
私たちは神の絶対的主権を認めなければなりません。神がすべてのことを働かせ、神を愛する人のために益としてくださるということを認めましょう。神の主権を認めるため、私たちはいつも自分を訓練して(特に何かが起こった時)、大きな声で次のように勝利を宣言しましょう。「神は主です。神の許しがなければ何事も私に起こりません。神には絶対に間違いはありません。すべて私に起こることは、私を御子の姿に似る者としてくださるためです。神が問題の答えです。神がこのことを解決してくださいます。…」大きな声で勝利を宣言すると、信仰が増し加えられます(以前の賛美についての学びを参照)。
E、聖霊に従って歩む道は、主の御名を呼び求める道であり、聖霊に頼る道でもあります。「従う」とは聖霊の意思に従うことです。「頼る」とは聖霊の力に頼ることです。祈りを通して、新しいいのちが働き、いのちの道を歩むことができます。求めることによって、聖霊の大いなる力を得ることができます。神の私たちへの要求に直面する時(周囲の環境、聖書のみことば、あるいは、自分の思い、私たちに起こる大小の事柄すべてが、神の私たちへの要求です)、まず受け入れる心で、神の主権を認めましょう。そして次のように主の御名を呼び求めましょう。「主よ、私を救ってください。自分に頼らず、完全にあなたに頼ることができますように。あなたのいのちが私の内でその要求を全うしてください。」私たちがこのように祈った後、頑張る必要はありません。信仰によって神のみわざを仰ぎ見るのです。神ご自身の時があり、即座に解決することもあれば、少し時間を要することもあります。物事が成就しないからといって、自分でしようとしないでください。
例えば、人から誤解された時、「神は主です」、「神は主です」と繰り返して宣言する訓練をしてください。続けてこのように祈りましょう。「主よ、私が弱い者であることをあなたはご存知です。私はとても怒っています。我慢ができません。どうか、私を怒りから救い出してください。」時に、私は習慣的にこう叫びます。「主よ、救ってください。助けてください。私を自分から解放してください。」すると不思議に、神の大いなる力が現れるのです。すぐに、怒りが消えてしまいます。この様に、自分で頑張ろうとはせず、一生懸命怒りを抑えようとしなくとも、古い人の行いからまた一歩解放されるのです。
また、高慢は良くないとわかっていますが、あることで良い評価を受け、内側に高慢が出てきた時には、どうすればいいでしょうか?「主よ、私にはできません。どうぞ、あなたが私を高慢から救ってください。」と主の御名を求める道を歩みましょう。こんなに簡単なことなのです。ですから、主イエスはこう言われました。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです(マタ11:30)」。
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。(詩46:10)」「神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(詩147:10、11)」「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えてやすんだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(へブ4:10、11)」と言われる神の御声を、今日も私たちが聞くことができますように。